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第096話 彼女たちだけは救える

 五人だけを救えるという言葉は、救いではなく選別だった。


 エルヴィアが示した部屋は、小さな制御室だった。


 分類の壁ほど広くはない。


 だが、そこに浮かぶ光は、さらに精密だった。


 五つの線がある。


 セリア。

 ミュール。

 イリス。

 ロゼッタ。

 ナギ。


 名前ではなく、刻印の経路として表示されている。


 聖騎士誓約と奴隷刻印。

 夜爪命令系統。

 魔塔実験印。

 債務契約印。

 剣奴記録と神域鍵。


 それぞれの線が、地下中枢へつながっていた。


「ここから解除できます」


 エルヴィアは言った。


 俺の心臓が強く鳴る。


「完全に?」


「貴方が管理者権限を継げば」


 その条件で、部屋の空気が重くなる。


 エルヴィアは続けた。


「五人の刻印を完全解除できます。再接続も防げます。王国、教会、奴隷商会、魔塔、夜爪、闇闘技場。どの組織も、彼女たちへ命令を通せなくなる」


 それは、俺がずっと欲しかった答えだった。


 セリアを完全に自由にできる。

 ミュールを命令から切り離せる。

 イリスを危険物登録から外せる。

 ロゼッタを債務の拘束から解放できる。

 ナギを死亡予定票から消せる。


 五人だけは、確実に救える。


 その言葉が、頭の中で何度も響いた。


「解放者の家は?」


 ロゼッタが聞いた。


 エルヴィアは、待っていたように別の線を開いた。


 辺境拠点。

 保護対象群。

 登録変更候補。


「保護対象として登録できます」


「保護対象?」


「王国、教会、商会からの強制干渉を遮断します。奴隷狩りも、再売買も、強制徴用も防げる」


 ロゼッタの表情が変わった。


 商人として、彼女はその価値を理解してしまったのだろう。


 辺境の解放者の家。


 俺たちが作った帰る場所。


 そこにいる保護対象を、制度上も守れる。


 それができるなら。


 俺は、そう思ってしまった。


 エルヴィアの提示は、悪魔の契約ではない。


 少なくとも表面上は、現実的な救済策だった。


「代償は」


 ロゼッタが聞く。


「世界全体の登録システムは維持されます」


 エルヴィアは隠さない。


「奴隷制度も?」


「改善は可能です。疼痛制御の緩和、不当売買の制限、所有者資格の厳格化。貴方なら、苦痛の少ない制度へ変えられる」


「でも、所有権登録は残る」


「はい」


 即答。


 その迷いのなさが、俺の胸を抉る。


 五人だけは救える。


 解放者の家も守れる。


 だが、世界全体の檻は残る。


 残るだけではない。


 俺が管理者として、その檻をより優しく運用することになる。


「優しい檻か」


 セリアが低く言った。


「檻に棘が少なければ、中にいる者は幸せだと?」


「棘だらけの檻よりは」


 エルヴィアは答えた。


「外で獣に食われるよりは」


 ミュールが小さく震えた。


 彼女にとって、夜爪も闇も獣だった。


 守られる場所が必要だったことは事実だ。


 だが、保護の名で命令されることもまた、彼女は知っている。


 イリスは制御室の光を見つめていた。


「技術的には、可能です」


 その言葉が、俺に刺さる。


「五人の刻印だけを解除する方が、世界全体を壊すより現実的です。解放者の家の保護登録も、仕組みとしては成立します」


「イリス」


「だから怖いんです」


 彼女は唇を噛んだ。


「これが嘘なら、拒めます。でも、本当にできる。たぶん、できます」


 ロゼッタも目を伏せる。


「契約条件だけ見れば、魅力的です」


「ロゼッタまで」


「魅力的だから危険だと言っています」


 彼女の声は苦い。


「五人の安全、拠点の保護、敵対組織からの遮断。短期的には、これ以上ない条件です」


 俺は五人を見る。


 誰も簡単に拒まない。


 それがつらかった。


 彼女たちは、この選択が現実的だと分かっている。


 俺が迷うことを責めない。


 だから、余計に迷う。


 エルヴィアは静かに言った。


「全員を救うという言葉は、時に誰も救わない無責任になります」


 その言葉は、地下の制御室にまっすぐ落ちた。


 俺は反論したかった。


 全員を救いたいと言うことの、何が悪い。


 そう叫びたかった。


 だが、五人の刻印はまだ残っている。


 解放者の家にも、守るべき人たちがいる。


 世界全体を壊す方法は、まだ分からない。


 それなのに、目の前には五人だけを確実に救う道がある。


 俺は、その道を本気で見てしまった。


 その瞬間、右手が熱を持った。


 制御室の光が、俺へ向かって細く伸びる。


 継承手続き。

 限定管理。

 保護対象登録。

 個別刻印解除。


 文字だけを見れば、どれも救いに見える。


 セリアの線を選べば、聖騎士誓約と奴隷刻印の再接続を切れる。


 ミュールの線を選べば、夜爪の命令系統から完全に外せる。


 イリスの線を選べば、魔塔の実験印を無効化できる。


 ロゼッタの線を選べば、債務契約印を法的にも術式的にも消せる。


 ナギの線を選べば、剣奴記録と死亡予定票を破棄できる。


 それぞれの方法が、頭に入ってくる。


 難しくない。


 いや、難しいのかもしれない。


 でも、俺の手にはできると分かってしまう。


「見ないで」


 イリスが言った。


 声が震えている。


「見れば、理解してしまいます。理解したら、使いたくなる」


「もう、少し分かった」


「だから怖いんです」


 彼女は俺の前に立とうとして、ふらついた。


 セリアが支える。


 刻印は静まっているが、完全には治っていない。


 五人はまだ痛みの後にいる。


 その姿を見てしまうと、制御室の提示がさらに強くなる。


 今すぐ解除できる。


 今すぐ楽にできる。


 今すぐ守れる。


 俺は右手を握りしめた。


 爪が手のひらに食い込む。


 痛みが必要だった。


 自分の痛みで、制御室の甘い光から意識を引き剥がす。


 ロゼッタが言った。


「条件を整理します」


「今?」


「今です。迷う時ほど、条件を書きます」


 彼女は震える指で記録帳を開く。


「利点。五名の刻印完全解除。解放者の家の保護登録。敵対組織からの干渉遮断。短期的安全の確保」


 言葉にされると、魅力が増す。


 ロゼッタは続けた。


「欠点。世界全体の登録システム維持。奴隷制度の根本存続。レオン様の管理者権限受諾。中枢手順への依存。保護対象が保護の名で再分類される危険」


 魅力と危険。


 どちらも本当だ。


 だから苦しい。


「私個人としては」


 ロゼッタはペンを止めた。


「契約条件だけなら、受けたくなるほど魅力的です」


「ロゼッタ」


「だから、私一人の判断で決めてはいけません」


 彼女は俺を見る。


「そして、レオン様一人の判断でも」


 セリアが頷いた。


「現実的な案ほど危険だ。絵空事なら笑える。だが、これは笑えない」


 ミュールが小さく言う。


「ミュールだけ助かるの、嫌」


「ミュール」


「でも、助かりたいのも本当」


 その正直さに、胸が詰まる。


 助かりたい。


 当たり前だ。


 彼女たちは苦しんできた。


 自由になりたいに決まっている。


 それを否定する権利など、俺にはない。


 ナギが制御室の光を見た。


「道がある。だから迷う」


「ない方が楽だったか?」


「うん。でも、ない方がいいとは思わない」


 イリスが静かに続ける。


「技術的には、部分救済です。五人と拠点だけを守るなら、成功率は高い。でも、他の人は残る」


「他の奴隷も、他の実験体も、他の剣奴も」


「はい」


 その言葉で、解放者の家にいる人たちの顔が浮かぶ。


 そして、まだ出会っていない誰かの顔も。


 俺たちだけ救われる。


 それは救いだ。


 同時に、置き去りだ。


 エルヴィアは、その葛藤を責めない。


 ただ待っている。


 彼女にとって、この沈黙こそが答えなのだろう。


 俺が即座に拒めないこと。


 それが、彼女の提示した選択の強さだった。


「選びなさいとは言いません」


 エルヴィアは言った。


「ただ、見てください。貴方が本当に守りたいものを」


 俺は五人を見る。


 全員を救いたい。


 そう思う。


 だが、目の前の五人だけでも確実に救えるなら。


 その考えが、俺の中に確かに生まれていた。


 俺はそれを否定できなかった。


 否定できないことが、何より怖い。


 俺は五人を売りたくない。


 支配したくない。


 命令したくない。


 それは本当だ。


 だが、五人を救いたい。


 苦しみから離したい。


 安全な場所へ置きたい。


 それも本当だ。


 その二つが、今は別々の道ではなく、同じ道の入口に見えている。


 管理者になる。


 その言葉を拒めば、五人の完全な救済を遠ざけるかもしれない。


 受け入れれば、世界の檻を俺が支えることになるかもしれない。


 エルヴィアは、俺が迷うことを知っていた。


 そして、迷う俺を責めない。


 責めないからこそ、逃げ場がなかった。


「今すぐ答えなくてもよいのです」


 彼女は言った。


 だが、その優しささえ、選択を先延ばしにするための檻に見えた。


 俺は答えられなかった。


 答えない沈黙が、制御室の中で重くなる。


 五人だけを救える。


 その誘惑は、もう俺の中に根を下ろし始めていた。


 それを自覚した瞬間、俺は自分が怖くなった。


 救いたい気持ちが、檻の鍵へ変わるかもしれないからだ。


 そして、その鍵を握らせるために、エルヴィアは俺の沈黙を待っていた。



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