第091話 分類の壁
守衛の通路を抜けると、広間に出た。
そこは礼拝堂ではなかった。
祈りのための場所ではない。
壁も床も天井も、文字で埋め尽くされている。
石に刻まれた文字。
光で浮かぶ文字。
消えかけた古い文字。
新しく上書きされた文字。
それらが層になって、巨大な表を作っていた。
「分類表」
イリスが呟いた。
「これは、世界の制度を分類するための壁です」
彼女の声は、興奮よりも恐怖に近かった。
魔塔で膨大な術式を見てきた彼女でさえ、この壁の前では息を呑んでいる。
俺は灯りを掲げた。
最初に読めたのは、奴隷の欄だった。
奴隷。
所有権登録。
命令伝達補助。
売買履歴参照。
逃亡時拘束。
反抗時疼痛。
文字だけで、胸が悪くなる。
ミュールが耳を伏せた。
「書き方が、嫌」
「ああ」
所有。
売買。
拘束。
疼痛。
そこに人の名前はない。
ただ、機能だけがある。
次の欄は勇者だった。
勇者。
高出力戦力登録。
聖剣接続。
民衆信仰集積。
危機時動員。
暴走時封印。
アルベルトの顔が脳裏に浮かんだ。
勇者として持ち上げられた男。
だが、この壁の中では、彼もまた登録された戦力でしかない。
「勇者も、道具なのか」
俺の声に、セリアが低く答えた。
「持ち上げる道具は、落とす時も道具として扱われる」
次は貴族。
貴族。
血統権限登録。
土地支配補助。
相続優先。
統治命令経路。
反乱時資格剥奪。
ロゼッタが目を細める。
「貴族の権利も、血の神聖さではなく権限登録ですか」
「商人としては?」
「腹立たしいですね。血統を盾にする者たちも、結局は登録で守られている。なら、彼らが平民を見下す根拠も、古い術式の承認にすぎない」
彼女の声は冷静だった。
だが、紙を握る手に力が入っている。
次の欄はジョブ。
ジョブ。
職能分類登録。
技能出力制限。
熟練度参照。
転職許可。
逸脱監視。
俺の右手が熱くなる。
ここだ。
俺がずっと触れていた線。
薬師でも、治癒師でも、鍛冶師でもない。
それらを分ける分類の壁。
「レオンさん」
イリスが俺を見た。
「ここ、反応しています」
「分かる」
「触れないでください」
「触れない」
言った直後、手が勝手に伸びそうになった。
知りたい。
なぜ俺がここに反応するのか。
その欲求が、支援術よりも強い。
俺は右手を左手で掴んだ。
セリアがすぐに気づく。
「止めるか」
「まだ大丈夫」
「貴殿の大丈夫は時々信用できない」
「今回は信用してくれ」
「半分だけ信用する」
それで十分だった。
半分は自分で持つ。
半分は仲間に預ける。
次の欄は聖職者だった。
聖職者。
管理補助登録。
信仰経路維持。
誓約監督。
封印儀式補助。
秩序説明。
セリアの顔が険しくなる。
「秩序説明」
その言葉だけで、エルヴィアの姿が思い浮かんだ。
聖女。
大司教。
穏やかな声で、管理を正当化する者。
この壁では、聖職者は神の代理人ではない。
管理を人に納得させるための補助登録。
信仰すら、制度の出力先になっている。
「ひどい」
イリスが小さく言った。
「全部、人が作った制度に見えるのに、実際は古い術式の上で動いている。社会制度そのものが、出力先です」
「つまり、地下の分類が地上の身分になる?」
「はい。たぶん逆でもあります。地上の身分が地下へ登録され、地下の登録が地上の扱いを補強する」
ロゼッタが息を吐いた。
「だから、奴隷契約を一件壊しても制度は残る。契約書を焼いても、登録層が生きていれば別の形で復元される」
その言葉は重かった。
俺たちは何度も檻を壊してきた。
だが、檻を作る壁はここにある。
この分類の壁がある限り、人はまた分けられる。
所有される者。
命令される者。
信じさせる者。
支配する者。
ナギが壁の一番下を見た。
「ここ、空いてる」
彼女が指したのは、他の欄よりも大きな区画だった。
文字は少ない。
だが、線が深い。
管理者。
全登録層干渉権限。
分類変更。
命令経路調整。
所有権再配分。
職能境界操作。
封印起動。
世界契約接続。
俺の右手が焼けるように熱くなった。
壁の「管理者」の文字が、淡く光る。
俺は一歩下がった。
だが、光は追ってきた。
俺を見ている。
いや、俺の中にある何かを照合している。
未分類ではない。
ただのマルチジョブでもない。
この壁は、俺を管理者の欄で読もうとしている。
「違う」
思わず言った。
「俺は管理者じゃない」
壁は答えない。
ただ、光を強める。
五人が俺の前に立つ。
セリアが盾を構える。
ミュールが袖を掴む。
イリスが観測糸を張る。
ロゼッタが記録帳を開く。
ナギが型を作る。
分類の壁は、俺の右手に反応している。
次に分かるのは、その反応の正体だった。
だが、その前に俺たちは壁全体を見なければならなかった。
イリスが灯りを高く掲げる。
分類表は、ただ横に並んでいるだけではなかった。
奴隷の欄から、貴族の欄へ細い線が伸びている。
所有権登録と、血統権限登録。
つまり、誰が所有するかと、誰が所有できるかは同じ仕組みでつながっている。
勇者の欄から、聖職者の欄へも線がある。
聖剣接続。
信仰集積。
秩序説明。
勇者を民衆に信じさせるために、聖職者が必要になる。
ジョブの欄からは、ほぼすべての欄へ細い線が伸びていた。
奴隷にされた者の職能。
勇者に求められる職能。
貴族が許可する職能。
聖職者が認定する職能。
ジョブは個人の才能ではなく、社会の中でどこに置かれるかを決める線でもある。
「これ、制度の根です」
イリスが言った。
「地上では別々に見えていたものが、ここでは全部接続されている」
ロゼッタが壁を見上げた。
「商会の契約も、貴族の血統も、奴隷契約も、勇者認定も。別々の法律で動いていると思っていました」
「違うのか」
「表向きは違います。でも、地下では同じ帳簿に載っている」
帳簿。
ロゼッタの言葉は、この壁によく似合った。
人の人生を巨大な帳簿へ記入し、分類し、権限を割り振る。
利益と損失の代わりに、自由と命令が記録されている。
「ここを壊せば終わるのか」
俺が言うと、イリスはすぐには答えなかった。
「分かりません。壊せば地上の制度が混乱する可能性があります。奴隷契約だけでなく、ジョブ認定や貴族権限、勇者封印まで同時に崩れるかもしれない」
「それは悪いことか?」
「分からないんです」
イリスの声が苦しげになる。
「悪い制度が崩れるのはいい。でも、薬師の資格や治癒師の認定まで一緒に消えたら、助かる人が助からなくなるかもしれません。貴族権限が崩れれば、領地の命令系統が止まるかもしれない。勇者封印が崩れれば、暴走した聖剣がまた動くかもしれない」
壁は檻だ。
だが、檻の一部は社会の柱にもなっている。
だからこそ、厄介だ。
壊せばいい。
そう言い切るには、この壁はあまりにも多くを支えている。
セリアが盾を握る。
「だからといって、奴隷を所有権登録として残していい理由にはならない」
「もちろんです」
イリスは即答した。
「でも、壊し方を間違えると、助けたい人まで巻き込む」
その言葉は、俺の胸に刺さった。
助けたいのに、巻き込む。
まさに俺が恐れていることだ。
ミュールが壁の奴隷欄を睨んだ。
「なら、ちゃんと壊す」
「どうやって」
「分からない。でも、ちゃんと」
ミュールらしい乱暴な答えだった。
だが、その乱暴さに救われる時がある。
分からないから諦めるのではない。
分からないから、ちゃんと調べて壊す。
ナギが管理者欄の下を指した。
「管理者の欄、空白がある」
見ると、確かに文字のない部分があった。
削られたのではない。
最初から誰かを待つように空いている。
俺の右手の熱が、そこへ引かれる。
まるで、名前を書けと言われているようだった。
「書くな」
セリアが低く言った。
「書かない」
「貴殿の顔が、少し引かれていた」
「見逃してくれないな」
「見逃すために隣にいるのではない」
その言葉に、俺は右手を下ろした。
分類の壁は、俺に場所を用意している。
それは歓迎ではない。
分類だ。
俺はその場所へ入ってはいけない。
少なくとも、何も知らないままでは。
ミュールが壁から半歩離れた。
「この壁、名前を食べる感じがする」
「名前を?」
「うん。名前を分類に変える。ミュールって呼ばれても、壁は夜爪って読む。ナギって呼ばれても、剣奴って読む」
ナギが頷いた。
「なら、壁の前では何度でも名乗るしかない」
ロゼッタが記録帳に書き込む。
「分類の壁。人名より登録属性を優先。自称名は補助情報扱い」
「嫌な記録だな」
「嫌なものほど正確に書きます」
この壁をいつか壊すなら、まず正確に知らなければならない。
怒りだけでは、古い術式は止まらない。
怒りを持ったまま、読む。
それが地下での戦い方だった。




