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第085話 境界に触れる力

 ジョブを分けている線に触れている。


 イリスの言葉は、部屋の中に長く残った。


 俺は右手を見た。


 いつもの手だ。


 剣だこもない。


 魔導師のような術式痕もない。


 聖職者の祈りの印もない。


 追放される前は、荷物を運び、鍋を洗い、薬草を刻み、装備を直し、馬車の車輪を締めるための手だった。


 誰にも褒められなかった雑用の手。


 その手が、ジョブを分ける線に触れている。


「説明します」


 イリスが紙を並べた。


 彼女の声は震えていなかった。


 怖がっていないわけではない。


 怖いからこそ、言葉にしている。


「普通、ジョブは登録層で分類されます。薬師なら薬師。治癒師なら治癒師。鍛冶師なら鍛冶師。人は一つ、または少数の分類へ強く結びつく」


「俺は?」


「レオンさんは、分類そのものへの結びつきが薄いです」


「薄い?」


「はい。薬師として登録されているから薬師の力を使うのではなく、薬師という分類の境界に触れて、必要な機能だけを引き出している」


 イリスは丸と丸の間をなぞる。


「治癒師も同じ。鑑定士も、鍛冶師も、斥候も。だから同時に少しずつ使える。けれど、それは複数のジョブを所有しているというより、ジョブを分ける柵の間から手を入れている状態です」


「泥棒みたいだな」


「表現は悪いですが、仕組みとしては近いです」


 容赦がない。


 だが、イリスが遠慮しないでくれることがありがたかった。


「たとえば、セリアさんの盾を直した時」


 イリスは過去の記録をめくる。


「あの時、レオンさんは鍛冶師の修理技術だけでなく、聖騎士装備の誓約構造も無意識に避けています。普通の鍛冶師なら、呪印の干渉で失敗していた可能性が高いです」


 セリアが盾を見る。


「つまり、貴殿は私の呪いを壊さずに、呪いの周囲だけを直したのか」


「はい。境界を読んでいたからできたのだと思います」


「ミュールの場合は?」


 ミュールが自分の首元に触れる。


「腐食毒の応急処置。薬師なら毒を中和し、治癒師なら傷を塞ぐ。でもレオンさんは、夜爪の命令刻印が毒の進行を利用していた部分だけを外しました」


「だから、生きた」


「はい」


 ミュールは短く言った。


「それなら、怖いけど、悪いだけじゃない」


 その一言に、少し息ができた。


 悪いだけではない。


 だが、良いだけでもない。


 力はいつも、その間にある。


「ただし、レオンさんは奪っているわけではありません。ジョブ機能の共通部分を引き出しているだけです。だから、これまで誰かの力を減らしたり、壊したりはしていない」


「これまでは、だろ」


 イリスは答えなかった。


 それが答えだった。


 ロゼッタが帳面を開く。


「危険なのは、同じ理屈が人の登録にも通じる可能性です」


「ジョブだけじゃなく、奴隷刻印や聖騎士誓約にも?」


「はい。王都の地下で分かった通り、それらは同じ古代術式の上に作られています。レオン様が境界に触れる力を持つなら、分類の境界だけでなく、所有権や命令権の境界にも触れるかもしれません」


 所有権。


 命令権。


 嫌な言葉だった。


 俺は五人を見た。


 セリア。


 ミュール。


 イリス。


 ロゼッタ。


 ナギ。


 俺は彼女たちを助けてきた。


 命令しない主人でいようとした。


 だが、もし俺の手が、命令権の境界に触れられるなら。


 俺は知らないうちに、触れてはいけない場所へ触れていたのかもしれない。


「レオン様」


 ロゼッタが静かに言った。


「ここで大事なのは、過去の行動を全部悪にしないことです」


「でも、危険だった」


「危険でした。ですが、危険だったから価値がないわけではありません。商取引でも同じです。無効な契約と、危険を伴う契約は違います。前者は破棄すべきもの。後者は条件を明確にすべきものです」


「俺の力は、条件付きで使うべきものだと」


「はい」


 ロゼッタはペンを置いた。


「善意は、条件を書かない契約になりがちです。助けたいから助ける。守りたいから守る。それは美しいですが、相手の意思を抜いた瞬間に危うくなる」


 俺はロゼッタの言葉を受け止めた。


 助けたい。


 それは本当だ。


 だが、助けたいという気持ちが強いほど、相手の「やめて」を聞き落とすかもしれない。


 俺が怖がるべきなのは力そのものだけではない。


 善意で押し切る自分だ。


「レオン」


 セリアが静かに言った。


「剣は人を守る。だが、人を殺すこともできる」


「分かってる」


「いや、今の貴殿は分かっているのではなく、怖がっている」


 その言葉に、俺は息を止めた。


 セリアは続ける。


「怖がることは悪くない。危険な力を怖がらない者に、力を預けるべきではない。だが、怖いから捨てると言うなら、それもまた無責任だ」


「使えってことか」


「誓えということだ」


 セリアの声は、かつての聖騎士そのものだった。


「剣も、盾も、力も危険だ。だからこそ、何のために使うかを誓う。貴殿が命令しない主人であるなら、その力にも命令しないための誓いが必要だ」


 ミュールが頷いた。


「レオンが変になったら、ミュールが止める」


「どうやって」


「噛む」


「物理か」


「物理は信頼できる」


 真面目な顔で言うから、少しだけ笑ってしまった。


 ミュールも笑わない。


 でも、耳がほんの少し緩んでいた。


「冗談じゃない。レオンの匂いが変わったら止める。命令する匂いになったら、絶対に」


「分かった」


 ロゼッタがペンを走らせる。


「では、ルール化します」


「早いな」


「早くしないと、怖さは気分で薄れます」


 彼女は紙に項目を書いた。


 一、支援術が刻印下層へ触れる可能性がある場合、本人の明確な同意を必要とする。


 二、同意は一回限りとし、状況が変われば再確認する。


 三、可能な限り第三者が観測する。


 四、使用後は記録を残す。


 五、本人が拒否した場合、レオンは使用しない。


「私たちは、レオン様を疑っているのではありません」


 ロゼッタは紙から目を上げた。


「疑わなくて済む仕組みを作るのです」


 その言葉に、胸が詰まった。


 信頼とは、何でも任せることではない。


 相手を一人きりの主人にしないことでもある。


 ナギが壁にもたれたまま言った。


「境界に触れるなら、境界の向こうも見えるはず」


「向こう?」


「門のこちら側だけを知っている者は、門を開けられない。レオンの手が鍵なら、向こうに何があるかも少しは感じる」


「それが地下中枢か」


「たぶん」


 ナギは目を伏せる。


「怖いなら、見なくていい。でも、見ないまま進むと斬られる」


 彼女らしい言い方だった。


 怖さを否定しない。


 だが、怖いものから目をそらせば死ぬ。


 俺はもう一度、自分の手を見た。


 この手で、薬を作った。


 この手で、盾を直した。


 この手で、刻印に触れた。


 この手で、檻を開けた。


 助けてきた。


 そう信じたい。


 だが、信じたいだけでは足りない。


 俺は、助けるための手を、支配の手にしないためのルールを持たなければならない。


 セリアの盾が、俺の視界の端で光った。


 あれは守るための道具だ。


 だが、盾で人を押しつぶすこともできる。


 ミュールの爪は誰かを裂ける。


 イリスの魔法は街を焼ける。


 ロゼッタの契約は人を縛れる。


 ナギの刀は命を断てる。


 それでも、彼女たちは自分の力を捨てていない。


 捨てるのではなく、選んでいる。


 誰へ向けるか。


 どこで止めるか。


 何のために使うか。


 俺だけが、怖いからといって手を隠していればいいわけではない。


「俺は」


 声が少し詰まった。


「俺は、助けていたのか」


 五人は黙って聞いていた。


「それとも、触れてはいけない場所に触れていたのか」


 答えは、まだない。


 だからこそ、次の一歩を雑に踏んではいけない。


 イリスが記録紙をまとめた。


「次に必要なのは、実地での確認です」


「地下へ行くってことか」


「はい。ただし、今日の結論を持っていきます。レオンさんの力は、便利な万能能力ではありません。境界に触れる危険な力です。だからこそ、使う時は条件を決める」


 ロゼッタが同意書の余白に線を引く。


「明日の再鑑定までに、運用規約を作りましょう」


「ずいぶん急だな」


「危険な力ほど、後回しにしない方がいいので」


 少しだけ笑いが漏れた。


 怖いから止まるのではない。


 怖いから、ルールを作って進む。


 それは、俺が一番苦手だったことかもしれない。


 勇者パーティにいた頃、俺はいつも先回りしていた。


 言われる前に水を用意する。


 頼まれる前に荷物をまとめる。


 怒鳴られる前に失敗を埋める。


 誰かの意志を聞くより先に、必要そうなことをする。


 それで生き延びてきた。


 だが、今の俺がそれを続ければ、善意の先回りが命令に似てしまう。


 だから、聞く。


 待つ。


 返事を受け取る。


 その遅さを、恐れない。


 速く救うことだけが、救いではない。


 相手が自分で選ぶ時間を残すこと。


 その時間を奪わないこと。


 境界に触れる力を持つなら、まずその境界から守らなければならない。


 誰かの自由と、俺の善意との境界を。


 その線を踏み越えた瞬間、救いは支配に変わる。


 俺はそれを、忘れない。


 絶対に。

誰かの自由と自分の善意の境界を踏み越えた時、救いは支配に変わります。

レオンはその線を忘れないと決めました。

少しでも続きが気になったら、ブックマーク・評価・いいねで応援していただけると励みになります。


業務連絡

※79話連投して80話が落丁してしまっていました。申し訳ございません。修正いたしましたのでご確認いただければと存じます。

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