表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
86/145

第086話 命令ではなく同意

 その夜、俺は支援術を使えなかった。


 使わなかった、ではない。


 使えなかった。


 夕食の後、セリアが盾の革紐を直していた。いつもなら俺は何も考えず、指先に鍛冶師と革職人の感覚を重ねて、ほつれた部分を補強しただろう。


 ミュールが窓の外を警戒し続けて、肩をこわばらせていた。いつもなら、疲労を抜くための軽い治癒を入れたかもしれない。


 イリスは今日覚えた文様を紙に起こし続け、目の下に影を作っていた。


 ロゼッタは証拠保全の写しを三系統に分ける手順を組み、何度も封筒の並びを変えていた。


 ナギは刀の手入れをしながら、石畳の鍵紋を空中でなぞっていた。


 全員、疲れている。


 だから助けたいと思った。


 けれど、その瞬間に手が止まる。


 この支援は、どこへ触れる。


 表面の疲労か。


 ジョブの境界か。


 刻印の下層か。


 分からない。


 分からないから、怖い。


 怖いまま、何もしないでいると、別のものが溜まっていく。


 沈黙だ。


 セリアは革紐を引き直すたびに、俺をちらりと見る。


 ミュールは肩を回しながら、何も言わない。


 イリスは文様を書き間違えて、紙を一枚丸めた。


 ロゼッタは封筒の封蝋を押す手を止め、深く息を吐いた。


 ナギは刀油の瓶を閉め忘れたまま、鍵紋の形を空で追っている。


 みんな、俺に気を遣っていた。


 それが一番痛かった。


 命令しないために力を使わない。


 その選択が、逆に五人へ遠慮を強いている。


 俺は、また別の形で彼女たちを黙らせているのかもしれない。


「レオン」


 セリアが盾から顔を上げた。


「こちらへ来い」


「何だ」


「革紐が固い」


「直せってことか?」


「違う」


 彼女は盾を置き、俺を見る。


「支援を受けるかどうかも、戦士の判断だ」


 その言葉に、部屋の空気が少し変わった。


「私は今、貴殿の支援を受けたい。理由は、明日以降の戦闘で盾の保持が乱れると危険だからだ。私はその危険と、貴殿の力の危険を比べた上で、受けると判断している」


「でも」


「貴殿が怖いのは分かる。だが、怖いから私の判断を奪うな」


 言葉は厳しかった。


 でも、必要な厳しさだった。


 俺はセリアに触れるのが怖いのではない。


 自分が間違えるのが怖い。


 その怖さを理由に、セリアの選択を止めようとしていた。


「使っていいか」


 俺は聞いた。


 セリアは頷く。


「許可する」


「支援する。革紐の補修だけ。身体と刻印には触れない」


「了承した」


 俺は盾の革紐に触れた。


 鍛冶師ではない。


 革職人でもない。


 その境界へ、必要な分だけ意識を伸ばす。


 深く潜らない。


 セリアの手に触れない。


 刻印を見ない。


 革の繊維だけを読む。


 数秒で補修は終わった。


 何も暴走しない。


 セリアの刻印も反応しない。


 ただ、革紐の繊維が締まり、金具の歪みがわずかに戻った。


 それだけだ。


 たったそれだけの支援なのに、俺の背中には汗が滲んでいた。


 セリアは盾を持ち上げ、重さを確かめる。


「問題ない。むしろ以前より扱いやすい」


「刻印は?」


「沈黙している」


 その言葉が、今は何よりありがたかった。


 俺は息を吐いた。


「できた」


「見事だ」


「大げさだろ」


「いいや。貴殿は今、命令ではなく同意で力を使った」


 ミュールが手を上げた。


「次、ミュール」


「何をする」


「肩が固い。見張りで」


「治癒か?」


「違う。ミュールが『いる』って言ったら、軽く使って。いらない時は、ミュールが言う」


 ミュールは俺の前に座る。


 背中を向けるのは、彼女にとって簡単なことではない。


 暗殺者として育てられた者が、背中を預ける。


 それは同意書よりもはっきりした同意だった。


「使っていいか」


「いる」


「肩の疲労だけ。刻印には触れない」


「うん」


 微弱な治癒を流す。


 ミュールの身体が一瞬だけ強張り、それからほどけた。


「止めるか?」


「止めない。今の、いい」


「何か変な感じは?」


「命令の匂いはない」


 その言葉に、俺は少し救われた。


 ミュールは肩を回し、首を傾ける。


「でも、レオンの匂いは怖がってる」


「そこまで分かるのか」


「うん。怖がってる。でも、逃げてない」


 彼女は振り向かずに言った。


「それなら、ミュールは背中を預けられる」


 その一言は、刃物より鋭く胸に入って、薬より早く温かくなった。


 イリスが恐る恐る手を上げる。


「私も、観測したいです」


「受けるんじゃなくて?」


「両方です。怖いですけど、見えないまま放置される方がもっと怖いので」


 イリスらしい。


 恐怖から逃げるのではなく、恐怖を解析する。


 彼女は自分の手首に観測用の糸を巻いた。


「使ってください。目の疲労を少しだけ。魔力炉には触れないでください」


「分かった。目の疲労だけ」


 支援を流す。


 イリスの周囲に細い光が浮かび、すぐ消えた。


「下層反応なし。表層治癒のみ。記録します」


 イリスはほっとした顔をしたあと、すぐに観測結果を書き始めた。


「面白いです」


「面白いのか」


「怖いです。でも、面白いです。支援の前に言葉で範囲を決めると、術式の流れも細くなる。たぶん、レオンさんの意識だけではなく、受ける側の認識も境界を作っています」


「つまり?」


「同意は気持ちだけではなく、術式上の境界にもなる可能性があります」


 それは小さな発見だった。


 だが、王都の地下へ降りる前に、俺たちが得た最初の武器でもあった。


 ロゼッタがすかさず書き込む。


「同意は一回きりではありません」


 彼女は俺を見た。


「今、許可したから次も許可される、ではありません。状況が変われば、同意は更新する」


「分かってる」


「分かっていても、書きます。契約は、分かった気持ちを紙に残すためにあります」


 ロゼッタは自分の肩を軽く回した。


「私にもお願いします。手首の疲労だけ。契約印には触れないでください」


「使っていいか」


「はい。今この条件で同意します」


 支援は短く終わった。


 ロゼッタは手首を動かし、頷く。


「良好です。記録上も問題ありません」


 彼女はそのまま同意書の余白に追記した。


「口頭確認、対象部位、禁止範囲、実施後確認。最低限この四つは毎回必要ですね」


「戦闘中は無理じゃないか」


「戦闘中の簡略文も作ります」


「そこまで?」


「そこまでです。命を守るための手順は、短く、覚えやすく、間違えにくくなければなりません」


 ロゼッタは少しだけ笑った。


「契約も戦闘も、長すぎる文は負けます」


 最後に、ナギが刀を置いた。


「私も」


「どこを?」


「指。鍵紋をなぞりすぎた」


 彼女は右手を差し出す。


 細い指。


 剣を握るために鍛えられた、静かな手。


「道連れは、手を取る時も選ぶ」


 ナギは言った。


「だから聞いて」


「使っていいか」


「いい」


「指の疲労だけ。神域鍵にも、刻印にも触れない」


「うん」


 俺は微弱な支援を流した。


 ナギの指先が少し温かくなる。


 その瞬間、五人の刻印が、かすかに光った。


 セリアが盾に手を伸ばす。


 ミュールの耳が立つ。


 イリスが観測糸を見る。


 ロゼッタがペンを止める。


 ナギが息を止める。


 俺も支援を切ろうとした。


「待って」


 イリスが言った。


「暴走じゃありません」


 光は深く潜らなかった。


 刻印の表面だけを、静かになでるように通り過ぎる。


 痛みを呼ばない。


 命令を呼ばない。


 ただ、熱だけが少し引いていく。


「下層反応なし。表層安定」


 イリスの声が震えた。


「同意があると、反応が浅い」


 部屋の中で、誰もすぐには喋らなかった。


 命令ではなく同意。


 それは気持ちの問題だけではなかった。


 術式の深さにまで、違いが出る。


 俺は五人を見た。


「これから支援する時は、必ず聞く」


 自分の声で言う。


「使うぞ、じゃない。使っていいか、と聞く」


 セリアが頷いた。


 ミュールが耳を揺らした。


 イリスが記録を取った。


 ロゼッタが同意書を畳んだ。


 ナギが小さく笑った。


 地下へ降りる前に、俺たちは一つだけ確かめた。


 俺の力は危険だ。


 だが、命令しない使い方はある。


 そして、その使い方は俺一人では完成しない。


 聞く者がいて、答える者がいる。


 止める者がいて、記録する者がいる。


 怖いと言える者がいて、それでも受けると選ぶ者がいる。


 それは主人と奴隷の形ではない。


 戦友の形だった。


 翌日の地下行きは、まだ危険なままだ。


 第零礼拝堂の封印も、王都地下管理局の監視も、俺の手に反応した熱も消えていない。


 けれど、俺たちは一つだけ持っていける。


 命令ではなく同意。


 世界の底にある檻が、どれほど古い命令でできているとしても。


 俺たちは、その反対側の言葉を持って地下へ降りる。


 それは小さな言葉だ。


 使っていいか。


 ただ、それだけ。


 けれど、その一言を忘れない限り、俺はまだ主人ではなく、隣に立つ者でいられる。


 そう信じて、夜を越えた。


 明日、地下の扉が何を問いかけてきても、その一言から始める。


 命令ではなく、同意から。


 それが俺たちの合図だ。


 地下へ向かうための。

五人は、支援を受けるかどうかも自分で選ぶと示しました。

地下へ向かう合図は、命令ではなく同意から始まります。

少しでも続きが気になったら、ブックマーク・評価・いいねで応援していただけると励みになります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ