第083話 第零礼拝堂
旧市街は、王都の中でいちばん古い顔をしている。
大通りのような華やかさはない。
王城前のような整った広さもない。
石畳は所々で沈み、建物の壁は増築を重ねて歪み、路地はまっすぐ進む気が最初からないように曲がっている。
人の暮らしが長く積もった場所だった。
その足元に、第零礼拝堂がある。
そう考えるだけで、石畳の一枚一枚が口を閉ざした古い証人に見えた。
「現在の地図では、この倉庫街です」
ロゼッタが小さく畳んだ地図を袖の内側で開く。
「ですが、百年前の地図では旧礼拝堂。その前の地図では、文字が潰れています。さらに古い写しだと、第零礼拝堂と読める」
「礼拝堂なのに、教会の記録にはないのか」
「ありません。少なくとも公開記録には」
ロゼッタの言い方は冷静だった。
だが、冷静であればあるほど異常さが際立つ。
王都の教会は、寄付金の少額な礼拝所まで記録する。
それなのに、第零礼拝堂だけがない。
最初から存在しなかったことにされたのか。
それとも、存在を消す必要があったのか。
「礼拝堂を消すには、二つ方法があります」
ロゼッタは地図を畳み直しながら言った。
「一つは、建物を壊すこと。もう一つは、名前を変えることです」
「ここは後者か」
「両方です。建物は失われ、名前は別の用途に上書きされています。倉庫街、共同井戸、地区保管所。どれも実務的で、誰も由来を気にしない名前です」
王都は古いものを大切にする街だと思っていた。
大聖堂の尖塔。
王城の白壁。
英雄像が並ぶ広場。
だが、それは見せたい古さだけだ。
見せたくない古さは、倉庫の床下に押し込められる。
俺たちは、そういう場所を探している。
「巡回は?」
俺が聞くと、ミュールが路地の影へ目を向けた。
「表の巡回兵が二人。地下管理局の職員が一人。あと、見物人のふりをした人が三人」
「多いか?」
「多く見せて少ない。ここへ来ると思ってる。でも、今日入るとは思ってない」
ミュールの耳が小さく動いた。
「それと、地下管理局の人、巡回兵より偉そう」
セリアが眉を寄せた。
「王都の治安を預かる巡回兵より、地下の役人が偉そうにしているのか」
「そう」
「気に入らんな」
「セリアが気に入らないもの、増えてる」
「貴殿らといると、世の中の不正がよく見える」
その言葉は冗談のようで、冗談ではなかった。
俺たちは倉庫街の入口で足を止めた。
昼下がりの旧市街には、荷車を押す男、洗濯物を抱えた女、道端で豆を売る老人、走り回る子どもがいる。
その中で、セリアは目立つ。
だから彼女は、あえて前へ出すぎず、俺たちの少し横を歩いた。
人の流れを乱さず、それでいて誰かが急に近づけば一歩で割り込める位置。
盾を構えない前衛。
それが今の彼女の役目だった。
道端の老人が、豆の袋を並べながら俺たちを見た。
「観光かい」
ロゼッタが自然に微笑む。
「古い井戸の位置を見ています。商会で水路の記録が必要になりまして」
「井戸なら、そこの奥だよ。けど使えん。地下の役所が蓋をした」
「地下の役所?」
「灰色の連中さ。昔は子どもが落ちるからって言ってたが、そんなに深い井戸じゃなかった。蓋をした後の方が、巡回が増えた」
老人は豆を量りながら、何でもないことのように言った。
この街の人々は、異常を日常として受け入れている。
なぜ蓋をしたのか。
なぜ巡回が増えたのか。
なぜ誰も中を見ないのか。
そういう問いは、暮らしの中で少しずつ削られていく。
ロゼッタは豆を一袋買い、礼を言って離れた。
「井戸も候補に追加します」
「倉庫、井戸、旧礼拝堂跡。入口を複数にしているのか?」
「もしくは、入口だった場所を複数潰しているのかもしれません」
「レオン」
イリスが小声で言った。
「支援は使わないでください」
「分かってる」
「完全に使わない、ではなく、反射で使わないようにしてください。危険があった時、いつもの癖で身体強化を入れると、入口の封印が反応するかもしれません」
「それは難しいな」
「難しいから、言っています」
イリスは真面目だった。
俺が誰かを助けようとする時、支援術はもう癖になっている。
だが、その癖が地下中枢の鍵になるなら、焦りは命取りだ。
「抑える」
「はい。抑えてください。必要になったら、私が言います」
そう言われると、不思議と楽になった。
一人で抑えるのではない。
見ていてくれる者がいる。
それだけで、力を使わないことも選択になる。
ナギがふと立ち止まった。
場所は、倉庫と古い井戸の間だった。
石畳の一枚に、ほとんど消えかけた傷がある。
普通なら、荷車の車輪跡にしか見えない。
だが、ナギは膝をつき、その線を指でなぞらずに見つめた。
「ここ」
「鍵紋か?」
「似ている。東雲では、門に触れる前に足を置く印」
ナギは石畳に触れなかった。
触れずに、指の影だけで線を追う。
「右足を置いて、左手で空を切る。けれど、これは東雲の型より古い。逆向きに刻まれている」
「逆向きだと、何が違う」
「開く型ではない。閉じる型」
ナギの答えに、背筋が冷えた。
「外から入る者を通すのではなく、中から出るものを止めるための型。東雲で習った形は、その逆だった。たぶん、後の時代に変えられている」
「何かを封じた後、鍵の使い方だけ残った?」
「かもしれない」
ナギは淡々と言った。
しかし、その横顔は硬い。
彼女の一門が守っていたものは、神聖な門だったのか。
それとも、誰かを閉じ込める檻だったのか。
まだ答えはない。
イリスが少し離れた場所に立ち、目を細めた。
「触れないでください。術式が眠っています」
「見えるのか」
「見えます。いえ、見えないのに、あるのが分かる感じです」
イリスは額に汗を浮かべていた。
彼女は魔力を流していない。
ただ、古文書庫で覚えた文様と、石畳に残る鍵紋を頭の中で重ねている。
「線が地下へ落ちています。表面の石畳はただの蓋です。でも、下に封印の流れがある」
「入口か」
「入口候補です。今開けるのは無理です」
ロゼッタが地図を見比べる。
「この位置、旧地図の中央ではありません。礼拝堂なら祭壇があったはずの場所から少し外れています」
「なぜ外す?」
「本当の入口を祭壇に置くと分かりやすいからです」
ロゼッタは唇を引き結んだ。
「隠す側の発想ですね」
その時、近くの倉庫の扉が開いた。
灰色の外套を着た男が一人、木箱を抱えて出てくる。
地下管理局の職員。
袖には崩した文字の印。
彼は俺たちを見た。
見たが、何も言わなかった。
ただ一瞬だけ、ナギの足元と、俺の手を見た。
ぞっとした。
相手は鍵紋を知っている。
そして、俺がそれに反応する可能性も知っている。
「移動しましょう」
ロゼッタが静かに言った。
「ここで立ち止まり続けるのは不自然です」
俺たちは歩き出した。
ナギは最後に一度だけ、石畳を見た。
その目は、闘技場の檻を見ていた時とは違う。
もっと遠いものを見ていた。
「ナギ」
「大丈夫」
「本当に?」
「分からない。でも、逃げたい感じではない」
それは彼女にとって、大きな言葉だった。
逃げたいのではなく、知りたい。
死に場所を探していた剣奴が、失った一門の意味を知ろうとしている。
それだけで、第零礼拝堂へ降りる理由は一つ増えた。
路地を抜ける直前、イリスが足を止めた。
「待ってください」
「どうした」
「封印が、今、反応しました」
誰も石畳に触れていない。
ナギも鍵紋から離れている。
俺も支援術を使っていない。
「誰に反応した」
イリスは俺の手を見た。
俺の手の甲に、薄い熱があった。
見ると、皮膚の下で淡い線が一瞬だけ浮かび、すぐに消えた。
ナギの鍵紋ではない。
東雲流の型でもない。
封印は、俺にも反応していた。
「レオン様」
ロゼッタの声が硬くなる。
「地下へ入る前に、貴方の力をもう一度調べる必要があります」
俺は自分の手を握った。
何かを開ける鍵。
それが救いの鍵なのか。
それとも、檻を管理するための鍵なのか。
まだ分からなかった。
俺は右手を背中側へ隠した。
隠しても熱は消えない。
むしろ、見ないことで余計にはっきり分かる。
皮膚の下にある線が、石畳の下の線と呼び合っている。
呼び声は言葉ではなかった。
許可でもない。
命令でもない。
ただ、照合される感覚。
お前は何に登録されている。
お前はどこへ属している。
お前は通行を許された者か。
そう問われている気がした。
俺はその問いに、まだ答えを持っていない。
旧市街の路地を抜けると、王都の鐘が鳴った。
いつもなら、時刻を知らせるだけの音だ。
だが今は、地下から響いているように聞こえた。
地上の人々は何も変わらず歩いている。
その足元にあるものを知らない。
俺たちも、まだ知らない。
けれど第零礼拝堂は、もうこちらを見つけている。
入口を探しているつもりだった。
だが、本当は違うのかもしれない。
入口の方が、俺たちの中にある鍵を探していた。




