表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
81/145

第081話 地下へ降りる前に

 扉の外にいる者は、入ってこなかった。


 ただ、そこにいた。


 足音も立てず、咳払いもせず、古文書庫の扉一枚を挟んだ向こうで、こちらの呼吸を数えているように静かだった。


 王都ギルド支部の古文書庫は、昼でも薄暗い。分厚い石壁に囲まれ、窓は高く、外の光は埃を浮かせる程度にしか届かない。


 その薄闇の中で、イリスが抱えた古文書だけが、妙に重く見えた。


 管理中枢は、王都の下に眠る。


 その一文を読んだ瞬間、俺たちは聖剣を止めても戦いが終わっていないことを理解した。


 聖剣を止めた。


 勇者を封印した。


 公開裁判で勝った。


 五人が、自分の意志で俺の隣にいると証言した。


 それでも、世界の底にはまだ何かがある。


 人を登録し、分類し、命令を通すための古い仕組み。


 俺たちが壊したと思っていた檻は、地上に見えていた鉄格子にすぎなかった。


「人数は?」


 俺が小声で問うと、ミュールが耳を伏せたまま答えた。


「扉の前に一人。廊下の角に二人。階段の下に一人。外の馬車寄せに、たぶん二人」


「多いな」


「殺す気なら少ない。見張る気なら、多い」


 その言い方が、かえって嫌だった。


 相手は、ここで俺たちを襲うつもりではない。


 何を読んだか。


 何を持ち出すか。


 誰に渡すか。


 それを知るために待っている。


 セリアが盾を持つ手を少しだけ下げた。戦う構えではなく、全員の動線を守る位置へ立つ。


「ここで斬り抜けるべきではないな」


「意外だ。止める側か」


「貴殿は私を何だと思っている」


「正面突破を止めない聖騎士」


 セリアは真面目な顔のまま、わずかに眉を動かした。


「正面突破は、正面に道がある時にするものだ。今は道ではなく、穴だ」


 穴。


 その言葉に、全員の視線が床へ落ちた。


 王都の下。


 古代制御層。


 管理中枢。


 分かったからといって、今すぐ降りていい場所ではない。


 イリスが古文書を閉じようとして、指を止めた。


「待ってください。閉じる前に、必要な文様だけ写します」


「写す余裕があるか?」


「全部は無理です。でも、目で覚えられる形があります。登録番号の横にある印。聖騎士誓約、奴隷契約、勇者認定、ジョブ認定に共通していた印です」


 イリスは紙を広げず、古文書の端に指を滑らせた。


 羽根ペンを使わない。


 インクも落とさない。


 ただ見て、覚える。


 彼女の唇がかすかに動いている。文様の線を、音のない呪文のように頭の中で分解しているのだろう。


 ナギが、その様子を横から見ていた。


「その印、東雲の鍵紋に似ている」


「鍵紋?」


 俺が聞き返すと、ナギは刀の柄に触れた。


「一門に伝わる封印の型。神域へ入る時、門に触れる指の順番がある。似ている、というだけ。だが、線の向きが同じ」


「東方の剣術と、王都の地下中枢がつながるのか?」


「分からない。ただ、東雲流は闘技場の剣ではない。もっと古い場所を守るための型だったと、師は言っていた」


 ナギの声は静かだった。


 だが、その静けさの奥に、細い震えがあった。


 一門壊滅。


 闇闘技場。


 剣奴。


 彼女が失ったものの中に、この地下へ至る鍵が混ざっていたのだとしたら。


 俺たちはまた、誰かが壊した過去の上を歩くことになる。


「レオン様」


 ロゼッタが帳面を閉じた。


「証拠を一か所に集めるのは危険です」


「古文書を持ち出すか?」


「いいえ。持ち出せば、こちらが窃盗犯にされます。必要なのは、写しと証言と、所在記録です」


 彼女はすでに手を動かしていた。


 古文書の題名。


 棚番号。


 閲覧時刻。


 立会人になり得るギルド職員の名前。


 参照番号。


 共通印の位置。


 それらを短い符号で帳面に刻んでいく。


「この帳面は私が持ちます。写しの一部はイリス様の記憶。文様の方向はナギ様。監視者の位置はミュール様。古文書庫へ入った正当性はセリア様の証言。レオン様は全体の照合を」


「分けるのか」


「はい。誰か一人を捕まえても、全部は消せないようにします」


 ロゼッタらしい判断だった。


 戦場ではない場所で、彼女は誰よりも強い。


 剣を抜かず、魔法も撃たず、ただ紙と順番で敵の手を縛る。


「それと、今すぐ地下へ行くのは反対です」


「理由は?」


「敵が見張っているから、ではありません。それだけなら囮も使えます」


 ロゼッタは俺の手を見た。


「レオン様の力が、まだ何に反応するか分かっていないからです」


 その指摘に、俺は何も言い返せなかった。


 聖剣暴走の時、俺の支援はただの治癒でも強化でもなかった。


 セリアの呪い。


 ミュールの刻印。


 イリスの魔力暴走。


 ロゼッタの契約。


 ナギの檻。


 俺は、それぞれを助けてきたつもりだった。


 だが、王都の下に眠るものを調べて分かった。


 俺の《マルチジョブ》は、ただ多くの職能を持っているという単純な話ではない。


 もっと古い術式の、境界に触れている。


 もし地下中枢が、その境界そのものなら。


 俺が焦って手を伸ばした瞬間、五人の刻印が一斉に反応するかもしれない。


「降りたい」


 俺は正直に言った。


「今すぐ、確かめたい。あそこにあるものを壊せば、全部終わるかもしれないと思っている」


 イリスが顔を上げた。


 セリアも、ミュールも、ロゼッタも、ナギも、俺を見る。


「でも、たぶんそれが一番危ない」


 口に出すと、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 俺の中には、ずっと焦りがある。


 奴隷契約を解除したい。


 セリアを冤罪から解放したい。


 ミュールに命令ではない名前を返したい。


 イリスに危険物ではない人生を与えたい。


 ロゼッタの契約を、彼女自身の武器にしたい。


 ナギを死に場所ではなく、帰る場所へ連れていきたい。


 全部を早く終わらせたい。


 けれど、その焦りで誰かの刻印を叩き起こすなら、それは救いではない。


 命令と同じだ。


「準備する」


 俺は言った。


「証拠を分ける。入口を調べる。地下の地図を探す。俺の力が何に反応するか、もう一度確認する。降りるのは、それからだ」


 セリアが頷いた。


「よい判断だ」


「褒められると落ち着かないな」


「では訂正する。遅い判断だ」


「ありがとう。落ち着いた」


 ミュールが小さく笑った。


 イリスも、少しだけ肩の力を抜く。


 そのわずかな緩みが、今はありがたかった。


 俺たちは勝った後に、また緊張している。


 王都裁判の時よりも、聖剣が暴れた時よりも、ある意味では静かに追い詰められている。


 敵が剣を抜いていないからだ。


 剣を抜かず、扉の外で待っている。


 こちらが焦って失敗するのを。


「出ましょう」


 ロゼッタが帳面を鞄の底へ入れた。


「古文書庫に長くいるほど、相手は口実を作りやすくなります」


 イリスは古文書を丁寧に戻した。


 棚の位置。


 紐の向き。


 紙の重なり。


 彼女は、読んだ痕跡を消すのではなく、荒らしていない証拠が残るように整えた。


「戻しました。閲覧記録と矛盾はありません」


「よし」


 俺たちは扉へ向かった。


 先頭はセリア。


 次に俺。


 右にミュール。


 後ろにイリスとロゼッタ。


 最後尾にナギ。


 戦闘隊列ではない。


 しかし、誰か一人を連れ去ろうとすれば、全員が動ける並びだった。


 扉を開ける。


 廊下の空気が、古文書庫より冷たかった。


 扉の前にいた男は、驚いた顔を作るのが少し遅れた。


 灰色の外套。


 王都の下級役人に見える地味な服装。


 腰に剣はない。


 だが、ミュールの視線が一瞬だけ男の袖へ落ちた。


「何か御用ですか」


 ロゼッタが先に言った。


 男は短く頭を下げる。


「いえ。古文書庫の閲覧時間が長いようでしたので、ギルド職員を探していただけです」


「ギルド職員なら受付におります。古文書庫の閲覧管理もギルドの管轄です」


「それは、もちろん」


 男は笑った。


 薄い笑みだった。


 ロゼッタはそれ以上踏み込まなかった。ここで問い詰めれば、こちらが揉め事を起こした形になる。


 俺たちは廊下を進む。


 角にいた二人が、何気ないふりで壁の掲示を見ている。


 階段の下の一人は、靴紐を結ぶ姿勢のまま動かない。


 ミュールの言った通りだ。


 全員、こちらを見ていないふりをしている。


 ギルド支部の玄関を出ると、王都の空は明るかった。


 市場の声。


 馬車の車輪。


 鐘の音。


 焼き菓子の甘い匂い。


 地上は、何も知らない顔をしている。


 この石畳の下に、世界の檻が眠っているというのに。


「見えたか?」


 俺が歩きながら聞くと、ミュールは前を向いたまま答えた。


「袖印」


「教会か?」


「違う」


「夜爪か?」


「それも違う」


 ミュールの声が、少し低くなった。


 彼女は人混みの中で、監視者たちとの距離を測っている。


「古い文字だった。役所の印。たぶん、普通の人は読めないように崩してある」


「何て書いてあった」


 ミュールは、ほんの一瞬だけ俺を見た。


「王都地下管理局」


 足元の石畳が、急に冷たく感じた。


 教会ではない。


 勇者制度でもない。


 夜爪でもない。


 王都そのものが、地下を見張っている。


 役所の印は、剣より静かだ。


 だが、静かなものほど、人を逃がさない。


 俺たちはまだ、階段を見つけてもいない。


 けれど向こうはもう、俺たちが降りようとしていることを知っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ