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第078話 五つの小さな痛み

 セリアの首元が、赤く熱を持った。


 最初は小さな違和感だった。


 それがすぐ、焼けるような痛みに変わる。


「セリア!」


 俺が駆け寄るより早く、彼女は片膝をついた。


 だが、倒れない。


 片手で盾を掴み、もう片方の手で首元を押さえている。


「問題ない」


「問題ある顔だ」


「……少し、昔を思い出しただけだ」


 セリアの目が、宿の部屋ではないどこかを見ていた。


 王都騎士団の大聖堂。


 白い床。


 誓約の剣。


 上官の声。


 想像ではない。


 彼女の短い言葉から、俺にもその場の冷たさが伝わってくる。


「叙任式の日、私は嬉しかった」


 セリアは苦しそうに笑った。


「父も母も、もういなかった。だが、騎士団の皆が私を迎えてくれた。お前は今日から王国の盾だと」


 王国の盾。


 その言葉は、セリアにとって誇りだったはずだ。


「聖印が首元に触れた時、少し痛んだ。だが、皆が言った。誓いの重さだと。騎士なら耐えられる痛みだと」


 セリアの手に力が入る。


「私は、耐えることを誇りだと思った」


 今、その誇りまで疑わされている。


 それが彼女を一番傷つけているのだと分かった。


「聖騎士叙任の時、首元に聖印を受けた。女神と王国と民へ誓うための印だと聞かされた」


 彼女は息を整えながら言った。


「誇らしかった。私は自分の意志で誓ったと思っていた」


 首元の熱が、赤黒く脈打つ。


「だが、今の痛みは、その時の痛みに似ている」


 誓いと命令。


 その境界が、彼女の中で揺らいでいる。


 俺は支援術を流そうとして、止まった。


「セリア。痛みを和らげる。いいか」


「頼む」


 同意を聞いてから、俺は薄く治癒を流した。


 熱は少しだけ弱まる。


 その瞬間、ミュールが肩を押さえた。


「っ」


 彼女は声を殺した。


 椅子から降り、床に片手をつく。


 肩のあたりに、見えない爪が食い込んだように服が震えている。


「ミュール」


「だいじょうぶ」


 いつもの言葉。


 だが、尾が強く床を叩いている。


「嘘だ」


「……命令訓練」


 ミュールは短く言った。


「夜爪で、失敗した時。肩を押さえられた。ここを押されると、動けなくなるって教えられた」


 彼女の呼吸が浅くなる。


「いい子は、命令を聞く。悪い子は、肩から痛みを入れる。そう言われた」


 ミュールは目を閉じた。


「最初は、痛いと声が出た。でも声を出すと、もっと痛い。だから出さなくなった」


「ミュール」


「命令を聞けば撫でられた。よくできたって。聞けないと押された。ここ」


 彼女は肩を押さえる。


「優しい声で言う人もいた。ミュールは賢いから分かるねって」


 その言葉は、彼女が以前こぼした告白とつながっていた。


 優しく撫でてから、鎖を締める者。


 ミュールは、それを身体で覚えさせられていた。


 その言葉に、部屋の空気が冷えた。


 ミュールは暗殺者だった。


 だが、最初から刃だったわけではない。


 刃にされる過程があった。


 俺は彼女の肩に手をかざす。


「触れる。いいか」


 ミュールは少し迷ってから頷いた。


「いい」


 支援を流す。


 痛みは完全には消えない。


 だが、彼女の呼吸が少し戻った。


 次に、イリスの腕輪が強く光った。


「いや……」


 彼女は自分の腕を抱え込む。


 腕輪の下で、青白い光と赤黒い熱がぶつかっている。


「魔力を、吸われる感じです」


 イリスの声が震える。


「魔塔の実験台で、出力を測られた時と同じ。止めてくださいって言っても、あと少しだけ、君のためだからって」


 彼女は唇を噛む。


「あと少しだけが、何度も続きました」


 イリスの目に、涙が溜まっていた。


「最初は、私も協力したかったんです。自分の魔力が危ないなら、制御できるようになりたかった。誰かを傷つけたくなかった」


 腕輪が小さく鳴る。


「でも、途中から、私の怖いは記録になりました。拒否反応。精神不安定。再調整必要。私がやめてと言うたび、研究者たちは新しい項目を増やしました」


 彼女は自分の胸元を押さえる。


「言葉が、私から離れていきました」


 それは登録庁で見たことと同じだった。


 人の痛みが、項目になる。


 俺は拳を握った。


 君のため。


 安全のため。


 制御のため。


 何度聞いても、その言葉は腹が立つ。


「イリス。調律を補助する。腕輪に触れない。魔力だけ添える」


「はい」


 彼女は涙目で頷く。


 俺は魔力を直接押し込まない。


 腕輪の流れの横に、細い逃げ道を作る。


 イリスが息を吸った。


「……戻りました」


 だが、休む間はなかった。


 ロゼッタが手首を押さえる。


 彼女は声を上げなかった。


 ただ、顔色が一気に白くなった。


「ロゼッタ」


「問題ありません」


「その言い方は問題がある時だ」


 彼女は苦笑しようとして、失敗した。


「商会債務契約に署名させられた日を思い出しました。羽根ペンを持つ手が震えていたのに、父の名を守るためだと言われて」


 手首のあたりに、赤黒い線が浮かぶ。


「契約は、双方の意思で結ぶものです。けれど、あの日の私は、選択肢を全部奪われてから署名しました」


 ロゼッタの声は静かだった。


 静かすぎて、痛かった。


「それでも書類上は、私が署名した契約です」


 彼女は息を整える。


「あの日、机の上には三つの書類がありました。一つは商会の債務承認。一つは資産凍結への同意。一つは、私自身の身柄を担保とする契約」


 ロゼッタは指先を見つめる。


「署名しなければ、使用人たちの給与も、倉庫の品も、父の名誉も全て差し押さえると言われました。選んだように見えます。でも選択肢はありませんでした」


「それでも契約になるのか」


「紙の上では」


 彼女の口元に、怒りの笑みが浮かぶ。


「だから私は、紙を憎みます。同時に、紙で戦います」


「違う」


 俺は言った。


「選べない署名は、契約じゃない」


 ロゼッタは目を閉じた。


「その言葉、証言書に使えますね」


「今それを考えるのか」


「癖です」


 少しだけ、いつもの彼女に戻った。


 俺は手首の熱を和らげる。


 最後に、ナギがうなじを押さえた。


 彼女は声を出さなかった。


 ただ、刀へ伸ばした手が止まっている。


「ナギ」


「黒杯」


 短い答え。


「神域鍵保持者として記録された時、うなじが熱くなった。剣奴の首輪とは違うと言われた」


 ナギは低く息を吐く。


「違わなかった」


「何をされた」


「鍵だと言われた。神域へ至るための鍵。拙者の剣も、血も、死に場所も、誰かの扉を開くものだと」


 彼女は俺を見た。


「拙者は、扉ではない」


 ナギの声は静かだったが、刃のように澄んでいた。


「黒杯の者は言った。死ぬ場所を与えてやると。東雲流の剣は、神域を開くためにあると。拙者が斬れば、客が沸く。拙者が死ねば、鍵が完成すると」


 うなじの熱が、赤黒く脈打つ。


「死に場所まで、人に決められるのは嫌だった」


 ナギがそう言った瞬間、俺は彼女が黒杯で見せた目を思い出した。


 死ぬことを怖がらない目ではない。


 死ぬ場所を奪われ続けた目だった。


「ああ」


 俺は頷いた。


「ナギはナギだ」


 ナギは少しだけ目を伏せる。


「支援、頼む」


「分かった」


 うなじには触れない。


 背中側へ魔力を流し、熱の外側だけを冷ます。


 五人の痛みが、少しずつ弱まっていく。


 完全には消えない。


 だが、今すぐ呑まれるほどではなくなった。


 俺は息を吐いた。


 その瞬間、手の甲が熱くなった。


 今まで五人へ流していた支援が、どこかで折り返してきたような感覚だった。


 治癒ではない。


 調律でもない。


 鑑定でもない。


 もっと深いところで、何かが俺を認識した。


 お前も接続している、と。


 そんな冷たい声が、皮膚の下を走った気がした。


「レオン様」


 ロゼッタが鋭く言う。


 俺は自分の右手を見た。


 そこに、赤黒い文様が浮かんでいた。


 セリアの首元。


 ミュールの肩。


 イリスの腕輪。


 ロゼッタの手首。


 ナギのうなじ。


 五人の痛みが弱まった直後、俺の手に同じものが現れた。


 イリスが震えながら近づく。


「動かないでください」


「分かった」


 彼女は俺の手を見つめる。


 腕輪の光が細く伸び、文様の輪郭をなぞる。


「同じです」


「五人の刻印と?」


「完全に同じではありません。でも、下にある文様が同じです」


 俺の手の甲の文様は、一瞬だけ強く光った。


 そして、消えた。


 痛みも消える。


 だが、部屋の空気は戻らなかった。


 俺は手を握りしめる。


 五人の刻印に支援を流した。


 痛みを和らげた。


 その結果、俺の手にも同じ文様が浮かんだ。


 俺の力は、何に触れている。


 イリスは青ざめた顔で言った。


「レオンさんの支援は、刻印を外から癒やしているんじゃありません」


「じゃあ、何だ」


「刻印の下層に、触れています」


 その言葉で、火鉢の音さえ聞こえなくなった。


 五人の痛みを和らげたつもりだった。


 だが、俺が触れたのは痛みそのものではない。


 痛みを生む仕組みの、さらに下。


 もしそこに触れられるなら。


 俺は彼女たちを救えるのか。


 それとも、命令できてしまうのか。


 その問いが、消えた文様よりも深く手の甲に残った。

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