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第077話 勝利の夜の食卓

 登録庁から戻った後、誰もすぐには口を開かなかった。


 王都の宿の部屋に入る。

 扉を閉める。

 ロゼッタが鍵をかける。

 ミュールが窓を確認する。

 ナギが廊下の気配を聞く。

 セリアが盾を壁に立てかける。

 イリスが解析ノートを机に置く。


 それぞれが、いつもの役割を自然に行った。


 だが、動きは重かった。


 勝った。


 違法所有奴隷の告発は退けられた。


 それなのに、今日一日で何度も別の名を与えられた。


 再調査対象。

 危険職歴。

 未回収研究資産。

 未整理債務。

 剣奴登録。

 旧式命令系統。

 未登録職能干渉。


 言葉は鎖になる。


 それを、俺たちは嫌というほど見た。


「飯にする」


 俺は言った。


 五人がこちらを見る。


「今ですか」


 イリスが目を瞬かせる。


「今だ。腹が減っていると、考えが悪い方向へ行く」


 ロゼッタが少しだけ息を吐いた。


「合理的ではあります」


「だろ」


 宿の厨房から借りられるものは限られている。

 パン。

 干し肉。

 根菜。

 豆。

 少しの香草。


 豪華な料理ではない。


 だが、煮れば温かい。

 温かいものは、今の俺たちには必要だった。


 鍋を火にかける。

 干し肉を刻み、根菜を薄く切る。

 豆を入れ、香草を潰す。


 セリアが盾の縁を見ながら言った。


「手伝おう」


「盾は」


「鍋が煮える間に拭く」


 彼女は器用に布で盾を磨きながら、野菜の皮を剥いた。


 ミュールは椅子に座っていたが、耳が何度も伏せたり立ったりしている。


「眠いなら寝ていいぞ」


「寝てない」


「寝そうだ」


「寝てない」


 言いながら、彼女の頭は少し揺れていた。


 登録庁でずっと周囲を警戒していたのだ。

 疲れないはずがない。


 イリスは解析ノートを開こうとした。


 ロゼッタが、それを手で押さえる。


「今は閉じなさい」


「でも、測定具の反応が」


「食後です」


「少しだけ」


「食後です」


 ロゼッタの声は揺るがなかった。


 イリスはしゅんとして、ノートを閉じた。


 ナギは窓辺にいた。


 夜の王都を見ている。


「まだ敵地」


「分かってる」


「でも、鍋の匂いはする」


「それは味方だ」


 ナギは少し考えた。


「なら、今は半分味方の場所」


「前進だな」


 そんなやり取りをしているうちに、鍋が煮えた。


 器に分ける。


 セリアには少し多め。

 ミュールには小さな器で、食べやすいように干し肉を細かく。

 イリスには熱すぎないように冷まして。

 ロゼッタには塩を少し控えめに。

 ナギには干し肉を追加。


 配り終えると、ロゼッタがこちらを見た。


「こういうところです」


「何が」


「優しい主人と言われる隙です」


 俺は固まった。


 ロゼッタは慌てて首を振る。


「責めていません。ですが、エルヴィア様はこういう行為も言葉に取り込むでしょう。相手に合わせて配る。疲れを見て調整する。居場所を整える」


「……そうだな」


「だからこそ、こちら側の言葉を持っておく必要があります」


 セリアが器を置く。


「これは命令ではない」


 ミュールが言う。


「餌付けでもない」


「餌付けって言うな」


「違うの?」


「違う」


 イリスが小さく笑った。


 その笑いで、少しだけ空気が柔らかくなった。


 ロゼッタが続ける。


「これは共同生活です。互いの状態を見て、できる者が調整する。今日はレオン様が鍋を作った。明日は私が費用を調整する。セリア様が盾を構え、ミュール様が見張り、イリス様が解析し、ナギ様が道を見る」


「役割だな」


「はい。ただし、固定ではありません。変更できる。断れる。相談できる。そこが主人と違います」


 俺は頷いた。


 その言葉を覚えておく必要がある。


 食事が進むにつれ、少しずつ皆の顔に血色が戻った。


 セリアは盾の亀裂を見ながら、ガレスならどう直すかを考えていた。


「この縁は、もう一度打ち直した方がよいな」


「王都で鍛冶師を探すか」


「いや、可能ならガレス殿に任せたい。あの盾は、私が今の私として持つものだ」


 元聖騎士の支給品ではない。

 奴隷市場で売られた者の残骸でもない。


 解放者の家で、今のセリアのために直された盾。


 彼女はそれを大切にしている。


 ミュールは干し肉を細かく割って、イリスの器へ少し入れた。


「食べてない」


「あ、ありがとうございます。でもミュールさんの分が」


「ミュールはもう食べた」


「まだ半分残ってます」


「見ない」


 イリスが困った顔で笑う。


 ロゼッタがそれを見て、帳面に何かを書いた。


「何を書いた」


「食料配分の癖です。ミュール様は自分の分を削って他人へ渡しがちです」


「記録しないで」


「必要記録です」


 ミュールは耳を伏せた。


 だが、本気で嫌がっているわけではない。


 ナギは窓辺から戻り、鍋の底に残った豆を見ていた。


「食べるか」


「少し」


 そう言いながら、彼女は器を差し出す。


 俺がよそうと、ナギは真面目な顔で言った。


「王都は、飯が落ち着かない」


「味か?」


「人の目」


 その言葉に、全員が少しだけ黙った。


 王都では、どこにいても見られている。

 奴隷だった者として。

 危険な者として。

 勇者の剣を止めた者として。


「だから、ここで食べる」


 ナギは器を持って、また窓辺へ戻る。


「見張りながら?」


「見張りながら」


 それも彼女なりの落ち着き方なのだろう。


 俺は、その一つ一つを見ていた。


 セリアが盾を気にする。

 ミュールが自分の肉を分ける。

 イリスが礼を言いながら食べる。

 ロゼッタが癖まで記録する。

 ナギが窓辺で豆を食べる。


 どれも登録庁の書類には載らない。


 だが、俺たちが誰なのかは、むしろこういうところにある。


 反逆容疑でも、危険職歴でも、研究資産でも、債務記録でも、剣奴登録でもない。


 夜の宿で、同じ鍋を囲む者たち。


 その実感が、今日の冷たい書類から俺を少しだけ引き戻した。


 俺は聞いた。


「今日、何に一番腹が立った」


 セリアが即答した。


「反逆容疑を、注記で済ませようとしたことだ」


 彼女の声は静かだった。


「私の誇りを奪った記録を、訂正ではなく注記にする。あれは許しがたい」


 ミュールは器を見ながら言う。


「売られたのに、まだ所属って言われたこと」


 短い。

 だが、深い怒りだった。


 イリスは腕輪を撫でる。


「未回収研究資産、です。聞いた瞬間、また台の上に戻された気がしました」


 ロゼッタは帳面を閉じたまま言った。


「不正債務を、既存記録として扱われたことです。間違った記録は、それだけで武器になります」


 ナギは窓の外を見ていた。


「檻の札を、身分にされたこと」


 俺は一人ずつ頷いた。


「じゃあ、今日、何に救われた」


 セリアは少し考えた。


「貴殿が怒鳴らなかったことだ」


「怒鳴りそうだった」


「分かっている。だから、救われた」


 ミュールは小さく言う。


「ロゼッタが全部記録したこと」


「当然ですわ」


「記録、敵だけじゃないって思った」


 ロゼッタの表情が少しだけ緩んだ。


 イリスは俺を見た。


「支援を使う前に、同意を取ってくれたことです」


「ロゼッタが言ったんだ」


「でも、待ってくれました」


 ロゼッタは肩をすくめる。


「私は、ミュール様が立会人の顔を見逃さなかったことです。あれで相手が何か知っていると分かりました」


 ミュールの耳が動いた。


「役に立った?」


「とても」


 ナギは短く言った。


「鍋」


「そこか」


「熱いものは、体が戻る」


 その言葉に、誰も笑わなかった。


 むしろ、全員が少しだけ納得した。


 温かいものを食べる。

 同じ部屋で息をする。

 今日の怒りと、救われたことを言葉にする。


 それは、刻印や登録では測れないものだった。


 俺は、これを守りたいのだと思った。


 王都の裁判で勝つことでも、勇者を倒すことでも、教会を言い負かすことでもない。


 もちろん、それらも必要だ。


 だが、その先にあるのは、この食卓だ。


 誰かが自分の器を持ち、食べたい量を選び、怒りを言葉にし、疲れたら眠れる場所。


 それを守るために、俺は剣を取らない戦いもする。

 書類を読む。

 記録を残す。

 怒鳴りたい時に黙る。

 必要なら、何度でも「命令ではない」と言い直す。


 面倒なことばかりだ。


 でも、檻を壊すとは、たぶんそういうことなのだろう。

 壊した後に、帰る場所を残すことまで含めて。

 その場所は、今夜の鍋の湯気みたいに小さくて、確かだった。


 食事が終わる頃、ミュールが椅子の上で完全にうとうとしていた。


 セリアが上着をかける。


 イリスは解析ノートを開こうとして、ロゼッタにもう一度止められる。

 ナギは窓辺に戻るが、さっきより肩の力が抜けている。


 俺は器を片付けようと立ち上がった。


 その時だった。


 セリアが首元に手を当てた。


「……熱い」


 ミュールが目を開く。


「肩」


 イリスの腕輪が淡く光る。


「また、反応が」


 ロゼッタが手首を押さえる。


「契約印の跡が」


 ナギがうなじに触れた。


「鍵が鳴っている」


 五人が同時に顔を上げる。


 火鉢の音が、急に遠くなった。


 勝利の夜の食卓に、赤黒い熱が戻ってきた。



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