第074話 勝ったのに自由ではない
翌朝、王都裁判所には勝利の空気がなかった。
少なくとも、俺にはそう感じられた。
公開裁判。
五人の証言。
勇者パーティの崩壊。
御前試合。
聖剣暴走。
エルヴィアの登場。
数日間で起きたことが多すぎた。
その最後に出される裁定は、本来なら一つの区切りになるはずだった。
違法所有奴隷の疑い。
その告発が退けられる。
俺は五人を所有していない。
五人は俺の命令で証言した奴隷ではない。
黒杯や赤鎖の帳簿は、むしろ違法売買の証拠である。
そこまで認められれば、普通なら勝利だ。
だが、ロゼッタは朝から笑っていなかった。
「勝ちます」
裁判所へ向かう馬車の中で、彼女はそう言った。
「ただし、きれいには勝たせてもらえないでしょう」
「どういう意味だ」
「負けを認める代わりに、別の書類を出してくるという意味です」
その予想は、正しかった。
裁判所の小法廷に入ると、審問官はすぐに裁定文を読み上げた。
「告発人アルベルト・レイヴァンによる、レオン殿の違法所有奴隷保持の訴えについて、提出された証拠および証言を検討した結果、本件告発は退けるものとする」
傍聴席がざわめいた。
そこには、御前試合場で見た民衆代表の顔もあった。
商人ギルドの者もいる。
宿屋組合の者もいる。
王都騎士団の若い騎士たちも、壁際で立っていた。
彼らの反応は一様ではない。
安堵する者。
戸惑う者。
不満そうに眉を寄せる者。
教会席の反応をうかがう者。
それでも、以前のように俺たちを見る目ではなかった。
奴隷を侍らせた男。
危険な女たち。
王都に混乱を持ち込んだ一行。
その目は、完全には消えていない。
だが、その上に別の記憶が重なっている。
セリアの盾。
ミュールの救助。
イリスの結界。
ロゼッタの退避命令。
ナギが逸らした光。
勇者の剣から民を守った者たち。
その事実は、王都側がどれほど言葉を整えても消せない。
ロゼッタが小さく息を吐く。
セリアの肩から、ほんのわずかに力が抜ける。
イリスは目を閉じた。
ミュールは無表情のまま耳だけ動かした。
ナギは「勝った」と短く言った。
俺も、胸の奥に溜まっていた息を吐いた。
勝った。
少なくとも、ここまでは。
審問官は続けた。
「また、同行者五名について、レオン殿による不当な命令誘導、強制証言、私兵化の明確な証拠は認められない」
その言葉も大きい。
五人の証言が、完全に無価値とはされなかった。
奴隷の言葉に価値はないと言い放ったアルベルトの主張は、少なくともこの場では退けられた。
セリアが静かに頷く。
ミュールは自分の手を見る。
イリスの唇が小さく震えた。
ロゼッタは表情を崩さない。
ナギは窓の外を見ている。
俺は、五人に言いたかった。
終わった、と。
だが、その言葉は喉まで来て止まった。
審問官の手元には、まだ別の書類があった。
「ただし」
来た。
ロゼッタの予想通りだ。
傍聴席の空気も、それを感じ取った。
人は勝利の言葉の後に続く「ただし」を知っている。
褒め言葉の後の条件。
許可の後の制限。
解放の後の監視。
その一語で、俺の胸の奥にあった安堵は半分ほど消えた。
「同行者五名については、過去の奴隷身分、危険職歴、魔力異常、債務記録、黒杯剣奴登録など、身分上の未整理事項が複数存在する」
部屋の空気が変わった。
「王都および教会は、本人らの安全、ならびに周囲への影響確認を目的として、身分整理および刻印確認を行うものとする」
「異議があります」
ロゼッタが即座に立ち上がった。
審問官は予想していたように彼女を見る。
「発言を許可します」
「本件は、レオン様による違法所有の有無を問う裁判です。告発が退けられた以上、同行者五名の追加調査を同じ裁定文に含めるのは不適切です」
「追加調査ではありません。身分整理です」
「言葉を変えても、拘束の性質は変わりません」
ロゼッタの声は冷えていた。
「身分整理の実施主体は誰ですか。完了条件は何ですか。本人が拒否した場合の扱いは。期間は。移動制限の有無は。記録の閲覧権限は。調査結果の訂正手続きは」
審問官は少しだけ眉を寄せた。
「詳細は教会立会いの登録庁にて」
「つまり、ここでは示さない」
ロゼッタが言い切る。
「出口のない整理は、保護ではありません」
エルヴィアの言葉が頭をよぎった。
混乱した者には導き手が必要。
力ある者は管理されるべき。
昨日の治療所で聞いた言葉が、今日の書類へ形を変えている。
セリアが一歩前へ出た。
「私の身分については、王国騎士団が作った冤罪記録が原因です」
審問官は目を伏せた。
「再調査対象とします」
「私を反逆者と記録した者たちが、私の安全を確認するのですか」
「教会も立ち会います」
「ならば、教会の印が関わっていた場合は?」
答えはなかった。
ミュールが低く言う。
「危険職歴って、夜爪のこと?」
「暗殺組織への所属歴は確認対象です」
「ミュールを売ったのも、そこにつながる人たち」
その声は淡々としていた。
「売った人が、危険だから確認するって言うの?」
審問官はまた答えない。
イリスが震えながらも立ち上がった。
「魔力異常は、魔塔の実験記録と一緒に見ないと意味がありません。私が危険なのか、私に危険な実験をしたのか、分けてください」
ロゼッタが小さく頷く。
「債務記録についても同様です。フォルン商会の債務は不正な契約網によって作られたものです。私を債務者として再分類するなら、契約そのものの有効性を先に審査すべきです」
ナギは短く言った。
「黒杯の記録は、檻の記録」
審問官が彼女を見る。
「それを拙者の身分にするな」
その一言は、短いが鋭かった。
俺は拳を握った。
怒鳴りたかった。
ふざけるな。
勝ったはずだ。
彼女たちは証言した。
民衆を守った。
自分の意思でここにいると示した。
それなのに、書類の上ではまだ整理対象なのか。
だが、ここで俺が怒鳴ればどうなる。
五人を連れてきた男が、裁定に不満を抱いて騒いだ。
やはり危険だ。
やはり管理が必要だ。
そう書かれる。
ロゼッタが俺を見た。
小さく首を横に振る。
分かっている。
今、暴れてはいけない。
セリアも俺を見た。
「受け取るべき勝利は、受け取る」
彼女は低く言った。
「その上で、次の戦いに備える」
「……ああ」
俺は息を吐いた。
審問官は裁定文を読み終え、最後の書類をこちらへ渡した。
「詳細は明日、教会付属登録庁にて確認されます」
ロゼッタが受け取る。
その場で目を通した。
違法所有奴隷の告発は退けられた。
だが、五人は完全な自由民として登録されていない。
保護観察中の元奴隷身分者。
安全確認対象。
刻印確認対象。
柔らかい言葉が並んでいる。
柔らかい檻だ。
保護観察。
誰かを守るための言葉。
安全確認。
危険を避けるための言葉。
身分整理。
混乱を正すための言葉。
どれも悪い言葉ではない。
だから、抗議しにくい。
奴隷契約のように、露骨に所有と書かれていれば破れる。
檻と書かれていれば壊せる。
だが、保護と書かれた檻は、壊す者の方が乱暴に見える。
エルヴィアの言葉が、また頭に戻る。
優しい主人。
この書類は、その言葉と同じ匂いがした。
ロゼッタの指が、裁定書の余白で止まった。
「レオン様」
声が硬い。
「何だ」
「余白に、添付命令があります」
俺は書類を覗き込んだ。
そこには、小さな文字でこう記されていた。
「対象者レオンの職能反応は、教会管理記録と照合する」
俺の背筋が冷えた。
五人だけではない。
俺も、もう整理対象に入っていた。
小法廷を出ると、廊下で声をかけられた。
昨日、ミュールが助けた子供を抱いていた女だった。
彼女は何度か迷うように口を開き、それから深く頭を下げた。
「昨日は、ありがとうございました」
ミュールの耳が跳ねた。
「ミュールだけじゃない」
「はい。皆さんに」
女はセリアの盾を見て、イリスの腕輪を見て、ロゼッタの帳面を見て、ナギの刀を見て、最後に俺を見た。
「勇者様のことは、まだ分かりません。でも、昨日、子供を助けてくれたのはあなたたちでした」
その言葉は、俺たちにとって確かな勝利だった。
法廷の裁定文よりも、ずっと体温があった。
ミュールは目を逸らしながら、小さく言う。
「落ちなくてよかった」
女はもう一度頭を下げ、子供と共に去っていった。
その背中を見送りながら、俺は思った。
これでいい。
こういうものを守るために、俺たちはここまで来た。
だが、手の中の書類が冷たい。
ありがとうという言葉の温度と、身分整理という文字の冷たさ。
その二つが、同じ朝にある。
だから、勝ったのに自由ではない。
その実感が、ようやく言葉になった。
ロゼッタが書類を畳む。
「明日の登録庁が、本当の勝負です」
彼女は静かに言った。
「ここから先は、鎖ではなく文言で縛りに来ます」




