第073話 優しい主人
その夜、俺は眠れなかった。
王都の宿は静かだった。
窓の外では、夜番の鐘が遠く鳴っている。
廊下を歩く宿の使用人の足音も、やがて消えた。
部屋の中には、火鉢の小さな音だけが残っている。
眠れない理由は分かっていた。
エルヴィアの言葉だ。
「貴方なら、きっと優しい主人になれます」
何度も頭の中で繰り返される。
怒ればよかったのかもしれない。
俺は主人じゃないと、その場で言い返せばよかったのかもしれない。
だが、言えなかった。
言えば、エルヴィアは微笑んだだろう。
ええ、だからこそ貴方は優しいのです。
そんなふうに返される気がした。
否定の言葉まで、彼女の言葉の中へ取り込まれる。
それが怖かった。
俺は寝台から起き上がった。
隣の部屋から、かすかな金属音が聞こえる。
盾の縁を磨く音だ。
セリアだろう。
部屋を出ると、共同の食堂に明かりが残っていた。
そこに五人がいた。
セリアは盾を膝に置き、亀裂の入った縁を布で拭いている。
ミュールは椅子の上で膝を抱え、耳を伏せていた。
イリスは解析ノートを開いたまま、同じ行をずっと見ている。
ロゼッタは帳面と硬貨を並べているが、数字を書いていない。
ナギは窓辺に座り、外ではなく部屋の内側を見ていた。
「みんな、起きていたのか」
セリアが顔を上げる。
「貴殿もだろう」
「まあな」
ロゼッタが帳面を閉じた。
「眠れる夜ではありませんもの」
誰も否定しなかった。
俺は火鉢の横に座った。
宿の厨房から借りた鍋には、昼に残った野菜と干し肉を煮込んだものがある。
考え事をしていると、手が勝手に料理を始めていたらしい。
温め直すと、湯気が上がった。
「食べるか」
「食べる」
最初に答えたのはミュールだった。
それで少しだけ空気が緩んだ。
器に分ける。
セリアは礼を言って受け取り、ミュールは両手で抱え、イリスは小さく息を吹きかけた。
ロゼッタは味を見てから「塩が少し足りません」と言い、ナギは黙って頷いた。
「足りないのか」
「ほんの少しです。王都の宿は水が硬いので、味が薄く感じます」
ロゼッタはそう言って、卓上の小瓶から塩をひとつまみ落とした。
ミュールがそれを見て、自分の器にも少しだけ真似をする。
「入れすぎるな」
「分かってる」
ミュールは真剣な顔で、しかし明らかに入れすぎた。
セリアが自分の器から少し汁を分ける。
「薄めるとよい」
「ありがと」
イリスがその様子を見て、少しだけ笑った。
ナギは黙って干し肉を一切れ足している。
「それは味の調整なのか」
「肉は正義」
「その理屈は分かる」
重い話をする前に、そういう小さなやり取りがあった。
俺は、それに救われていた。
誰かを救うとか、導くとか、支えるとか。
そんな大きな言葉ではなく、夜中に温かいものを分けて、塩を入れすぎた器を薄めて、肉を足す。
俺たちの関係は、そういうものの上にも乗っている。
エルヴィアの言葉に飲まれないためには、こういう小さな実感を手放してはいけない気がした。
いつもの食卓に近い。
だが、完全には戻らない。
エルヴィアの言葉が、部屋のどこかにまだ残っている。
「優しい主人」
セリアがぽつりと言った。
誰も驚かなかった。
全員、その言葉を考えていたのだ。
「善良な上官にも、似た者はいた」
セリアは盾を見下ろしたまま続ける。
「部下を気遣い、民を案じ、正しいことを言う。だが命令となれば、人を壊すこともある」
「セリアを陥れた人たち?」
イリスが小さく聞いた。
「全員が悪人だったわけではない」
セリアの声は苦かった。
「むしろ、悪人ではない者ほど厄介だった。彼らは王国のため、騎士団のため、民の不安を避けるためと言った。私一人が汚名を被れば混乱は避けられると」
盾の縁を拭く手が止まる。
「彼らは私を憎んでいたわけではない。だからこそ、私の意思を聞く必要がないと思っていた」
部屋が静かになった。
ミュールが器を置いた。
「優しく撫でてから、鎖を締める人、いる」
彼女の声は低い。
「夜爪にもいた。痛くしないよって言う。よくできたねって言う。ミュールはいい子だから命令を聞けるねって」
耳がさらに伏せる。
「怒鳴る人より、怖い。怒鳴る人は敵って分かる。でも優しい人は、逃げたらこっちが悪いみたいになる」
俺は息を吐いた。
それは、エルヴィアの怖さに近い。
彼女は怒鳴らない。
脅さない。
むしろ救う。
だから、従わない方が冷たいように見える。
「魔塔も、そうでした」
イリスが腕輪を撫でる。
「君のため。みんなのため。制御できるまで外へ出してはいけない。そう言われました。最初は、本当に心配してくれている人もいたと思います」
彼女は目を伏せた。
「でも、いつからか私の怖いという言葉は、研究記録の一部になりました。震えています、拒否反応があります、安定化が必要ですって」
「言葉を聞いているようで、記録しているだけ」
ロゼッタが言う。
イリスは頷いた。
「はい」
ロゼッタは帳面を指で叩いた。
「保護と所有は、契約文上では簡単にすり替わります」
「どういう意味だ」
「たとえば、保護者は対象者の安全を確保する義務を負う。ここまではよいです。ですが、保護者は安全確保のため対象者の移動、職業、交友、財産利用を制限できる、と書き足したらどうなります?」
「ほぼ所有だな」
「ええ。しかも善意の名目があるため、奴隷契約より反論しにくい」
ロゼッタは静かに言った。
「エルヴィア様は、おそらくそこを知っています。保護、治療、補償、再調査。聞こえのよい言葉で囲ってから、解除条件を示さない」
「解除条件がない契約は危険」
「はい。出口のない保護は、檻です」
ナギが窓辺で短く言った。
「道連れと主人は違う」
視線が彼女へ集まる。
ナギは少し考えてから続けた。
「主人は、行き先を決める。道連れは、道を選ぶ時に隣にいる」
「分かりやすいな」
「拙者も、最近分かった」
ナギらしい答えだった。
俺は、器の中の湯気を見ていた。
「俺は」
声が少しかすれた。
五人がこちらを見る。
「俺は、お前たちに役割を渡してきた。盾、斥候、解析、帳簿、剣。必要だと思っていた。お前たちが選んだとも思っていた」
言葉にすると、胸の奥が重くなる。
「でも、エルヴィアに言われて考えた。俺は、本当に毎回聞いていたのか。守るって言葉で、俺に都合のいい場所に立たせていなかったか」
セリアが俺を見た。
ミュールは膝を抱え直す。
イリスは腕輪から手を離した。
ロゼッタは帳面を閉じたまま。
ナギは窓辺からゆっくり立った。
「もし、そうなっていたなら」
俺は言った。
「止めてほしい」
沈黙が落ちる。
最初に口を開いたのはセリアだった。
「止める」
短い答え。
迷いはなかった。
「貴殿が私を盾としてしか見なくなったなら、その盾で殴る」
「それは痛そうだ」
「痛くする」
少しだけ、笑いが漏れた。
ミュールが続く。
「ミュールも止める。後ろから」
「怖いな」
「優しくする」
「それも怖い」
イリスが小さく笑った。
「私は、言います。怖い時は怖いって。嫌な時は嫌ですって。だから、聞いてください」
「聞く」
ロゼッタが指を一本立てた。
「では、今後の契約条項に加えましょう。役割変更、危険任務、刻印干渉、身体調整、魔力調律については、本人の明確な同意を必要とする」
「本当に契約にするのか」
「言葉だけより強いです」
彼女は真面目だった。
ナギは俺の前まで来た。
「道を選ぶ時、拙者も言う」
「ああ」
「だから、レオンも言え」
「俺も?」
「怖い時は怖いと」
予想していなかった言葉だった。
ナギは静かに続ける。
「道連れなら、片方だけ強いふりをしない」
胸の奥に、何かが落ちた。
軽くはない。
だが、まっすぐな重さだった。
「分かった」
俺は頷いた。
「怖い。エルヴィアが怖い。あの人の言葉は、俺がなりたくないものに、俺自身を近づけてくる」
言ってしまうと、少し息がしやすくなった。
五人は誰も笑わなかった。
セリアが盾を置く。
ミュールが椅子から降りる。
イリスがノートを閉じる。
ロゼッタが帳面を鞄へしまう。
ナギが窓を閉める。
それぞれの動きが、いつものように部屋を整えていく。
俺は主人ではない。
だが、それは言葉だけで証明できるものではない。
毎回、選び直す必要がある。
その時、扉が叩かれた。
深夜に近い時刻だ。
ミュールが音もなく扉の横へ移動する。
ナギが刀に手を添える。
セリアが盾を持ち上げた。
「どちら様ですか」
ロゼッタが声をかける。
「教会からの正式文書をお届けに参りました」
扉の外から、穏やかな声が返ってきた。
ロゼッタが俺を見る。
俺は頷いた。
扉を少しだけ開けると、白い法衣の使者が封書を差し出した。
封蝋には、教会印が押されている。
ロゼッタが受け取り、慎重に開く。
文面を読んだ瞬間、彼女の顔から表情が消えた。
「何だ」
俺が聞く。
ロゼッタは、封書を机の上に置いた。
そこには、こう書かれていた。
「同行者五名の身分整理について、教会立会いのもと再確認を行う」
火鉢の音だけが、部屋に残った。




