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第072話 優しい支配者

 教会の治療所は、静かだった。


 白い壁。

 磨かれた床。

 薬草の匂い。

 祈りの声。


 御前試合場の混乱が嘘のように、そこには秩序があった。


 負傷者たちは、教会の治療師に診られている。

 石片で腕を切った商人。

 転倒して足を痛めた老人。

 恐怖で泣き続ける子供。


 その一人ひとりへ、教会の者たちは丁寧に声をかけていた。


「痛みはすぐに引きます」


「恐ろしかったでしょう」


「もう大丈夫です。教会が見ています」


 その言葉に、多くの者が安堵している。


 俺は、それを否定できなかった。


 救われている人がいる。

 安心している人がいる。

 エルヴィアの手配は、確かに機能していた。


 だからこそ、俺は落ち着かなかった。


「レオン殿」


 エルヴィアが治療所の奥から歩いてくる。


 白と青の法衣。

 薄い灰色の瞳。

 穏やかな微笑み。


 彼女が近づくだけで、周囲の治療師たちの動きが整う。

 命令を出しているわけではない。

 けれど、全員が彼女の呼吸に合わせているように見えた。


「ご協力をお願いしてもよろしいでしょうか」


「治療ですか」


「はい。貴方の応急処置は的確でした。教会の治療師たちも助かります」


 褒め言葉だ。


 素直に受け取ればいい。


 だが、俺は一拍遅れて頷いた。


「必要な範囲で」


「それで十分です」


 エルヴィアは微笑む。


 俺は負傷者の前に膝をついた。

 腕を切った商人だ。

 出血は止まっているが、傷口に石粉が残っている。


「洗います。痛むが、動かないでくれ」


「あ、ああ」


 薬師の知識で洗浄液を作り、治癒師の術で肉の戻りを助ける。

 聖職者の祈りは使わない。


 ここで使えば、教会の祈祷と混ざる。

 今は混ざるものを増やしたくなかった。


 処置が終わると、商人は何度も頭を下げた。


「ありがとう。勇者様の剣で死ぬかと思った」


 周囲が一瞬、静かになった。


 勇者様の剣。


 その言葉は、治療所の白い壁に妙に生々しく響いた。


 エルヴィアは表情を変えなかった。


「恐怖は当然です」


 彼女は商人へ向き直る。


「ですが、勇者アルベルトもまた、今は治療と静養を必要としています。人は強すぎる期待を背負うと、自分自身を見失うことがある」


 商人は戸惑いながら頷いた。


 エルヴィアは、勇者を庇っている。


 同時に、民衆の恐怖も否定していない。


 巧い。


 本当に、巧い。


「力ある者には、導き手が必要です」


 エルヴィアは静かに言った。


「勇者も、騎士も、魔導師も、時に自分の力で自分を傷つけます。だからこそ、責任ある者が見守り、必要な時には道を示さねばなりません」


 その言葉に、イリスの肩が震えた。


 俺は横目で見る。


 彼女は腕輪を押さえていた。


 魔塔の研究者たちも、同じようなことを言ったのだろう。

 君の魔力は危険だ。

 君自身のために管理が必要だ。

 外へ出れば周囲を傷つける。


 善意の顔をした檻。


 イリスは、それを知っている。


「管理されることが、救いになる場合もあります」


 エルヴィアは続ける。


「混乱した者に自由だけを与えるのは、優しさではありません。迷子の子供へ、好きな方向へ歩いてよいと言うようなものです」


 治療所の中には、その言葉に頷く者もいた。


 確かに、正しい場面もある。


 怪我をした子供に、好きなように動けとは言わない。

 熱に浮かされた病人に、自由だから薬を拒めとは言わない。


 問題は、その線を誰が引くかだ。


 いつまで管理するのか。

 どうなれば自由に戻すのか。

 本人が嫌だと言った時、その声をどこまで聞くのか。


 エルヴィアの言葉には、そこがない。


 あるのは、導く者の責任だけだった。


「貴殿の言葉は正しい部分がある」


 セリアが口を開いた。


 エルヴィアは穏やかに視線を向ける。


「ですが、騎士団にも似た言葉がありました。民のため、秩序のため、王国のため。そうして命令された時、騎士は自分の疑問を押し殺すことがある」


「疑問を持つことは悪ではありません」


「疑問を持った者を、反逆者と呼ばなければの話です」


 治療所の空気が少し張り詰めた。


 エルヴィアは怒らなかった。


「セリア殿の冤罪については、私も詳細な再調査が必要だと考えています」


「再調査」


「ええ。貴女が本当に守ろうとしたものを、正しく記録するために」


 柔らかい言葉だった。


 だが、セリアは表情を緩めなかった。


「記録されるために守ったのではありません」


「でしょうね」


 エルヴィアは微笑む。


 その微笑みが、少しだけ深くなった。


「だからこそ、貴女は危うい。記録されない正義は、時に世界を乱します」


 その一言で、俺はエルヴィアの思想をさらに理解した。


 彼女にとって、善悪の問題ではない。


 記録されているか。

 管理されているか。

 秩序の中に置けるか。


 そこが重要なのだ。


 ミュールが俺の背後で小さく言った。


「夜爪より、静か」


「何が」


「命令の仕方」


 ミュールはエルヴィアを見ている。


「夜爪は失敗したら殺すって言う。でも、この人は助けるって言う。助けるから、こっちに来てって」


 彼女の声は低かった。


「そっちの方が、逃げにくい」


 俺は答えられなかった。


 ロゼッタもまた、エルヴィアの言葉を聞きながら帳面に何かを書いていた。


「ロゼッタ」


「契約文にすると分かりやすいです」


 彼女は小声で言う。


「保護、治療、補償、再調査、管理。すべて聞こえは良い。ですが解除条件が示されていません」


「解除条件」


「いつまで保護されるのか。誰が完了を判断するのか。本人が拒否した時どうなるのか。そこがない契約は、所有に近づきます」


 所有。


 その言葉が胸に刺さる。


 ナギは窓の外を見ていた。


「首輪がなくても」


 彼女は短く言う。


「檻は作れる」


 エルヴィアがこちらを見た。


 今の会話が聞こえていたのかもしれない。


 だが、彼女は何も咎めなかった。


「レオン殿」


「はい」


「貴方は、彼女たちをよく見ていますね」


 俺は警戒した。


「仲間ですから」


「ええ。仲間。とても美しい言葉です」


 エルヴィアはゆっくり頷く。


「傷ついた者を無理に従わせず、役割を与え、居場所を整え、力を引き出す。貴方の在り方は、支配ではなく導きに近い」


「俺は導いているつもりもありません」


「そう思えることが、貴方の危うさであり、優しさなのでしょう」


 彼女の言葉は、いつも半分だけ正しい。


 だから気持ちが悪い。


 完全に間違っていれば、否定すればいい。

 だが、そこには確かに、俺がしてきたことの一部がある。


 装備を整えた。

 傷を治した。

 戦い方を支えた。

 帰る場所を作った。


 それは、役割を与えることと紙一重だったのかもしれない。


 セリアには盾を。

 ミュールには斥候を。

 イリスには解析を。

 ロゼッタには帳簿を。

 ナギには剣を。


 俺は、そう呼んできた。


 必要だから。

 得意だから。

 彼女たち自身が選んだから。


 そう思っていた。


 だが、本当に毎回確認していたか。

 守るという言葉で、俺に都合のいい場所へ立たせていなかったか。


 エルヴィアの言葉は、そこを刺してきた。


 嫌悪だけで跳ね返せない。


 自分の中にも、支配に近づく可能性があると分かってしまうからだ。


 俺がそう考えかけた時、セリアが一歩近づいた。


「レオンは命令しない」


 短い言葉だった。


 ミュールが続く。


「選べって言う」


 イリスが震えながら頷く。


「怖いと言っても、待ってくれます」


 ロゼッタが帳面を閉じる。


「契約当事者を抜いた契約は、成立しません」


 ナギが最後に言った。


「道連れは、道を押さない」


 五人の言葉は、俺を慰めるためだけのものではなかった。


 釘だった。


 お前はそうするな。

 そうなりそうなら、私たちが止める。


 そう言われているのだと分かった。


 胸の奥が少しだけ軽くなる。


 同時に、重くもなる。


 信頼されている。

 だからこそ、見張られている。


 その距離が、今の俺たちには必要だった。


 エルヴィアは五人を見た。


 その目に、初めてほんの少しだけ興味の色が浮かんだ。


「なるほど」


 彼女は微笑む。


「だからこそ、貴方たちは危うく、そして得難い」


 褒め言葉なのか、警告なのか。


 分からなかった。


 エルヴィアは俺へ向き直る。


「貴方の力は、人を壊すためではない。傷ついた者を整え、乱れた力を穏やかに戻すためにある」


 その声は、祈りのように柔らかかった。


「混乱した者を無理に従わせるのではなく、安心できる場所へ導く。貴方なら、それができる」


 俺は黙っていた。


 エルヴィアは、静かに言った。


「貴方なら、きっと優しい主人になれます」


 治療所の祈りの声が、遠くなった。


 主人。


 その言葉だけが、白い壁の中で黒く浮いた。


 誰かを救うこと。

 誰かを導くこと。

 誰かのために場所を整えること。


 それらが少しずつ重なって、最後に主人という言葉へ変わる。


 エルヴィアは、それを善意として言った。


 だからこそ、俺は返事ができなかった。

 否定の言葉さえ、彼女の掌の上で整えられそうだった。

 それが、何より怖かった。



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