第071話 大司教エルヴィア
「その聖剣は、教会が正式に管理いたします」
エルヴィアの声は、決して大きくなかった。
だが、小法廷の誰もが聞いた。
木槌よりも強く。
騎士団長の命令よりも自然に。
彼女の言葉は、場の中心へ落ちた。
そして、誰もすぐには反論しなかった。
大司教エルヴィア。
王国教会の高位聖職者。
法衣は白と青。
首元と袖口には銀糸が走り、清廉な印象を与える。
だが、俺の目は別の場所へ引っかかった。
法衣の内側。
袖がわずかに揺れた瞬間、細かな刺繍が見えた。
装飾に見える。
祈りの文様にも見える。
けれど、どこかで見た気がした。
隷属刻印の残滓。
聖剣の封印布に浮かんだ黒い紋様。
勇者認定書と奴隷契約書の管理印。
それらと同じ、嫌な規則性があった。
イリスも気づいたのだろう。
彼女の指が、解析ノートの端を強く握った。
「大司教猊下」
審問官が姿勢を正す。
「本件について、教会としての正式な見解を」
「まず、確認すべきことがあります」
エルヴィアは穏やかに言った。
「昨日、御前試合場で民を守った者たちへ、教会として謝意を示します」
彼女の視線が俺たちへ向く。
「元聖騎士セリア殿。貴女の盾がなければ、被害は広がっていたでしょう」
セリアは無言で一礼した。
「ミュール殿。観客席で子を救ったと聞いています」
ミュールは耳を少し動かしただけだった。
「イリス殿。即席結界の判断は正しかった。魔力暴走の危険を抱えながら、よく制御なさいました」
イリスの肩が、びくりと震えた。
褒め言葉だ。
言葉だけなら。
だが、「魔力暴走の危険を抱えながら」という一節が、彼女の傷口へ指を置いた。
「ロゼッタ殿。退避命令の誘導、記録保全、いずれも迅速でした」
ロゼッタは表情を変えない。
「ナギ殿。光の軌道を逸らす剣技、見事でした」
ナギは目だけでエルヴィアを見た。
最後に、エルヴィアの視線が俺へ来る。
「レオン殿。敵味方を問わず治療した行いは、慈悲と呼ぶにふさわしい」
「治療対象だっただけです」
俺は答えた。
エルヴィアは微笑む。
「そう言える者は、多くありません」
言葉は柔らかい。
だが、俺は落ち着かなかった。
彼女は俺たちを責めていない。
むしろ、功績を認めている。
それなのに、まるで一人ずつ分類されているような感覚があった。
盾。
救助。
結界。
記録。
剣技。
治療。
彼女は俺たちを見ている。
人としてではなく、役割として。
「負傷者への補償については、教会が責任を持って対応します」
エルヴィアは続けた。
「観客席で負傷した者には無償治療を。破損した座席、売店、護衛具については、王都騎士団と協議のうえ、教会が一時立て替えます」
小法廷の空気が緩んだ。
民衆代表の席から、安堵の息が漏れる。
貴族席の者たちも、顔を見合わせた。
それまで誰も、補償の話をしなかった。
騎士団は責任を薄めることに忙しく、教会の男たちは聖剣の神聖さを守ることに忙しかった。
貴族席は、自分たちの体面と王族席の反応を見ていた。
だが、怪我をした民衆にとって必要なのは、制度の言い訳ではない。
治療費だ。
壊れた屋台の弁償だ。
明日働けない時の食費だ。
エルヴィアは、そこを最初に押さえた。
正しい。
本当に、正しい。
だから小法廷の空気は、彼女へ流れた。
民衆代表の男が、おずおずと口を開く。
「本当に、教会が治療を」
「ええ」
エルヴィアは頷いた。
「恐怖を覚えた者にも、祈祷師を遣わします。傷は肉体だけに残るものではありません」
その言葉で、民衆代表の肩から力が抜けた。
俺は、それを責められなかった。
今この場で、彼女は確かに民を安心させている。
それが嘘でないからこそ、厄介だった。
早い。
判断が早すぎる。
被害者の不安。
貴族の面子。
騎士団の責任。
教会の威信。
それら全てを、エルヴィアは一言ずつ処理していく。
正しい。
少なくとも、今この場では正しい。
だからこそ怖い。
ロゼッタが、小さく息を吐いた。
「お見事です」
「褒めているのか」
「手際を評価しています。信用はしていません」
彼女らしい答えだった。
「今の発言で、三つ処理されました」
ロゼッタは声を落として続ける。
「民衆は補償を得たので騒ぎにくくなります。貴族は教会が負担するので王都の面子を保てます。騎士団は調査を続ける名目を得て、即時の責任追及を逃れます」
「全部、丸く収めたってことか」
「はい。しかも、誰も損をしたように感じにくい形で」
ロゼッタの目が、エルヴィアから離れない。
「非常に危険です。あの方は、揉み消すのではなく、納得させながら包みます」
揉み消すよりも厄介だ。
無理やり蓋をすれば、隙間から怒りが漏れる。
だが、納得できる形で包まれたものは、包まれたことに気づきにくい。
「次に、勇者アルベルトについて」
エルヴィアの声が、ほんの少しだけ低くなる。
小法廷がまた静まった。
「彼を断罪することは容易です。ですが、勇者とは、常に民の期待を背負う者。公開裁判、御前試合、聖剣との過負荷。その全てが重なり、彼の心身は限界に達していたと見ます」
教会席の男たちが頷く。
騎士団長も、わずかに表情を緩めた。
アルベルト個人の罪を薄め、聖剣管理責任も薄める。
それでいて、彼を完全に無罪にするわけでもない。
柔らかい布で、問題の角を包むような言い方だった。
「聖剣はどうなります」
セリアが問う。
「教会が正式に封印し、再調査します」
「騎士団ではなく」
「聖剣は教会の管理聖具です」
エルヴィアは迷わず答えた。
「王国へ貸与され、勇者に託される。ですが根本の管理権限は教会にあります」
ロゼッタの指が、膝の上で止まる。
「管理権限」
彼女は小さく繰り返した。
エルヴィアはそれに気づいたように、微笑んだ。
「力は、正しく管理されてこそ人を救います。制御されない力は、善意からでも人を傷つける」
それは正論だった。
イリスが肩を震わせる。
魔塔で、彼女も似たことを言われたのだろう。
危険な魔力は管理されるべき。
あなたのため。
周囲のため。
世界のため。
その言葉は、正しく聞こえる。
だからこそ、逃げ道を塞ぐ。
「勇者アルベルトの身柄も、教会が預かります」
エルヴィアは言った。
「治療、検査、聖剣との接続解除。それらには専門の祈祷士と術式師が必要です」
「本人の意思は」
俺は思わず尋ねた。
エルヴィアが俺を見る。
「今の彼は、自分の意思を正しく扱える状態ではありません」
その答えも、正しかった。
聖剣に掴まれ、恐怖し、混乱していたアルベルト。
あの状態で自由意思を問うのは難しい。
だが、その言葉は別の使い方もできる。
自分の意思を正しく扱えない者は、管理されるべき。
危険なほど力を持つ者は、導かれるべき。
エルヴィアの思想の輪郭が、少しだけ見えた。
イリスが小さく震えていた。
俺は気づいて、声を落とす。
「大丈夫か」
「はい。いえ、あまり」
彼女は法衣の袖を見ていた。
「あの刺繍、古代文字です。祈祷文に見せていますけど、ところどころ接続文が混じっています」
「接続文?」
「魔術式と魔術式をつなぐ文字です。普通の法衣には、あんなに密に縫いません」
イリスは喉を鳴らした。
「あれ、服というより、身につける術式媒体です」
俺はエルヴィアを見る。
白と青の清廉な法衣。
穏やかな微笑み。
慈悲の言葉。
その内側に、古代文字が縫い込まれている。
彼女は聖職者であると同時に、術式を扱う者でもある。
それも、俺たちがまだ正体を掴めていない古い術式を。
「レオン殿」
彼女が俺を呼ぶ。
「はい」
「貴方は、勇者アルベルトを救おうとしました。彼に傷つけられ、侮辱され、それでも治療した」
小法廷の視線が俺へ集まる。
「それは、従わせる力ではありません」
エルヴィアは静かに言った。
「傷ついた者を、あるべき場所へ戻す力です」
俺は答えなかった。
あるべき場所。
その言葉にも、少しだけ棘がある。
誰が決めるのか。
あるべき場所とは、どこなのか。
奴隷市場で売られていたセリアのあるべき場所は、檻ではなかった。
ミュールのあるべき場所は、夜爪の命令ではなかった。
イリスのあるべき場所は、魔塔の実験台ではなかった。
ロゼッタのあるべき場所は、債務契約の鎖ではなかった。
ナギのあるべき場所は、黒杯の闘技場ではなかった。
あるべき場所という言葉は、簡単に人を閉じ込める。
俺は自分の膝の上で手を握った。
もし俺が、彼女たちのあるべき場所を決め始めたら。
セリアには盾が似合う。
ミュールには影が似合う。
イリスには研究が似合う。
ロゼッタには帳簿が似合う。
ナギには剣が似合う。
そう言うことは簡単だ。
だが、それを本人の選択より上に置いた瞬間、俺は主人になる。
優しい顔をした主人に。
エルヴィアは微笑んだまま続ける。
「貴方の力は、傷ついた者を従わせるのではなく、穏やかに導くためにあるのでしょう」
その言葉は、褒め言葉の形をしていた。
だが俺には、鎖の音に聞こえた。




