第069話 勇者制度への疑問
王都ギルド支部の一室は、試合場とは別の種類の熱を持っていた。
血の匂いはない。
石壁が砕ける音もない。
民衆の悲鳴も、聖剣の嫌な鳴動もない。
代わりにあるのは、紙の擦れる音。
記録石が再生する淡い光。
イリスの羽根ペンが走る音。
ロゼッタが帳簿をめくる、規則正しい指先の動き。
戦場ではない。
だが、ここも戦場だった。
剣で斬り合う場所ではない。
だが、ここで負ければ、試合場で見たものは全て別の名前を与えられる。
暴走は事故。
観客席への光は偶発的な出力乱れ。
封印箱は念のための安全装置。
アルベルトの異変は精神的疲労。
そう記録されれば、真実は簡単に細くなる。
細くなった真実は、次に誰かが踏まれた時、証拠として使えない。
だからロゼッタは、怪我人の搬送が終わる前に記録石の写しを確保した。
イリスは震える手で残留魔力を採取した。
ミュールは教会関係者の合図を覚えていた。
ナギは封印箱の音を忘れないと言った。
セリアは、騎士団の誰が動き、誰が動かなかったかを見ていた。
俺たちは、まだ勝っていない。
勝ったことにされる前に、負けたことにされないための戦いを始めていた。
「まず、事実を分けます」
ロゼッタが机の上に書類を並べた。
「一つ。聖剣の光は観客席へ向きました。二つ。アルベルト様は聖剣を手放せませんでした。三つ。封印箱は事前に用意されていました。四つ。聖剣には隷属刻印に似た術式がありました」
彼女はそこで一度、顔を上げる。
「そして五つ。王都騎士団は、これを事故として処理しようとしています」
「事故、か」
俺はその言葉を繰り返した。
言葉としては便利だ。
誰かが意図してやったのではない。
予期せぬ不幸だった。
だから、落ち着いて、正式な調査を待ってほしい。
そう言える。
だが、あの封印箱は何だった。
あらかじめ聖剣を封じるための箱があり、教会関係者は手順を知っていた。
それでいて、聖剣は勇者を登録しているかもしれない。
その全てを、ただの事故として畳むには無理がある。
「記録石を再生します」
イリスが小さく言った。
彼女の顔色はまだ悪い。
聖剣の術式を見た後から、ずっと指先が冷えている。
それでも、解析をやめようとはしなかった。
記録石に魔力を通すと、淡い光の中に御前試合場が浮かび上がる。
アルベルトが聖剣を握りしめる。
白い光が青黒く濁る。
観客席へ向く。
セリアが盾で受ける。
ナギが軌道を逸らす。
イリスの結界が広がる。
ミュールが子供を救う。
ロゼッタが審判を動かす。
そして、封印布。
聖剣の柄から、アルベルトの腕へ黒い紋様が走る。
イリスが映像を止めた。
「ここです」
彼女は震える指で、聖剣の柄を示す。
「剣先から魔力が出ているのではありません。柄の中核から、勇者さんの腕を通って出力されています」
「つまり、アルベルトの魔力を使っている?」
「それだけなら、普通の魔導具でもあります。でもこれは、本人の意思確認を挟んでいません」
イリスは言葉を選びながら続けた。
「魔導具は、使い手が魔力を流して発動します。けれど、この聖剣は逆です。聖剣側から勇者さんの魔力回路へ接続して、出力を引き出しています」
俺の手が、無意識に握られた。
「奴隷刻印と似ているのは、そこか」
「はい」
イリスは頷く。
「奴隷刻印は、命令を受けた時に本人の魔力回路へ干渉します。身体を動かしたり、痛みを与えたり、抵抗を弱めたりするために。聖剣の術式はもっと洗練されていますが、基本の流れが似ています」
セリアが低く息を吐いた。
「勇者を縛る剣か」
「まだ断定はできません」
イリスはすぐに言った。
「でも、ただ勇者を強くするだけの剣ではありません」
部屋が静かになった。
勇者。
聖剣。
祝福。
その言葉に、俺たちはどこかで清らかな印象を持っていた。
少なくとも民衆はそう信じていた。
けれど、今机の上にある映像は、もっと事務的で、もっと冷たい。
選ばれた英雄ではない。
登録された高出力人材。
そんな言葉が頭をよぎり、俺は顔をしかめた。
「こちらが勇者認定書です」
ロゼッタが次の書類を置く。
「写しですが、王都ギルド支部に保存されていた正式なものです。アルベルト様が勇者として認定された際の記録ですね」
俺は認定書を覗き込んだ。
勇者アルベルト・レイヴァン。
高位戦闘適性。
聖剣適合。
魔王軍対策特別戦力。
華々しい言葉が並んでいる。
だが、ロゼッタはそこを読んでいなかった。
「見ていただきたいのは、こちらです」
彼女が指したのは、本文の下部だった。
管理教会。
後見貴族。
監督騎士団。
遠征許可。
聖剣使用承認。
「勇者本人の権利より、管理者側の権限が多い」
俺が呟くと、ロゼッタが頷いた。
「はい。勇者という称号は、民衆向けには名誉です。ですが文書上は、個人の自由を保証するものではありません。むしろ、誰が勇者を監督し、誰が聖剣使用を承認し、どの範囲で活動させるかを定めた登録文書です」
「まるで契約書だな」
「契約書です」
ロゼッタは即答した。
「ただし、当事者の意思表示欄が不自然に薄い」
その言葉に、セリアが反応した。
「聖騎士任命式にも、似た文言があった」
彼女は記憶を辿るように目を細める。
「私は、女神と王国と民を守ると誓った。そう思っていた。だが、誓約文には確かに、教会の導きに従い、王国の秩序に背かず、任務を拒まないという文言があった」
「任務を拒まない」
ミュールが小さく繰り返す。
「命令に似てる」
「そうだな」
セリアの声は硬かった。
「私は誇りを持って誓った。誰かに強制されたとは思っていない。だが、あの誓いが本当に私の騎士道だけを支えるものだったのか、今は分からない」
ナギが窓辺から口を開いた。
「強い者を、先に縛る」
短い言葉に、全員が黙った。
そうだ。
奴隷だけではない。
危険な者。
強すぎる者。
制度に役立つ者。
そういう人間を、称号や誓約や聖剣で先に縛る。
もし勇者制度がそういうものなら、アルベルトは何だったのか。
加害者であることは変わらない。
だが、彼自身もまた、誰かに都合よく作られた勇者だったのかもしれない。
扉が叩かれた。
入ってきたのは、リリアだった。
額にはまだ包帯が巻かれている。
顔色も悪い。
だが、彼女は一人で立っていた。
「少しだけ、話してもいい?」
俺は頷いた。
「座れ。傷が開く」
「命令?」
リリアが皮肉っぽく言いかけて、すぐに目を伏せた。
「ごめん。そういうつもりじゃ」
「分かってる」
椅子を勧めると、リリアは力なく腰を下ろした。
しばらく沈黙してから、彼女は言った。
「アルベルトは、昔からああだったわけじゃない」
その言葉に、誰もすぐには反応しなかった。
「勇者候補だった頃、彼は失敗を許されなかった。訓練で倒れても、聖剣に選ばれた者は立てと言われていた。泣くな、迷うな、恐れるな。勇者は民の希望なんだからって」
リリアの手が震える。
「最初は、努力していたと思う。でも、いつからか、自分が特別だと思わないと壊れそうになっていた。周りもそれを止めなかった。勇者様、選ばれた方、あなたが正しいって」
「だからといって、彼のしたことが消えるわけではない」
セリアが静かに言った。
「分かってる」
リリアは唇を噛む。
「私も、レオンを軽く見ていた。みんなでそうしていた。だから、庇いに来たわけじゃない。ただ……聖剣があんなふうに彼を掴んでいるのを見て、思い出したの。勇者候補の登録式で、彼が一瞬だけすごく怖い顔をしたこと」
イリスが顔を上げる。
「登録式?」
「教会でやったの。聖剣適合の正式登録。手の甲に光が浮かんで、それから聖剣を握らされた。みんなは祝福だって言っていた」
「手の甲に」
俺は思わず自分の手を見た。
まだ何も浮かんでいない。
だが、嫌な予感がした。
ロゼッタは勇者認定書をもう一度めくった。
細かい文字を追い、末尾へ向かう。
「登録式の日付、教会立会人、聖剣管理者……」
彼女の指が止まった。
「ありました」
机の上に認定書を置く。
末尾。
署名欄のさらに下。
普通なら装飾と思って読み飛ばすほど小さな印。
ロゼッタの顔が、はっきりと強張った。
「この印」
「何か分かるのか」
「分かります。見覚えがあります」
彼女は、別の書類を取り出した。
黒杯から押収した、奴隷契約書の写し。
そこにも、小さな管理印があった。
奴隷商会の印ではない。
所有者の印でもない。
契約を登録するための、もっと上位の管理印。
ロゼッタは二つの印を並べた。
線の太さも、外側の形も違う。
だが、中心にある文様の組み方が同じだった。
「この印、奴隷契約書の管理印と構造が同じです」
部屋の空気が止まった。
勇者認定書と奴隷契約書。
本来なら、最も遠いはずの二枚の紙が、同じ根を持っていた。
誰もすぐには口を開かなかった。
紙の上の小さな印が、聖剣の光よりも冷たく見えた。
勇者と奴隷。
祝福と所有。
栄光と売買。
それらを分けているはずの線が、今、机の上で静かに歪んでいた。
勇者と奴隷、栄光と売買を分けているはずの線が同じ構造でつながり始めました。
次回、その疑問は公開の場で教会へ届きます。
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