第068話 封印される勇者
封印箱の内側で、聖剣が低く鳴った。
金属音ではない。
獣の唸り声にも似ていない。
もっと嫌な音だった。
首輪の内側で、命令が震える音。
見えない鎖が、持ち主を探している音。
俺には、そう聞こえた。
「封印箱を閉じろ!」
騎士団長の声で、騎士たちが動く。
銀の縁取りがされた黒い箱が、聖剣の上からかぶせられる。
箱の内側には、教会の印と王国紋が二重に刻まれていた。
勇者の剣を封じるための箱。
そんなものが、あらかじめ用意されていた。
その事実に、俺は引っかかった。
普通、英雄の象徴を封じる箱など必要になるのか。
少なくとも、ただの名誉ある聖剣なら、こんな厳重な封印具は用意しない。
ロゼッタも同じことを考えたらしい。
「騎士団長殿」
彼女が声をかける。
「その封印箱は、聖剣暴走時のために常備されていたものですか」
騎士団長の顔が強張った。
「今は負傷者救護が優先だ」
「救護は進めています。質問への回答を」
「商人風情が、騎士団の備品管理に口を挟むな」
ロゼッタは怯まない。
「備品ではありません。観客席へ攻撃を向けた聖剣を封じるための専用箱です。事前に存在していたなら、王都側は聖剣暴走の可能性を認識していたことになります」
周囲の騎士たちが、わずかにざわめいた。
騎士団長は口を閉ざす。
答えない。
それが、ほとんど答えだった。
「黙れ……」
アルベルトが呻いた。
彼は膝をついたまま、右手を押さえている。
指は震え、手首には黒い紋様の跡が残っていた。
聖剣は封印箱に入った。
だが、まだ完全に離れたわけではない。
アルベルトの腕には、剣の影だけが残っている。
「俺は、勇者だ」
彼は誰に言うでもなく呟いた。
「俺は、選ばれたんだ」
その声は、もう民衆へ聞かせる英雄の声ではなかった。
自分自身に言い聞かせる声だった。
観客席の端で、誰かが小さく呟いた。
「勇者様が、あんな顔をするのか」
その声は、すぐに周囲のざわめきに紛れた。
だが、消えはしなかった。
勇者は恐れない。
勇者は迷わない。
勇者は常に民を守る。
王都の民が信じていた物語に、今、ひびが入っている。
アルベルトが恐れたことが問題なのではない。
人なら恐れる。
そこに不思議はない。
問題は、勇者が恐れることすら許されない存在として飾られてきたことだ。
そして、その飾りを守るために、誰かが事実を畳もうとしていることだった。
ダリオが近づこうとして、足を止める。
リリアは治療を受けながら、青い顔でアルベルトを見ていた。
ボルグは瓦礫から救い出した男を騎士に預け、拳を握っている。
勇者パーティもまた、何を言えばいいのか分からない顔をしていた。
「拘束する」
騎士団長が命じる。
騎士たちがアルベルトへ近づいた。
「触るな!」
アルベルトが吠える。
だが、その声には力がない。
騎士二人が左右から腕を取る。
アルベルトは振り払おうとしたが、足元がふらついた。
聖剣を失ったから弱くなったのではない。
聖剣に何かを吸われたのだ。
イリスが小さく息を呑む。
「魔力だけじゃありません。神経の反応も乱れています」
「治せるか」
「応急なら。でも、原因が残っていると戻ります」
俺は迷った。
アルベルトを助けたいかと聞かれれば、答えは簡単ではない。
五年前からの積み重ねがある。
追放された日の言葉がある。
法廷で五人を踏みにじった声がある。
それでも、目の前で倒れかけている人間を放置するほど、俺は自分の仕事を捨てられなかった。
「最低限だけ処置する」
「レオン様」
ロゼッタが短く呼んだ。
止める声ではない。
確認する声だった。
俺は頷く。
「助ける。許すのとは別だ」
「かしこまりました」
ロゼッタはそれ以上言わなかった。
彼女は感情で判断を鈍らせない。
だからこそ、俺が今どの線を越えようとしていないかも分かってくれる。
敵を治療することは、敵の罪を消すことではない。
そこを間違えたら、この先の裁きも証拠も全部歪む。
俺が近づくと、アルベルトが睨んだ。
「近づくな、レオン」
「黙ってろ。治療対象だ」
「俺を見下すな」
「見下してない。診てる」
俺は彼の手首に触れた。
熱い。
皮膚の下に、まだ黒い線が走っている。
治癒師の感覚で神経を読む。
鑑定士の感覚で魔力の流れを見る。
聖職者の感覚で呪いに近い濁りを探る。
どれにも似ている。
だが、どれとも違う。
命令の残滓。
そう呼ぶしかないものが、アルベルトの腕に残っていた。
「くそ……何をした」
「止血と神経の保護だ。暴れるな」
「俺に命令するな」
「これは命令じゃない。治療上の要求だ」
言ってから、俺は一瞬だけ息を止めた。
前にも似た言葉を言った。
セリアに。
命令ではなく、治療対象としての要求。
あの時と違うのは、相手が俺を信頼していないことだ。
俺も、アルベルトを信頼していない。
それでも、命令ではないという線だけは守る。
ここを曖昧にしたら、俺は「優しい主人」と呼ばれる何かと変わらなくなる。
まだその言葉を敵から突きつけられる前から、その危険は俺の中にあった。
「連行しろ」
騎士団長が言った。
アルベルトは抵抗しようとしたが、足が動かなかった。
騎士たちに支えられる形で、試合場の外へ連れていかれる。
民衆の視線が彼を追った。
歓声はない。
罵声も、まだない。
ただ、沈黙があった。
昨日まで勇者と呼ばれた男が、封印箱と共に運ばれていく。
その光景を、王都の人々は言葉にできず見ていた。
「記録石を止めろ」
騎士団長が低く命じた。
だが、ロゼッタがすぐに反応する。
「止めてはいけません」
「事故処理は騎士団が行う」
「事故かどうかを判断するためにも、記録は必要です」
「貴殿らは当事者だ。これ以上の介入は混乱を招く」
その言葉に、俺はようやく気づいた。
もう始まっている。
火消しが。
勇者の聖剣が観客席へ向いた。
民衆に被害が出かけた。
聖剣には隷属刻印に似た術式があった。
アルベルトは剣を離せなかった。
それらを一つの線でつながせないために、騎士団は動き始めている。
「混乱を招いたのは、聖剣です」
ロゼッタは静かに言った。
「記録を止めることではありません」
騎士団長の顔が険しくなる。
そこへ、教会席から白い法衣の男たちが降りてきた。
彼らは騎士団長と短く言葉を交わし、封印箱の周囲へ立つ。
その動きは早かった。
慣れている。
ミュールが俺の横へ戻ってくる。
「合図、してた」
「誰が」
「教会の人たち。箱が閉まった瞬間、袖の中で指を二回」
ミュールは声を落とした。
「予定外じゃない。少なくとも、手順は知ってた」
俺の背筋が冷えた。
ナギも封印箱を見ている。
「あの箱、檻に似ている」
「聖剣を封じる檻か」
「違う」
ナギは首を振った。
「勇者ごと入れる檻」
その言葉は、試合場のざわめきの中で妙に重く残った。
負傷者の救護は進んでいる。
観客の退避も始まっている。
騎士団は動いている。
教会は祈っている。
一見、秩序は戻りつつあった。
だが、その秩序はどこか不自然に早すぎた。
壊れたものを直しているのではない。
壊れたことを、なかった形へ整えようとしている。
騎士団長がこちらへ歩いてきた。
その後ろには、教会の白い法衣が二人。
「レオン殿」
声は丁寧だった。
だが、目は笑っていない。
「この度の事故における救護協力には感謝する」
「事故、ですか」
俺は聞き返した。
騎士団長は表情を変えない。
「勇者アルベルトの一時的な精神不安定、および聖剣出力の乱れによる事故だ。詳細は王都騎士団と教会が調査する」
ロゼッタが一歩前へ出る。
「その表現は早計です。聖剣側の術式異常、封印箱の事前準備、教会管理印の有無を確認するまでは」
「混乱を広げる発言は控えていただきたい」
騎士団長の声が硬くなった。
「王都は今、勇者制度への不信を煽られる状況にない」
俺は、彼の後ろにいる民衆を見た。
怪我をした者。
泣いている子供。
家族を探す老人。
助かったことに震えている者。
彼らは、もう見ている。
俺たちが何かを煽る前に、勇者の剣が民衆へ向いた事実を見てしまった。
その中に、さっきミュールが助けた子供を抱く女がいた。
女は俺たちを見ていた。
怯えは残っている。
だが、それだけではない。
彼女の視線は一度、連行されるアルベルトへ向き、次に封印箱へ向き、最後にセリアの盾へ戻った。
言葉にはなっていない。
だが、問いは生まれている。
誰が危険だったのか。
誰が守ったのか。
勇者とは何なのか。
王都側が一番恐れているのは、きっとその問いだった。
騎士団長は続けた。
「勇者制度への不信を煽る発言は、王都の混乱を招きます」
その言葉は、協力要請の形をしていた。
だが中身は、口止めだった。
そして、口止めが必要な時点で、彼らは何かを隠している。
それだけは、もう疑いようがなかった。
王都側の協力要請は、ほとんど口止めでした。
隠したいものがあるからこそ、勇者制度の奥へ視線が向き始めます。
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