第063話 価値を決めるもの
レオンが、アルベルトの価値観を真正面から否定する回です。
勇者パーティ時代の「雑用」の意味も、ここで裁判の材料になります。
「奴隷の証言に価値などない」
その言葉は、法廷の天井に当たって落ちてくるようだった。
誰もすぐには声を出さなかった。
傍聴席の民衆も、貴族席の者たちも、騎士団も、魔塔も、教会の白い袖の者たちも。
ただ、五人の戦乙女たちだけが、それぞれ違う表情でアルベルトを見ていた。
セリアの瞳は冷えていた。
ミュールは表情を消していた。
イリスは怖がっていたが、もう目を伏せていなかった。
ロゼッタは帳簿の角に指を置いたまま、俺を見た。
ナギは静かに刀の柄へ触れていた。
俺は立ち上がった。
「今の言葉を、取り消せ」
自分でも驚くほど、低い声だった。
アルベルトが鼻で笑う。
「何を怒っている。事実を言っただけだ。奴隷は主人の持ち物だ。持ち物の言葉に、価値などあるものか」
「違う」
短く、俺は否定した。
裁判長が眉をひそめる。
「レオン殿、発言は許可を得てから」
「許可を求めます」
俺は裁判長を見た。
「ただし、今の発言は、この裁判の根に関わります。俺が違法に奴隷を所有したかどうか。その前提として、ここにいる彼女たちの言葉を無価値だとするなら、この裁判は最初から結論ありきです」
法廷に小さなどよめきが走った。
裁判長は不快そうに唇を結んだが、完全には止められなかった。
「……簡潔に」
「ありがとうございます」
俺はアルベルトへ向き直る。
「価値を決めるのは、首輪じゃない。肩書きでもない。勇者か、奴隷か、貴族か、平民かでもない」
「綺麗事を」
「綺麗事で人は歩けない」
俺は言った。
「歩くには、食料がいる。薬がいる。壊れない靴がいる。地図がいる。夜番がいる。宿の交渉がいる。怪我をした仲間を運ぶ手がいる」
アルベルトの顔から、わずかに笑みが消えた。
俺は続けた。
「お前が雑用と呼んだものだ」
ロゼッタが、待っていたように立ち上がった。
「裁判長。証拠品の追加提出を求めます」
「何ですか」
「元勇者パーティ遠征記録の写しです。食料購入票、薬品調合記録、装備修繕費、宿泊交渉の契約控え、ギルド支部への事前照会票。いずれも、レオン様が勇者パーティ在籍時に作成、または処理したものです」
ロゼッタが束ねた書類を掲げる。
俺は、その束を見て少しだけ息を呑んだ。
懐かしい、とは思わなかった。
むしろ、胸の奥がざらついた。
追放された日の前まで、俺はそれを当然だと思っていた。
誰かが戦いやすいように。
誰かが怪我をしても戻ってこられるように。
誰かが勝利の歓声を浴びる時、その背中に穴が開かないように。
俺は、そういう仕事をしていた。
アルベルトは、それを一言で切り捨てた。
「雑用だ」
予想通りの言葉だった。
ロゼッタの目が細くなる。
「では確認いたします。雑用であるなら、誰が行っても同じですね」
「当然だ」
「勇者パーティの出発前食料計算。沼地遠征時の解毒薬配分。北街道での予備車軸手配。魔獣の群れが出た際の迂回路確認。いずれも、誰が行っても同じ結果になったと証言なさいますか」
「そんな細かいことを、いちいち覚えているか」
「覚えていないのですね」
ロゼッタは、淡々と書類をめくった。
「ですが、記録は覚えています」
傍聴席がざわめく。
彼女の声は大きくない。
けれど、商会で鍛えられた声は、法廷の奥まで通った。
「こちらは王都西方ギルド支部、受付マルタ殿の証言書です。レオン様は、勇者パーティ在籍時、魔獣素材の下処理、負傷者用薬草の選別、依頼前の危険情報確認を継続して行っていた。追放後、勇者パーティは同支部において、依頼達成率、素材保存状態、負傷者対応のすべてが悪化した」
アルベルトが舌打ちした。
「受付女の言葉だろう」
「次に、鍛冶師ガレス殿の証言書です」
ロゼッタは止まらない。
「レオン様は戦闘職ではないにもかかわらず、前衛武器の歪み、盾の縁の欠け、馬具の摩耗を遠征前に確認していた。追放後、勇者パーティは整備不良による破損が増えた。特に車軸の予備手配を怠った件について、ガレス殿は『壊れるべくして壊れた』と記しています」
傍聴席の誰かが息を漏らした。
車軸。
あの日、街道で折れた車軸のことだ。
俺は見ていた。
何も言わず、通り過ぎた。
あの時は、それでよかったと思っている。
だが今、その一件はただの笑い話ではなくなっていた。
勇者パーティが何を失ったのかを示す、記録の一つになっていた。
「さらに宿屋組合からの回答です。レオン様は勇者パーティの名を濫用せず、損害保証と支払期日を明記して宿を確保していた。追放後、アルベルト様一行は、予約不備、器物破損、未精算の苦情を複数回受けています」
「黙れ!」
アルベルトの声が法廷を揺らした。
だが、もう遅かった。
ロゼッタは、彼の怒鳴り声を恐れなかった。
「これらは、全て雑用です」
彼女はあえて、アルベルトの言葉を使った。
「食料も、薬も、装備も、宿も、情報も、金銭管理も。剣を振るう瞬間には見えない仕事です。ですが、それがなければ遠征は始まりません。戦場にも辿り着けません。勝った後、生きて帰ることもできません」
民衆のざわめきが変わった。
さっきまでの好奇と疑いではない。
何かを考え始めた音だった。
ロゼッタは最後の書類を置いた。
「勇者パーティが英雄として称えられた時、その足元にあった仕事を、アルベルト様は今も雑用と呼ばれますか」
アルベルトは答えなかった。
俺は、彼を見た。
「俺の仕事に価値があったと言いたいんじゃない」
言いながら、自分の声が少し震えていることに気づいた。
怒りだけではなかった。
悔しさ。
痛み。
そして、今ここに立つ五人の言葉を踏みにじられたことへの、どうしようもない熱。
「見えないから価値がない。弱いから価値がない。首輪があるから価値がない。そうやって決めつけた先で、お前は何を見落としてきた」
アルベルトの拳が震える。
「黙れ、レオン」
「黙らない」
俺は、はっきり言った。
「価値を決めるのは、踏みつける側の声じゃない。生きようとする者が、何を選び、何を守り、誰のために手を伸ばしたかだ」
セリアが静かに目を伏せた。
ミュールの肩から、わずかに力が抜けた。
イリスが胸の前で両手を握る。
ロゼッタは小さく息を吐いた。
ナギは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
裁判長が木槌を鳴らした。
「静粛に。静粛に」
だが、静粛には戻らなかった。
傍聴席の空気が、明らかに変わっていた。
「勇者様は、そんな準備もしていなかったのか」
誰かが、小さく言った。
その声は決して大きくなかった。
だが、法廷の誰もが聞いた。
アルベルトが傍聴席を睨む。
「誰だ。今のは誰だ」
誰も名乗り出なかった。
けれど、怯えて沈黙したのではない。
さっきまでの沈黙とは違う。
ひとつの疑問が、隣の疑問を呼んでいた。
「薬の準備をしていたのは荷物持ちだったのか」
「なら、勇者様が負傷者を助けたという話は」
「いや、剣を振ったのは勇者様だろう」
「だが、戻ってこられたのは誰の仕事だ」
小声が重なっていく。
裁判長がもう一度木槌を鳴らした。
「静粛に。これ以上の私語は退廷を命じます」
教会席の者が、裁判長へ何かを囁く。
裁判長の眉間に皺が寄った。
彼らにとって、これは危険な流れなのだろう。
奴隷の証言に価値はない。
雑用に価値はない。
弱者の選択に価値はない。
そう決めておけば、話は簡単だった。
上に立つ者が認めたものだけが価値を持つ。
教会が聖と呼んだものだけが聖で、王都が合法と呼んだものだけが合法になる。
だが、誰かが問い始めた。
見えない仕事は、本当に無価値なのか。
首輪をつけられた者は、本当に何も選べないのか。
その問いは、木槌で黙らせられるものではなかった。
ロゼッタが俺の横へ戻ってくる。
「よく抑えましたね」
「抑えられていたか?」
「剣を抜かなかっただけ、十分です」
彼女らしい言い方だった。
俺は苦く笑いかけて、やめた。
まだ笑う場面ではない。
アルベルトは、こちらを睨み続けていた。
その視線は俺に向けられているようで、実際には違った。
彼は見ていた。
傍聴席を。
民衆を。
貴族席を。
騎士団を。
自分を当然のように称えていたはずの場所が、今、ほんの少しだけ揺らいでいる。
それが、彼には耐えられないのだ。
アルベルトが歯を食いしばる。
「記録だの証言書だの、いくら並べたところで、俺が魔獣を斬った事実は変わらない」
「変わらない」
俺は認めた。
法廷が静かになる。
「お前が強いことは、俺も知っている。剣の腕も、聖剣の力も、本物だ」
アルベルトの目が揺れた。
否定されると思っていたのだろう。
俺は続ける。
「だからこそ、間違えるな。強さは価値の一つだ。全部じゃない」
セリアが小さく頷いた。
彼女は、それを誰より知っている。
強い騎士であっても、守るべきものを見失えば、剣はただの暴力になる。
「お前が魔獣を斬った。その前に、誰かが道を調べた。誰かが薬を用意した。誰かが装備を直した。誰かが宿を押さえ、誰かが金を数え、誰かが負傷者を背負った」
俺は五人を見た。
「今、ここにいる彼女たちも同じだ。戦う者もいる。支える者もいる。怖がりながら立つ者もいる。帳簿で戦う者もいる。檻を壊すために剣を抜く者もいる」
アルベルトの口元が歪んだ。
「それを全部、奴隷だから無価値だと言うなら」
俺は一歩だけ前へ出た。
「お前は、勇者である前に、人を見る目を失っている」
アルベルトの顔が、赤く染まった。
そして俺は、彼の目の奥に初めて、恐怖に似た色を見た。
肩書きや身分ではなく、誰をどう扱うかで価値は決まる。
レオンの言葉は、アルベルトの目に初めて恐怖に似た色を浮かべさせました。
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