表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
58/145

第058話 暗殺者の過去を断つ

 南区の施療院は、指定宿から走って十分ほどの場所にあった。


 王都の裏通りは、昼の白い城壁とはまるで違う顔をしている。

 狭い道。

 濡れた石畳。

 薬草と汚水の匂い。

 窓の少ない建物。


 ミュールは先頭を走っていた。


 足音がない。

 呼吸も乱れない。


 だが、背中だけでわかった。


 焦っている。


「ミュール」


 俺が呼ぶと、彼女は振り返らずに答えた。


「いる」


「誰が」


「夜爪」


 短い。


 それだけで十分だった。


 施療院の前には、王都ギルド支部の護衛が一人倒れていた。

 肩から血を流している。

 セリアがすぐに膝をつく。


「生きている」


「頼む」


 俺は治療薬を渡し、建物の中へ入る。


 薬草の匂いに混じって、鉄の匂いがした。


 血。


 ミュールの耳が伏せる。


「奥。まだ生きてる」


 廊下の突き当たり。

 小さな病室。


 そこに、元文官ユリウス・ベイルはいた。


 細い男だった。

 黒杯の檻にいた時より少しだけ顔色は戻っているが、まだ痩せている。

 胸元に包帯。

 腕には新しい切り傷。


 そのベッドの横に、黒い影が立っていた。


 夜爪の暗殺者。


 細身の男。

 顔の下半分を布で隠し、右手には短い刃。

 左手には、黒い爪の印が入った針。


 彼はユリウスの喉へ刃を近づけていた。


「止まれ」


 ミュールの声が落ちた。


 暗殺者の動きが止まる。


 彼はゆっくり振り返った。


「誰かと思えば」


 声に笑いが混じっている。


「失敗作か」


 ミュールの瞳が冷える。


 俺は一歩出ようとして、止まった。


 ここで俺が前へ出れば、ミュールの戦いを奪う。


 彼女は小さく息を吐いた。


「カザル」


「名前を覚えていたか。嬉しいな」


 カザルと呼ばれた男は、刃をユリウスから離さない。


「それとも、今の飼い主に教えられたか?」


 ミュールの尾が低く揺れる。


「飼い主はいない」


「首輪を外されても、言葉は覚えたままか。可哀想に」


 ミュールは答えない。


 部屋の中に、張り詰めた糸のような空気が走る。


 セリアは廊下側で退路を塞いでいる。

 イリスは腕輪に触れ、術式の流れを探っている。

 ロゼッタはユリウスの書類鞄を見つけ、倒れた椅子の陰へ引き寄せていた。

 ナギは刀に手をかけているが、抜いていない。


 全員が、ミュールを見ていた。


 カザルは笑う。


「その文官を守るのか、ミュール」


「守る」


「またか」


 また。


 その言葉で、ミュールの耳がわずかに震えた。


 カザルは楽しそうに続ける。


「お前は昔からそうだったな。任務の意味を考えるなと教えたのに、標的の目を見る。命令だけ聞けと言ったのに、理由を探す」


 ユリウスが薄く目を開けた。


「君は」


「喋るな」


 カザルが刃を近づける。


 ミュールの足が半歩沈んだ。


「動くな」


 カザルは言う。


「動けば、この男の喉を切る」


 ミュールは止まった。


 だが、止まったのは体だけだ。

 目は動いている。

 匂いを読んでいる。

 空気の流れを読んでいる。

 カザルの指の力、刃の角度、ユリウスの呼吸。


 俺は息を潜めた。


「覚えているか」


 カザルが囁く。


「三年前、王都財務局の文官を消す任務。奴隷商会と貴族代理口座の記録を持ち出した男だ。お前はそいつを殺せなかった」


 ミュールの瞳が揺れた。


「標的には家族がいた。泣いていた。だから躊躇した。馬鹿な刃だ」


 ユリウスがかすれた声を出す。


「その文官は、私の同僚だ」


 カザルが笑う。


「そうだ。こいつはその続きだ。お前が殺せなかった記録は、まだ残っている。だから今度こそ消す」


 ミュールの呼吸が浅くなる。


 奴隷落ちの理由。


 任務失敗。

 殺せなかった。

 責任を押しつけられて売られた。


 断片だったものが、ここでつながった。


 ミュールの目が、一瞬だけ遠くなった。


 たぶん、彼女は見ている。


 昔の夜を。


 王都の雨。

 濡れた屋根。

 窓の内側で震える文官。

 机の上に広げられた帳簿。

 赤鎖の名。

 貴族代理口座。

 そして、隣室で泣いていた子供。


 殺せ、と命じられた相手は、敵ではなかった。

 ただ、見てはいけない数字を見てしまった人間だった。


 ミュールはその時、刃を止めた。


 止めたせいで、任務失敗になった。

 失敗作と呼ばれた。

 夜爪から切り捨てられ、奴隷商へ売られた。


 それでも。


 今、同じ種類の証人が目の前にいる。


 今度は、刃を止めるだけでは足りない。


 守らなければならない。


 カザルは刃を少し動かす。


「戻ってこい、ミュール。今ならまだ使える。命令を聞く刃に戻れ」


「戻らない」


「お前は失敗作だ」


「違う」


 ミュールの声は小さい。


 だが、部屋の中ではっきり響いた。


「ミュールは、失敗作じゃない」


 カザルの目が細くなる。


「では何だ」


 ミュールは俺を見なかった。


 命令を待っていない。

 許可も求めていない。


 ただ、自分で決めていた。


「ミュールは、証人を守る」


 次の瞬間、イリスの腕輪が小さく光った。


 カザルの足元に落ちていた水が、一瞬だけ重くなる。

 ほんの一瞬。


 カザルの重心が乱れた。


 ミュールが消える。


 いや、見えなくなった。


 刃と刃がぶつかる音。

 ユリウスの喉元にあった短剣が、床へ落ちる。


 カザルはすぐに後退した。

 だが、ミュールは追いすぎない。

 ユリウスの前に立つ。


 守る位置に。


 カザルの目が変わった。


「殺しに来ないのか」


「今は、守る」


「つまらない刃になったな」


「刃だけじゃない」


 ミュールは短剣を構える。


 その姿は、黒杯で見た暗殺者の影ではなかった。

 小さな背中で、弱った証人の前に立っている。


 カザルが舌打ちする。


「夜爪の合言葉を言え。お前がまだ組織の刃なら」


 ミュールは黙る。


 かつて何度も言わされた言葉なのだろう。

 命令を聞くための言葉。

 自分を消すための言葉。


 そして、彼女は首を横に振った。


「言わない」


「忘れたか」


「捨てた」


 カザルの顔から笑みが消える。


「何?」


 ミュールは短剣を下げない。


「ミュールは、ミュール」


 その一言で、部屋の空気が変わった。


 カザルが、初めて本気で怒った顔をした。


「名前で刃は研げない」


「研がなくていい」


 ミュールが踏み込む。


 今度は速さだけではない。

 相手を殺すための最短でもない。

 カザルの刃を外し、腕を打ち、足を止める。


 セリアが廊下側から逃げ道を塞ぐ。

 ナギが窓側へ回る。


 カザルは逃げようとした。


 だが、ロゼッタが拾っていた書類鞄を彼の足元へ投げた。

 中身の紙が散る。

 一瞬、視界が乱れる。


 ミュールの短剣の柄が、カザルのこめかみを打った。


 男は崩れ落ちる。


 殺していない。


 ミュールは肩で息をしていた。


 俺は近づく。


「大丈夫か」


「大丈夫じゃない」


 正直な答えだった。


「でも、守った」


「ああ」


 ユリウスがベッドの上で震えていた。


「ありがとう」


 ミュールは少し困った顔をした。


「証言、できる?」


「する」


 ユリウスは弱く頷いた。


「君が守ってくれたなら、私も話す。財務局の帳簿、赤鎖、貴族代理口座、全部」


 ロゼッタがすぐに紙を出す。


「素晴らしいですわ。意識があるうちに、要点だけ」


「容赦ないな」


「証言は鮮度が命です」


 ユリウスは苦しそうに息を吸った。


「黒杯の金は、赤鎖を通って三つに分けられていました。一つは貴族代理口座。一つは魔塔系の研究基金。一つは、教会系慈善院」


 ロゼッタの羽根ペンが走る。


「慈善院名は」


「聖エルナ救済院。表向きは孤児と解放奴隷の保護施設です」


「表向き」


「実際には、労務院への人の流れを整える窓口になっていました。身元不明者、債務者、奴隷身分から解放されたはずの者。書類上の保護対象が、数日後には労務院へ移される」


 俺は息を詰めた。


 解放。

 保護。

 救済。


 きれいな言葉の先に、別の檻がある。


 ユリウスは続ける。


「私はその帳簿を見ました。だから消されかけた」


 彼はミュールを見る。


「三年前、同僚も同じものを見た。彼は殺されなかった。逃げ延びたと聞いていたが、君が」


 ミュールは首を横に振る。


「助けられなかった。殺さなかっただけ」


「それで十分だったのかもしれない」


 ユリウスの声は弱い。


「彼が残した写しが、私に届いた。だから私は帳簿に気づけた」


 ミュールの耳がわずかに動いた。


 過去に止めた刃が、完全な失敗ではなかった。


 その事実が、彼女に届いたのかはわからない。


 けれど、彼女の肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。


 ミュールはカザルを見下ろしていた。


 元上官。

 失敗作と呼んだ男。

 夜爪の合言葉を求めた男。


 その男は、今、床に倒れている。


 ミュールは小さく息を吐く。


「レオン」


「何だ」


「あとで、褒めて」


「今も褒めたい」


「あとで。今は、証人」


 そう言って、彼女はユリウスのベッドの横に座った。


 守るために。


 暗殺者の過去は消えない。


 だが、ミュールはその夜、過去の合言葉を捨てた。


 自分の名前で、証人を守った。



ミュールは過去の合言葉を捨て、自分の名前で証人を守りました。

命令ではなく自分の判断で動くことが、彼女の救いとして積み重なっています。

少しでも続きが気になったら、ブックマーク・評価・いいねで応援していただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ