第053話 旅路の小休止
王都へ向かう道は、思っていたより静かだった。
もっと追っ手が来ると思っていた。
もっと嫌な視線を浴びると思っていた。
もっと早く、王都の手が伸びてくると思っていた。
だが、街道には初夏の風が吹いているだけだった。
荷馬車の車輪が土を踏む。
馬の鼻息。
遠くで鳴く鳥の声。
荷台に積まれた書類箱が揺れる音。
静かすぎて、逆に落ち着かない。
俺たちは二台の馬車で王都へ向かっていた。
一台目には、俺、ロゼッタ、イリス。
書類と薬品と魔導具を積んでいる。
二台目には、セリア、ミュール、ナギ。
見た目は護衛馬車だ。
実際、護衛馬車でもある。
解放者の家は、マルタとガレスに任せた。
ギルド職員が二人入り、救出者の保護記録も整えてある。
トマは最後まで門の前に立っていた。
出発する時、彼はこう言った。
「床、掃いておく」
それが、なぜか一番効いた。
帰る場所がある。
帰った時、掃かれた床がある。
それだけで、王都へ向かう足が少しだけ重く、少しだけ強くなった。
昼過ぎ、街道脇で休憩を取った。
セリアは馬車から降りるなり周囲を確認した。
「見通しはよい。だが、あの林は死角になる」
ミュールが鼻を鳴らす。
「人の匂いはない。古い獣の匂いだけ」
ナギは林の位置と街道の幅を見ている。
「待ち伏せには向かぬ。逃げ道が少ない」
三人がそれぞれ別の見方をしている。
セリアは守る位置。
ミュールは匂いと気配。
ナギは斬り合いの間合い。
同じ景色を見ているのに、見えているものが違う。
俺は馬車の影に腰を下ろし、装備袋を開いた。
「セリア、盾の革紐を見せてくれ」
「また緩んでいるか」
「昨日よりはいい。ただ、王都で長時間持つなら少し調整したい」
セリアは素直に盾を渡した。
彼女が俺に装備を預けることに、もう迷いはない。
それが少し嬉しい。
革紐を締め直していると、ナギが横から見ていた。
「貴殿は、本当に雑用をするのだな」
「元雑用係だからな」
「卑下ではなく?」
「半分は卑下だった。今は、少し違う」
俺は結び目を整える。
「誰かの道具を直すのは、嫌いじゃない」
ナギは黙って自分の刀を見る。
「見てもいいか」
「刀をか」
「嫌ならいい」
ナギは少し考え、鞘ごと刀を差し出した。
重みがある。
細身だが、ただ軽いだけではない。
柄には擦れた跡。
鍔には古い傷。
鞘には黒杯でついた新しい傷がある。
「ガレスさんが見たら、三日は騒ぐな」
「怒るのか」
「たぶん」
「喜ぶのか」
「たぶん」
ナギは少しだけ目を細めた。
「奇妙な男だ」
「否定できない」
イリスは馬車の中で、ナギの首輪から写した術式図を広げていた。
「ナギさん、少しだけ確認してもよろしいですか」
「首輪か」
「はい。痛みが出ない範囲で」
ナギは俺を見る。
「道連れ、これは受けてもよいか」
「君が嫌でなければ」
「嫌ではない。慣れぬだけだ」
イリスは慎重に魔石をかざした。
紫の光が、ナギのうなじの下で淡く跳ねる。
「やはり、奴隷契約より古い層があります。東雲流の認証は、血筋だけでなく、型の記憶も見ているようです」
「型の記憶?」
「体に刻まれた動き、魔力の流れ、呼吸。それらを鍵として認識する術式かもしれません」
ナギは刀に手を置いた。
「剣が、鍵か」
「正確には、剣を振るう貴女自身が鍵です」
その言葉に、ナギの表情がわずかに曇る。
自分が鍵。
自分が所有物ではなくても、誰かに利用される価値がある。
それは彼女にとって、まだ痛い事実だ。
ロゼッタが書類箱を閉じた。
「利用される価値があることと、利用させるかどうかは別ですわ」
ナギがロゼッタを見る。
「契約の話か」
「人生の話です」
ロゼッタはさらりと言った。
休憩の後、夕方まで進んだ。
日が傾き始めた頃、街道脇の小さな空き地で野営することにした。
セリアが周辺を確認し、ミュールが罠の有無を見て、ナギが逃げ道を見た。
イリスは簡易結界を張り、ロゼッタは食料袋を開いて顔をしかめる。
「保存食が固いですわ」
「旅の保存食だからな」
「貴族令嬢を何だと思っているのです」
「元、だろ」
ロゼッタが俺を見た。
「今の失言、帳簿につけますわ」
「何の帳簿だ」
「減点帳です」
ミュールが干し肉をかじりながら言う。
「レオン、減点多そう」
「否定してくれ」
「無理」
イリスが小さく笑った。
セリアまで口元を緩める。
ナギは焚き火の向こうで、そのやり取りを見ていた。
「不思議な一団だ」
「よく言われる」
「貴殿らは、主従ではない。軍でもない。家族とも少し違う」
ナギは言葉を探すように焚き火を見る。
「だが、誰かが離れると、すぐ気づく」
ミュールが耳を動かす。
「匂いでわかる」
「匂いだけではあるまい」
ナギの声は静かだった。
俺は火に小枝を足した。
「俺も、まだ何と呼べばいいかわからない」
「解放者の家」
イリスが言う。
「場所の名前ではありますけど、私たちの関係にも少し似ています」
ロゼッタが肩をすくめる。
「青いですわね」
「でも、嫌いじゃないのだろう」
セリアが言うと、ロゼッタは返事をしなかった。
その代わり、干し果物をひとつ口に入れた。
食後、セリアとナギが少し離れた場所で間合いを確認した。
真剣ではない。
セリアは木剣。
ナギは鞘から刀を抜かず、鞘ごと構えている。
二人が向かい合うと、空気が変わった。
焚き火の軽い会話が、すっと遠のく。
「盾を相手にするのは久しい」
ナギが言う。
「私は刀を相手にする経験が少ない」
セリアが応じる。
「ならば、互いに学べる」
ナギの足が動いた。
速い。
だが、セリアは下がらない。
盾の角度をわずかに変え、鞘の軌道を受け流す。
次の瞬間、ナギは横へ流れる。
セリアは半歩だけ体を入れ替え、盾で正面を保つ。
数合。
音は軽い。
けれど、どちらも本気で見ていた。
ミュールが隣で尻尾を揺らす。
「どっちが勝つ?」
「状況による」
俺が答えると、彼女は不満そうに耳を伏せた。
「ずるい答え」
「本当の答えだ」
イリスは目を輝かせて二人の足元を見ている。
「魔力の流れが違います。セリアさんは地面へ受け流す。ナギさんは線を細くして抜ける。すごいです。すごくすごいです」
「語彙が崩れていますわ」
ロゼッタはそう言いながらも、目は二人を追っていた。
最後に、セリアの盾の縁がナギの鞘を止めた。
同時に、ナギの鞘先がセリアの肩口の少し手前で止まる。
引き分け。
ナギは鞘を下ろした。
「硬い盾だ」
「鋭い剣だ」
セリアが微笑む。
「共に前へ出れば、だいぶ面倒な相手になれるな」
ナギは少し考えた。
「悪くない」
それは彼女なりの高評価らしい。
ロゼッタがその横で帳簿を開き直した。
「なお、二人が前へ出るたび装備修理費が増えます」
「そこへ戻すのか」
「旅費、食費、修理費、裁判準備費。王都に着く前から財布が悲鳴を上げていますわ」
ミュールが干し肉を半分差し出した。
「これ、売る?」
「売りません。食べなさい」
「ん」
ロゼッタの口調は鋭いが、その目は少し柔らかかった。
夜が深くなる。
交代で見張りをすることにした。
最初はセリアとナギ。
次にミュール。
イリスは魔力結界の調整があるため短め。
ロゼッタは「私は頭脳労働担当です」と言ったが、結局帳簿を抱えて起きていた。
俺は最後の見張りの前に、少しだけ眠るつもりだった。
だが、眠れなかった。
焚き火の向こうで、五人がそれぞれの場所にいる。
俺は彼女たちを助けた。
そう思っていた。
だが、違う。
俺もまた、彼女たちに支えられている。
セリアが正面を見てくれるから、俺は背後ばかりを気にしなくていい。
ミュールが匂いを読むから、見えない敵に怯えすぎずに済む。
イリスが術式を読むから、わからない恐怖に名前がつく。
ロゼッタが紙を読むから、紙の檻に立ち向かえる。
ナギが隣を走ると言ったから、死に場所ではなく帰る場所へ向かえる。
俺は一人で誰かを救っているわけではない。
この人たちと一緒に、ようやく何かを始めている。
夜明け前、ミュールが耳を立てた。
「前」
全員が起きる。
ミュールの声に迷いはない。
「血の匂い。縄。馬。知らない薬」
セリアが盾を取る。
「距離は」
「近い。街道の先」
俺たちは急いで荷をまとめ、馬車を進めた。
朝靄の中、街道の先に壊れた馬車が見えた。
車輪が外れ、荷物が散らばっている。
旅人らしき者たちが地面に伏せている。
数人は縄で縛られていた。
その周囲に、黒い腕章をつけた男たちがいる。
男の一人が、縛られた旅人の腕に焼きごてのような魔道具を押し当てようとしていた。
イリスが息を呑む。
「あれは」
魔道具の先で、黒い刻印が光っている。
奴隷首輪とは違う。
だが、嫌なほど似ている。
男が言った。
「王都治安維持令により、身元不明者を暫定拘束する」
朝靄の中で、刻印が赤黒く光った。
小休止は終わった。
王都へ続く街道に、別の檻が口を開けていた。




