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第052話 王都へ行く理由

「同行奴隷五名は、王都到着時に身柄を一時拘束する」


 その一文は、食堂の机の上に置かれたままだった。


 誰も触れない。

 だが、誰も目を逸らせない。


 紙は薄い。

 指で裂こうと思えば裂ける。


 けれど、そこに押された王都裁判所の印は重かった。


 黒杯の檻は鉄でできていた。

 これは紙でできている。


 どちらも、人を閉じ込めるために作られている。


 ロゼッタは書類を種類ごとに分けていた。


「召喚状、告発書、身分確認手順、同行奴隷拘束要項、ギルド照会文、教会法務局の副印」


 彼女は一枚ずつ読み上げる。


「ずいぶん丁寧な檻ですわ」


「壊せるか」


「壊します」


 即答だった。


「ただし、壊す場所を間違えると、こちらが罪人になります」


 マルタも残っている。

 彼女はギルド印の入った写しを確認しながら、苦い顔をしていた。


「王都側は、あなたたちを王都へ呼び出す名目を作っています。出頭しなければ逃亡。出頭すれば拘束。どちらも相手の盤上です」


「なら、俺だけが行く」


 言った瞬間、食堂の空気が変わった。


 セリアが俺を見た。

 ミュールの耳がぴくりと動く。

 イリスの腕輪の光が揺れる。

 ロゼッタは羽根ペンを止めた。

 ナギは何も言わず、ただ俺の顔を見た。


 自分でも、言ってから失敗したと思った。


 だが、言わずにはいられなかった。


「俺が告発されている。だったら、俺だけが出頭すれば」


「それは相手の望み通りですわ」


 ロゼッタが遮った。


 声は冷静だった。

 冷静だからこそ、逃げ場がない。


「レオンさん一人で王都へ行けば、五人は辺境に残される。王都側は『主人不在の奴隷』として、こちらへ差し押さえ命令を出せます」


「解放者の家にはマルタさんが」


「ギルドの保護には限界があります」


 マルタが言った。


「王都裁判所と教会法務局の連名で命令が来た場合、辺境ギルドだけでは拒みきれません」


 言葉が詰まる。


 俺だけが行けば、危険を減らせると思った。


 だが、違う。


 俺一人で行くことは、五人の意思を置いていくことだ。

 そして、彼女たちを紙の檻の中に残すことでもある。


 セリアが静かに言った。


「レオン。私は置いていかれたくない」


「危険だ」


「知っている」


「王都は、君の冤罪を作った場所だ」


「だから行く」


 彼女は一歩前へ出た。


「王都の紙で私は罪人にされた。聖騎士であったことも、誇りも、信じていたものも奪われた。逃げ続ければ、私はずっとその紙の中に閉じ込められる」


 セリアの声は震えていない。


「私は、自分の言葉で王都に立つ。命令ではなく、自分の騎士道で」


 ミュールが窓枠から降りた。


「ミュールも行く」


「夜爪がいるかもしれない」


「いる」


 即答だった。


「匂い、黒杯にもあった。王都にもある。ミュールを売った人たち、そこにいる」


 彼女は自分の首元に触れた。


「行かないと、ずっと追ってくる。だったら、こっちから行く」


 ミュールにしては長い言葉だった。


 それだけで、どれほど強く決めているかわかる。


 イリスは腕輪を両手で包んでいた。


「私は」


 一度、言葉が途切れる。


 魔塔。

 研究資産。

 危険物。


 王都へ行くことは、彼女にとって地下施設へ戻る恐怖に近いのかもしれない。


 それでも、イリスは顔を上げた。


「私は、魔塔が怖いです」


 正直な言葉だった。


「でも、魔塔が私を危険物だと言うなら、私は自分で違うと言いたい。私の研究が何に使われたのか、誰が実験を命じたのか、王都に記録があるはずです」


 彼女の腕輪が、静かに光る。


「私はもう、閉じ込められて制御されるだけのものではありません。調律する魔導師です」


 ロゼッタは書類を束ねた。


「私の理由は簡単ですわ」


「裁判が戦場だからか」


「それもあります」


 彼女は緑がかった金色の目を細める。


「フォルン商会を潰した契約書は、王都の代理人が作りました。赤鎖も黒杯も、王都の口座へ金を流している。私が取り返すべき帳簿は、王都にあります」


「危険だぞ」


「ええ。ですが、危険だからこそ私が必要です。貴方だけで行けば、二枚目の書類で怒り、三枚目の書類で署名し、四枚目の書類で詰みます」


「そこまでひどいか」


「そこまでです」


 否定できない。


 ナギは最後まで黙っていた。


 彼女は椅子に座ったまま、うなじの下に触れている。

 東雲流継承者。

 神域鍵保持者。

 教会印。


 王都は、彼女の一門を滅ぼした白い袖へつながる。


「ナギ」


「拙者も行く」


「首輪がまだ」


「だから行くと、昨日も言った」


 ナギは静かに俺を見る。


「拙者の中の鎖は、黒杯では終わらなかった。王都へつながっている。ならば、行く」


「戻れという声が、また来るかもしれない」


「来るだろう」


 彼女は事実のように言った。


「その時、拙者が戻るかどうかを、拙者が決める」


 その言葉に、俺は何も言えなくなった。


 五人全員が、王都へ行く理由を持っている。


 俺がそれを奪うことはできない。


 守るために置いていく。


 その言葉は、一見優しい。

 だが、時には相手の意思を奪う。


 俺はまた、そこを間違えかけたのだ。


 マルタが書類を閉じた。


「全員で行くなら、準備が必要です」


「何がいる」


 ロゼッタがすぐに答える。


「保護記録の写し。競売記録。黒杯帳簿の証拠番号。セリアさんの冤罪関連資料。ミュールさんの夜爪証言。イリスさんの調律腕輪設計記録。私の債務競売証明。ナギさんの黒杯搬入記録と東雲流関連の帳簿片」


「多い」


「裁判ですもの」


 ロゼッタは羽根ペンを取る。


「それと、解放者の家の留守をどうするか」


 食堂の奥で、トマがこちらを見ていた。


 黒杯から救出された者たちもいる。

 ここを空にするわけにはいかない。


 ガレスが椅子を軋ませて立ち上がった。


「留守番なら俺がする」


「ガレスさん」


「屋敷の修繕も途中だ。俺が職人を置く。ギルドからも何人か来るんだろ」


 マルタが頷く。


「信頼できる職員を回します。正式にはギルドの一時保護協力施設として扱えるよう、書類を作ります」


 ロゼッタがすぐに紙へ書き込む。


「助かります。名称は解放者の家で」


「そこは正式名称にするのですね」


「当然です」


 トマが小さく言った。


「帰ってくる?」


 その一言で、食堂の空気が少しだけ変わった。


 俺はトマを見る。


 彼にとって、俺たちはまだ絶対に信じられる大人ではない。

 帰ってくると言って、帰ってこない大人を見てきたのかもしれない。


 だから、軽く約束してはいけない。


 でも、何も言わないのも違う。


「帰ってくる」


 俺は言った。


「遅くなるかもしれない。無傷じゃないかもしれない。でも、ここへ帰ってくるために行く」


 トマはしばらく俺を見ていた。


 やがて、小さく頷いた。


「じゃあ、床、掃いとく」


「頼む」


 ガレスが鼻を鳴らす。


「任せろ。帰ってくる場所くらい、俺が直しておいてやる」


 その言葉は、胸に残った。


 帰ってくる場所。


 俺たちはそれを作り始めたばかりだ。

 王都へ行くのは、そこから逃げるためではない。

 守るために、戻るために行く。


 夜。


 出発準備が進む中、俺は屋敷の外に出た。


 食堂では、まだ灯りがついている。


 セリアは予備の革紐と盾の縁を確認していた。

 王都で剣を抜けない場面もあると考え、盾だけで人を止める動きを何度も確かめている。


 ミュールは屋根から屋根へ移り、留守中の見張り道をトマに教えていた。

 もちろん、危ないところへは行くなと何度も言っている。

 トマは真剣に頷き、なぜか少し誇らしげだった。


 イリスは地下室で、ナギの刻印を観測するための小さな魔石を調整している。

 ロゼッタは帳簿鞄に書類を詰め、入れては出し、出しては入れ、最後に「重すぎますわ」と自分で言った。


 ナギは庭で、刀を抜かずに立っていた。

 型をするわけでもない。

 ただ、解放者の家の門と、空と、食堂の灯りを見ていた。


「どうした」


 俺が聞くと、彼女は少し間を置いて答えた。


「帰る場所というものを、忘れていた」


 その言葉に、何も返せなかった。


 忘れていたのではない。

 奪われていたのだ。


 だから、俺たちはこれを守りに行く。


 仮看板が月明かりに照らされている。


 解放者の家。


 まだ青い名前。

 ロゼッタにそう言われた名前。


 背後で足音がした。


 五人だった。


 セリアが盾を持っている。

 ミュールは外套を羽織っている。

 イリスは腕輪を調整している。

 ロゼッタは帳簿鞄を抱えている。

 ナギは刀を帯に差している。


「見送りには早いぞ」


 俺が言うと、ロゼッタが呆れた顔をした。


「誰も見送る側ではありませんわ」


 セリアが頷く。


「行くなら共に」


 ミュールが短く言う。


「置いていくの、なし」


 イリスが小さく笑う。


「私たちも、準備できています」


 ナギが最後に言った。


「道が同じなら、隣を走る」


 俺は五人を見た。


 王都へ行けば、拘束されるかもしれない。

 裁判で負けるかもしれない。

 アルベルトが待っている。

 教会も、魔塔も、夜爪も、赤鎖の残党も、きっといる。


 それでも。


「誰も置いていかない」


 今度は、迷わず言えた。


 五人はそれぞれ違う表情で頷いた。


 翌朝、俺たちは王都へ向けて出発する。


 紙の檻を壊すために。

 そして、ここへ帰ってくるために。



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