第050話 五人の戦乙女
黒杯闘技場が崩れた翌朝、解放者の家は家ではなくなっていた。
少なくとも、静かな家ではない。
食堂には黒杯から救出された者たちが座り、暖炉の前には怪我人が寝かされ、廊下には毛布が積まれている。
マルタはギルドとの連絡に走り、ガレスは壊れた寝台を直しながら文句を言っていた。
トマは自分より大きな桶を抱え、水を運ぼうとしてミュールに止められている。
「重い」
「持てる」
「重い」
「少しなら」
「半分」
ミュールは桶の水を半分捨てた。
トマは不満そうだったが、結局その桶を抱えて歩いた。
それだけで、ここが少しだけ家らしく見えた。
ロゼッタは食堂の机に帳簿を三冊開いていた。
黒杯から押収した台帳。
解放者の家の保護記録。
そして、食費の帳簿。
彼女は最後の一冊を見て、深く息を吐いた。
「食費が地獄ですわ」
「黒杯が崩れた翌朝の第一声がそれか」
「勝利は胃袋を満たしません」
ロゼッタは羽根ペンを走らせる。
「救出者十四名。うち重傷三名。軽傷六名。衰弱四名。比較的元気な方一名。全員に粥、薬湯、毛布が必要。つまり、食費が地獄です」
「二回言った」
「大事なので」
セリアが暖炉のそばで粥の鍋を見ている。
元聖騎士が大鍋をかき混ぜる姿は少し不思議だ。
「塩はこれでよいか」
彼女が聞くと、イリスが真剣に鍋を覗いた。
「栄養的にはもう少し欲しいですが、衰弱している方には薄めがよいです」
「承知」
イリスは治療用の薬湯を調合しながら、ナギの方をちらちら見ている。
ナギは食堂の端に立っていた。
座らない。
部屋の隅。
出入り口に近い場所。
いつでも出られる位置。
黒杯の檻から出たばかりの者たちと同じ目をしている。
俺は空いている椅子を引いた。
「ここ、空いてる」
ナギは椅子を見る。
次に俺を見る。
「そこは、誰の席だ」
「今は空いている席」
「主の近くではないか」
「主じゃない」
ナギは黙った。
まだ、その言葉に慣れていない。
セリアが鍋から顔を上げる。
「座るとよい。端に立たれると、守る側として落ち着かない」
「守る側」
「ああ」
セリアは当然のように言った。
「今の君は治療対象でもある。戦士であることと、休むべき者であることは矛盾しない」
ナギは少しだけ目を細めた。
「貴殿の盾は、正面に立つ者の盾だ」
「君の剣も、正面を切り開く剣だ」
「見世物の剣ではないか」
「違う」
セリアは鍋の火を弱め、まっすぐナギを見た。
「黒杯で見た君の剣は、魔獣を苦しませずに終わらせた。昨日の君の剣は、檻を開けるために振られた。少なくとも私は、あれを騎士の剣に近いものだと思う」
ナギは返事をしなかった。
だが、椅子へ近づいた。
座る前に、床と天井と窓の位置を確認する。
ミュールがそれをじっと見ていた。
「足音、少ない」
「貴殿もだ」
「ミュールの方が少ない」
「そうか」
「たぶん」
微妙な対抗心が生まれている。
イリスが目を輝かせた。
「歩法の違いでしょうか。東方剣術と獣人暗殺術で体重移動の」
ナギとミュールが同時に一歩引いた。
ロゼッタが羽根ペンを止めずに言う。
「イリスさん、食前に解剖めいた目で見るのはやめましょう」
「解剖ではありません。観察です」
「なお悪い場合がありますわ」
ナギは椅子に座った。
端ではない。
俺が引いた席だ。
ほんの小さなことだ。
だが、食堂の空気が少し変わった。
セリア。
ミュール。
イリス。
ロゼッタ。
ナギ。
五人が同じ食卓にいる。
誰かの所有物としてではなく。
誰かの命令で並んでいるのでもなく。
それぞれの理由で、ここにいる。
俺はその光景を見て、胸の奥が少し熱くなった。
「何ですの、その顔」
ロゼッタが言った。
「いや」
「気持ち悪いほど感慨深そうでしたわ」
「そこまで言うか」
「事実です」
否定しようとして、やめた。
たぶん、そういう顔をしていた。
勇者パーティにいた頃、食卓は戦場の前の準備場だった。
誰が何を食べるか。
誰の機嫌が悪いか。
誰の装備を先に直すか。
俺はいつも立っていて、足りないものを探していた。
今も足りないものだらけだ。
食費は足りない。
寝具も足りない。
薬も、人手も、安全も足りない。
だが、ここでは誰かが当然のように俺の役割を奪っていく。
セリアは鍋を見ている。
ミュールはトマの桶を軽くしている。
イリスは薬湯を作り、ロゼッタは帳簿を守り、ナギはまだ戸惑いながらも椅子に座ろうとしている。
俺が全部を抱えなくても、家は動く。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
「少し、安心しただけだ」
俺が言うと、ロゼッタは一瞬だけ目を伏せた。
「安心するには早いですわ」
「わかってる」
「ですが」
彼女は羽根ペンを止める。
「少しなら、よろしいのではなくて」
その言葉は、彼女にしてはずいぶん優しかった。
ミュールが粥を一口食べ、耳を動かした。
「塩、薄い」
セリアが真面目な顔で頷く。
「衰弱者向けだ」
「ミュールは衰弱してない」
「では干し肉を足すか」
「足す」
イリスが慌てる。
「塩分量が」
ロゼッタが頭を抱える。
「食費だけでなく献立も地獄ですわ」
ナギが粥を見ていた。
箸ではなく匙。
東方の食事作法とは違うのかもしれない。
「口に合わないか」
俺が聞くと、ナギは首を横に振った。
「温かい」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
救出された者たちにも、少しずつ粥が配られた。
黒杯で刃を握らされていた大柄な男は、椀を両手で持ったまま泣いていた。
薬で声が出にくくなっている女は、イリスの薬湯を少しずつ飲んだ。
片目に包帯を巻いた少年は、トマに毛布の場所を教えられていた。
誰も、急に自由になどなれない。
檻の外に出ても、肩は丸い。
足音に怯える。
扉の近くに座る。
食べ物を隠そうとする。
それでも、椀の湯気が上がる。
誰かが名前を聞く。
帳簿に商品番号ではなく名前が書かれる。
解放者の家は、まだ不完全だ。
けれど、不完全なままでも、人が息をつく場所にはなれる。
食事が終わる頃、外で鳥が一斉に飛び立った。
ミュールの耳が立つ。
「来た」
セリアが盾に手を伸ばす。
「人数は」
「三。裏手。救出者の匂いを追ってる」
ロゼッタが帳簿を閉じた。
「黒杯残党ですわね。昨日の今日で、勤勉なこと」
「逃がした者を戻すつもりか」
俺が立ち上がると、ナギも立った。
「拙者が」
「一人で行くな」
ナギは一瞬止まる。
そして、短く頷いた。
「道連れだったな」
「そうだ」
裏庭に出ると、黒い外套の男たちが塀を越えようとしていた。
手には短剣。
縄。
そして小さな薬瓶。
救出者を奪い返すつもりだったのだろう。
セリアが正面に立つ。
「ここは通さない」
男たちが舌打ちした。
一人が横へ回り込む。
そこへミュールが屋根から降りた。
「裏もだめ」
男が短剣を振るう前に、足首を払われて転ぶ。
別の男が薬瓶を投げた。
イリスの腕輪が光る。
「割らせません」
空中で瓶の周囲だけ魔力が重くなり、瓶は地面へ落ちる前にふわりと止まった。
そのまま、ロゼッタが布で包む。
「証拠、一つ追加ですわ」
三人目が逃げようとする。
ナギが動いた。
速い。
だが、昨日までの黒杯の剣とは違った。
相手を斬るための最短ではない。
逃げ道を塞ぐための一歩。
刀の鞘が男の前に差し出される。
男は急停止し、尻餅をついた。
ナギは刀を抜かなかった。
「ここは檻ではない」
静かな声。
「だが、奪い返しに来る者は通さぬ」
男は震えて短剣を落とした。
戦闘は短かった。
セリアが正面を守り、ミュールが裏を塞ぎ、イリスが薬瓶を止め、ロゼッタが証拠を押さえ、ナギが最後の逃げ道を封じる。
俺は指示をほとんど出していない。
それぞれが自分で判断し、必要な場所へ動いた。
五人の戦乙女。
そんな言葉が、頭に浮かんだ。
少し大げさだ。
ロゼッタなら青いと言うかもしれない。
だが、今の光景には似合っていた。
マルタが昼前に駆け込んできた時、裏庭では三人の黒杯残党が縛られていた。
彼女はそれを見て、何とも言えない顔をした。
「報告前に追加事件を増やさないでください」
「向こうから来ました」
「皆さん、だいたいそう言います」
マルタはため息をつきながらも、押収した薬瓶と短剣、縄を確認する。
「黒杯関係者で間違いありません。ギルドで引き取ります」
ロゼッタが教会印章つきの台帳を出した。
「それと、こちらを」
マルタの表情が変わる。
「これは」
「王都の名が出ています」
ロゼッタは台帳の一箇所を指した。
「教会系慈善院、貴族代理口座、そして王都裁判所の補助基金。黒杯の金が、表の制度へ流れています」
セリアが低く言う。
「裁判所?」
「ええ」
ロゼッタの声は冷たい。
「つまり、次に戦う相手は地下の闘技場ではありませんわ」
彼女は俺を見る。
「表の王都です」
その言葉を待っていたかのように、門の外で馬車が止まった。
ギルドの使者ではない。
王都の封蝋。
白と金の紐で結ばれた召喚状。
マルタが受け取り、内容を読む。
そして、深く眉を寄せた。
「レオンさん」
「何です」
「王都からです。あなたに、違法所有奴隷の疑いで出頭命令が出ています」
食堂の空気が、静かに変わった。
セリアが盾を握る。
ミュールの耳が伏せる。
イリスの腕輪が震える。
ロゼッタの目が鋭くなる。
ナギが、まだ完全には癒えていない首元へ手を当てた。
俺は召喚状を受け取った。
告発人の欄には、見覚えのある名があった。
アルベルト・レイヴァン。
紙の上の文字は、剣より冷たかった。
違法所有奴隷の疑い。
王都裁判所への出頭命令。
同行者の身分確認。
所有権、契約書、奴隷首輪、保護記録の提出。
言葉は整っている。
丁寧だ。
だが、その丁寧さの奥で、俺たちをもう一度檻へ戻そうとする手が見えた。
セリアが静かに言う。
「王都は、私の冤罪を作った場所でもある」
ミュールが窓の外を見る。
「夜爪も、王都に根がある」
イリスは腕輪に触れた。
「魔塔も、王都の庇護下です」
ロゼッタが帳簿を閉じる。
「フォルン商会を潰した契約書も、王都の代理人が作りました」
ナギは首元の刻印を押さえる。
「東雲流を欲した白い袖も、王都へつながる」
五人の声が、ひとつずつ重なった。
偶然ではない。
俺たちはそれぞれ別の檻から出てきたつもりでいた。
だが、その檻の鎖は、同じ方向へ伸びている。
王都。
そこに、次の戦いがある。
俺は召喚状を折りたたんだ。
「行く」
誰も驚かなかった。
セリアが頷く。
ミュールが尾を揺らす。
イリスが深く息を吸う。
ロゼッタが新しい帳簿を開く。
ナギが、まだ慣れない椅子から静かに立ち上がる。
「一人では行かせません」
セリアが言った。
「ミュールも行く。匂い、覚えた」
「魔塔の記録も、そこで取り返します」
「裁判なら、私の戦場ですわ」
ナギは少し遅れて言う。
「道が同じなら、隣を走る」
俺は五人を見る。
命令ではない。
誰かを従える言葉でもない。
それでも、言わなければならないことがあった。
「誰も置いていかない」
その言葉に、五人がそれぞれ違う顔をした。
セリアは騎士の顔で。
ミュールは少しだけ安心した顔で。
イリスは泣きそうで、それでも笑おうとする顔で。
ロゼッタは呆れたように、けれど否定しない顔で。
ナギはまだ意味を測っている顔で。
解放者の家の食堂に、朝の光が入っていた。
五人の戦乙女が揃った朝。
俺たちの次の敵は、王都そのものになった。
黒杯の檻を壊した翌日。
今度は、王都が俺たちを裁こうとしていた。
五人の戦乙女が揃いました。
ナギはまだすべてを受け入れたわけではありませんが、剣を置ける場所を得ました。
黒杯の檻を壊した次に待つのは、王都そのものです。
いよいよ勇者と決着をつける章になります。
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