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第049話 闇闘技場崩壊

 日没までに、黒杯は東方の剣奴の返却を求めてきた。


 檻の処分。


 その言葉は、脅しとして最低だった。

 だが、効果はあった。


 ナギは封書を読んでから、一度も刀の柄から手を離さなかった。

 セリアは正面から怒りを押さえている。

 ミュールは屋根の上を行ったり来たりし、追っ手の匂いを探っていた。

 イリスは地下室で魔法陣と首輪の構造を書き写し続けている。

 ロゼッタは食堂の机に帳簿片、偽帳簿、黒杯の封書、赤鎖札を並べた。


 俺はその机の前で、ようやく理解していた。


 助けるだけでは、人は生きられない。


 だが、助けに行かなければ、生きる前に殺される。


「時間がありません」


 ロゼッタが言った。


「ギルドを正式に動かすには証拠は足ります。ただし、踏み込み許可には時間がかかります」


 マルタはすでに呼んである。

 彼女は眠そうな顔などしていなかった。

 黒杯の封書を読んだ瞬間、実務の顔になっていた。


「こちらでギルド長を叩き起こします。ですが、黒杯は証拠を消すでしょう」


「だから、先に入ります」


 俺が言うと、マルタは眉間を押さえた。


「止めても行きますね」


「行きます」


「なら、死なないでください。死なれると書類が最悪です」


「そこですか」


「もちろん、心情的にも困ります」


 マルタはわざとらしく咳払いした。


「ギルドの踏み込みは、日没直後を目標にします。あなたたちは、証拠を押さえて、可能なら人命を確保して、時間を稼いでください」


 ロゼッタが頷く。


「十分ですわ」


「十分ではありません。無茶です」


「無茶を帳簿で少しだけ現実に寄せます」


 マルタは深く息を吐いた。


「本当に、あなたたちは面倒です」


 それでも、彼女は黒杯の封書にギルドの受領印を押した。


 紙の上に、こちらの足場が一つ増えた。


 日没。


 俺たちは再び黒杯へ向かった。


 正面からではない。

 地下水路から搬入口へ戻る。

 ミュールが先導し、昨日外した留め具の跡を探る。


「替えられてる」


「当然か」


「でも、急いだ。雑」


 ミュールは指先で新しい鍵をなぞり、短剣の柄で軽く叩いた。

 中のバネの音を聞いているらしい。


「開く」


 数呼吸。

 鍵が小さく鳴った。


 ミュールは少しだけ得意げな顔をした。


「褒めて」


「助かった。すごい」


「あとで、もっと」


「わかった」


 セリアが盾を構え、搬入口を押し開ける。

 中から血と油と薬の匂いが流れてきた。


 黒杯は片付けを始めていた。


 檻の一部は空。

 床には引きずった跡。

 書類箱がいくつも運び出されている。

 護衛たちは焦っていた。


「処分というより、証拠隠滅ですわね」


 ロゼッタの声が冷たい。


「なら、間に合う」


 俺は言った。


 イリスが腕輪に触れる。


「魔力錠の型、昨日見たものと同じです。連鎖解除、試せます」


「無理は」


「無理ではありません。必要な計算です」


 彼女はもう、危険物ではない。

 自分の判断で、必要な場所に魔力を流す魔導師だ。


 ナギは黙っていた。


 だが、以前とは違う。

 死にに行く沈黙ではない。

 何を守るかを決めた沈黙だ。


「ナギ」


「何だ」


「檻の前まで行けるか」


「行く」


「一人では行かせない」


「道連れか」


「そうだ」


 ナギは短く息を吐いた。


「ならば、隣を走れ」


「もちろん」


 俺たちは動いた。


 最初の護衛二人は、セリアが正面から受けた。

 盾で刃を止め、足を払う。

 殺さない。

 だが、立てなくする。


 ミュールは背後の通路へ消え、書類箱を運んでいた男の足元に縄をかける。

 男が倒れ、箱が開いた。


 中から帳簿が散る。


「ロゼッタ」


「いただきますわ」


 ロゼッタは走りながら帳簿を拾い、表紙の印を確認する。


「赤鎖。黒杯。魔塔薬品。夜爪搬入。ええ、宝の山ですわ」


「宝の山に聞こえない」


「敵を殴れる紙は宝です」


 イリスの魔力が檻の列へ伸びる。

 紫の線が床を走り、鉄格子の魔力錠に触れた。


「全部は無理です。まず十檻」


「十分だ」


 鍵が一斉に鳴る。


 檻の中の者たちは動かない。

 開いたのに、出てこない。


 昨日見た目だ。

 期待しないことで生き延びてきた目。


 ナギが檻の前に立った。


 刀を抜かない。


 ただ、剣を鞘ごと立てる。


「黒杯は嘘をつく」


 静かな声だった。


「戻れば助けるという言葉も、勝てば自由にするという言葉も、すべて嘘だ」


 檻の中の男が顔を上げる。


「お前は出たのに、戻ったのか」


「戻った」


「なぜ」


 ナギは少しだけ目を閉じた。


「拙者の剣は、死に場所を買うためのものではない」


 彼女は目を開く。


「檻を斬るために戻った」


 その瞬間、奥から黒杯の支配人の声が響いた。


「よく戻ったな、東方の剣奴!」


 支配人は護衛を連れ、上段の通路に立っていた。

 隣には魔術師。

 その手には、ナギの首輪を操作するための黒い札がある。


「そこに跪け。お前が戦えば、他の檻は助けてやる」


 首輪が赤く光る。


 ナギの体が揺れた。


 俺は動こうとした。


 だが、ナギが手で制した。


「不要」


 彼女は支配人を見上げる。


「その言葉は、昨日までなら効いた」


 赤い光が強くなる。

 首元から血が滲む。


 それでも、ナギは膝をつかなかった。


「だが、今は違う」


 イリスが歯を食いしばり、腕輪の光を強める。


「外部命令を乱します。長くは持ちません」


「長くなくていい」


 ナギは刀を抜いた。


 速かった。


 支配人へ向かったのではない。

 彼の手にある黒い札へ。


 上段までの距離を、セリアの盾を足場にして飛ぶ。

 俺が一瞬だけ風向きを読み、投げた煙玉で護衛の視界を切る。

 ミュールが影から護衛の足を止める。


 ナギの剣が黒い札を断った。


 首輪の赤い光が弾ける。


 支配人が悲鳴を上げた。


「馬鹿な、所有者命令が」


「拙者は、所有物ではない」


 ナギは柄で支配人の鳩尾を打った。

 男が崩れ落ちる。


 殺さない。

 だが、逃がさない。


 その時、闘場の正面扉が開いた。


 ギルドの踏み込み部隊だ。

 先頭にマルタ。

 その後ろに武装職員。

 さらにガレスがなぜか巨大な槌を担いでいる。


「ギルド検査です! 全員その場で動かないでください!」


 マルタの声が響いた。


 客たちが逃げようとする。


 ロゼッタが壇上へ上がり、帳簿を掲げた。


「お逃げになる前に、ご自分の名前がどの帳簿に載っているか確認なさいます?」


 足が止まる。


 金持ちの客ほど、名前を恐れる。

 金で隠してきたものが、紙に残ることを恐れる。


「赤鎖搬入記録、魔塔薬品購入記録、夜爪中継符号、教会印章つき資金台帳。よりどりみどりですわ」


 ロゼッタの声が闘技場に響く。


「黒杯闘技場は、ただの違法賭博場ではありません。奴隷売買、薬品実験、暗殺組織の資金洗浄まで兼ねた、たいへん勤勉な犯罪施設です」


「黙れ!」


 護衛がロゼッタへ走る。


 セリアが正面で受け止めた。


「彼女の言葉を遮るな」


 盾が唸る。

 護衛が吹き飛ぶ。


 檻の中の者たちが、ようやく動き始めた。


 イリスが次々と魔力錠を外す。

 ミュールが出口を指示する。

 俺は倒れた者、薬で動けない者、傷の深い者を診ていく。


「走れる者は左。怪我人はこっちだ。武器は拾うな。今は出るのが先だ」


 誰かが俺の袖を掴んだ。


「本当に、出ていいのか」


「いい」


「戻されないのか」


「戻さない」


 言い切った。


 その重さを、今度は背負える気がした。


 闘場の上段で、別の声がした。


「違法施設を潰した気でいるのか」


 アルベルトだった。


 彼は混乱の中、支配人の横に立っていた。

 剣は抜いていない。

 だが、目は怒りに濁っている。


「違うな。俺が後で潰すはずだったものを、お前が横取りしただけだ」


「横取り?」


「勇者の功績になるはずだった」


 その言葉で、胸の奥が冷えた。


 彼は檻を見ていない。

 助かった者たちを見ていない。

 見ているのは、自分の功績だけだ。


 ナギが静かに言う。


「貴殿は、あの檻を見ても功績と言うのか」


 アルベルトは彼女を見下ろした。


「剣奴が口を利くな」


 ナギの剣が一瞬だけ光った。


 だが、彼女は動かなかった。


 動かないことを選んだ。


「拙者は、もう見世物のためには斬らぬ」


 アルベルトの顔が歪む。


 その時、マルタの部下たちが上段へ迫った。

 アルベルトは舌打ちし、支配人の襟を掴んで前へ突き出す。


「こいつが首謀者だ。俺は調査に来ていた」


 支配人が目を剥く。


「な、アルベルト様!」


「黙れ」


 アルベルトはそのまま人混みに紛れた。


 逃げた。


 いや、退いた。


 王都でまた会うために。


 黒杯は崩れた。


 ギルドが帳簿を押収し、客を拘束し、檻の者たちを外へ誘導する。

 赤鎖の関係者は震えながら名前を吐いた。

 魔塔系薬品の瓶が箱ごと見つかった。

 夜爪の中継記録も出た。


 そして、支配人の奥部屋から、教会印章つきの資金台帳が見つかった。


 ロゼッタがその台帳を開き、顔を強張らせる。


「これは」


「何だ」


「黒杯の上納先です。王都、教会系慈善院、貴族代理口座」


「慈善院?」


「表では孤児や奴隷解放者を保護する施設。裏では資金を吸い上げる口」


 マルタが苦い顔をした。


「これは、辺境ギルドだけでは扱えません」


 イリスがナギの首輪を見ていた。


「レオンさん」


「どうした」


「ナギさんの刻印、黒杯の命令札が壊れたのに、まだ痛んでいます」


 ナギは首元を押さえる。

 うなじの下に、赤ではなく青白い光が走った。


 イリスの声が震える。


「これは奴隷契約だけではありません。もっと古い認証を、無理やり上書きしています」


 黒杯は潰れた。


 檻は開いた。


 それでも、ナギの中の鎖はまだ残っている。


 教会印章つきの台帳。

 神域鍵保持者。

 東雲流継承者。


 闇闘技場の崩壊は、終わりではなかった。


 王都へ続く道が、黒杯の瓦礫の向こうに開いていた。



黒杯は潰れ、檻は開きました。

ナギの剣は、死に場所を買うためではなく、誰かを守るために振るわれました。

それでも彼女の中の鎖と、王都へ続く道はまだ残っています。

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