第048話 滅びた一門
解放者の家に戻った時、空は白み始めていた。
夜明け前の青い光が、まだ修繕途中の屋敷の壁を薄く照らしている。
門の仮看板は、湿った風に揺れていた。
解放者の家。
昨日までなら、少し大げさに見えたその文字が、今は重く見えた。
黒杯には檻が残っている。
ナギの首には首輪が残っている。
帳簿片には教会印が残っている。
解放者の家と名乗るには、まだ足りないものだらけだ。
それでも、戻る場所があるというだけで、体の奥の緊張が少しほどけた。
トマは暖炉のそばで眠っていた。
マルタに預けていたはずだが、結局ここに戻されたらしい。
横にはガレスが椅子にもたれて寝ている。
大きな腕を組み、片目だけ薄く開けた。
「帰ったか」
「ただいま」
「ひでえ顔だな」
「そっちも寝てない顔だ」
「職人は寝なくても死なん」
たぶん嘘だ。
だが、その雑な言葉が妙にありがたかった。
ガレスの視線がナギへ向く。
黒髪の女剣士は、入り口の近くで立ち止まっていた。
家に入るという動作に、戸惑っている。
「新入りか」
「一時保護だ」
「一時だろうが何だろうが、血を垂らすなら座らせろ。床板が泣く」
ナギが少し目を瞬かせた。
「床板が」
「ああ。直すこっちの身にもなれ」
彼女は返事に困ったようだった。
それでも、部屋の奥へ一歩入る。
その一歩が、黒杯の檻からここまでの距離をようやく本当に渡ったように見えた。
イリスはすぐに地下室へ道具を取りに行った。
ロゼッタは帳簿片を乾いた布の上に広げ、濡れた箇所を丁寧に押さえている。
ミュールは外周を見に行き、セリアは門と裏口の確認へ向かった。
俺はナギを食堂の椅子に座らせた。
「首輪を診る」
「先ほども診た」
「さっきは応急だ。ここからが本番」
「本番」
「そうだ」
ナギは少し考え、首を傾げる。
「治療にも本番があるのか」
「ある。雑用にもある」
ガレスが鼻で笑った。
「そいつは雑用でだいたい何でもやる」
ナギは俺を見た。
「貴殿は、何者だ」
「元雑用係」
「今は」
答えに詰まった。
今は何者なのか。
主人ではない。
勇者でもない。
ギルドの正式な保護官でもない。
商会主でもない。
ロゼッタが紙から目を離さずに言った。
「借金予定者ですわ」
「そこはもう少しいい言い方があるだろ」
「現実です」
ナギは少しだけ目を細めた。
笑ったのかもしれない。
わかりにくいが。
イリスが戻ってきた。
魔石、細い銀線、薬瓶、小さな金属板。
彼女は食卓の上に道具を並べ、腕輪を調整する。
「首輪の古い認証を詳しく見ます。痛みが出たら言ってください」
「痛みは」
「我慢しないでください」
イリスが先に言った。
ナギは口を閉じた。
俺は少しだけ笑いそうになった。
イリスも強くなっている。
銀線が首輪の周囲に淡い光を作る。
奴隷術式の赤い線と、別の古い青白い線が浮かび上がった。
イリスの表情が変わる。
「やはり、これは二重です。外側は奴隷契約。内側は継承者認証。誰かが東雲流の認証を壊さず、上から命令術式を巻きつけています」
「壊さない理由は」
ロゼッタが聞く。
「認証そのものが必要だからです。鍵として使うなら、壊せない」
ナギの肩がわずかに強張る。
「神域鍵」
俺が言うと、彼女は視線を落とした。
「東雲流は、街道を守る一門だった」
静かな声で、ナギは話し始めた。
「東の山間に、古い神域がある。人の里と、神域の境。そこを通る街道を守るのが、我らの役目だった」
食堂が静まり返る。
トマはまだ眠っている。
ガレスも黙った。
「旅人を通し、賊を退ける。飢えた者には粥を出す。道に迷った子を里へ返す。剣は、そのためにあった」
ナギの指が、膝の上で小さく動く。
刀を握る形ではない。
何かを思い出す形だった。
「師は言った。東雲の剣は、境に立つ剣だと。斬るためではなく、越えてはならぬものを止めるためにあると」
セリアが戻ってきて、入り口のところで足を止めた。
何も言わず、話を聞く。
「ある年、王都から代理人が来た。白い衣の神官もいた。彼らは、神域の奥へ入る鍵を求めた」
「鍵とは、物か」
ロゼッタが問う。
ナギは首を横に振る。
「物ではない。血と型と名だ。東雲流の継承者だけが、神域の封を開ける儀を知る」
イリスの腕輪が小さく震えた。
「血統認証と職能認証が混じった形式かもしれません」
「難しいことは知らぬ。ただ、師は拒んだ」
ナギの声が少し低くなる。
「あそこは、力を欲しがる者を入れる場所ではない、と」
食堂の空気が冷えた。
もう結末は見えている。
それでも、誰も遮らなかった。
「その夜、賊が来た。だが、賊だけではなかった。傭兵がいた。人買いがいた。白い袖もいた」
白い袖。
教会。
「火が上がった。門が破られた。師は最後まで立っていた。兄弟子たちは街道へ逃げる者を守った。拙者は、神域の門へ走れと言われた」
「逃げろ、ではなく?」
俺が聞くと、ナギは頷いた。
「守れ、と言われた」
彼女の声が、ほんの少し揺れた。
「拙者は守れなかった。門にも届かなかった。背後で師の声が途切れ、兄弟子の剣が折れた。振り返った時には、白い袖の者が笑っていた」
俺の拳が自然と固まる。
「その声か」
闘技場の崩落間際に響いた声。
戻れ、東雲の最後の剣。
ナギは頷かなかった。
ただ、目を閉じた。
「顔は覚えていない。声だけが残った」
その沈黙の重さを、誰も軽くできなかった。
ミュールが窓から戻ってくる。
いつの間にか、彼女も聞いていたらしい。
「生き残ったから、売られた?」
「そうだ」
ナギは目を開ける。
「拙者は、殺されなかった。神域鍵として価値があったからだ。だが、封を開ける儀を吐かなかった。だから剣技を売られた」
「黒杯へ」
「最初は別の場所だった。いくつも回された。最後に黒杯へ来た」
彼女の言葉は短い。
短い分だけ、そこに積もった時間の長さが見えた。
ロゼッタが静かに帳簿片を指で押さえた。
「だから所有者欄に、東雲流継承者、神域鍵保持者とあったのですわね。単なる剣奴ではなく、鍵として保管されていた」
「保管」
ナギがその言葉を繰り返す。
「拙者は、ずっと保管されていたのか」
その声が、痛かった。
商品として売られ、剣奴として戦わされ、鍵として保管される。
どの言葉にも、人間としてのナギはいない。
俺は首輪へ手を伸ばした。
「ナギ」
「何だ」
「生き残った意味は、今すぐ見つからなくていい」
彼女の目が俺を見る。
慰めを嫌う目。
軽い言葉なら斬る目。
俺は続けた。
「でも、君が死ねば、その剣を見世物にした奴らだけが得をする」
ナギの喉が小さく動いた。
「拙者が生きていることも、奴らの得だった」
「今までは、そう使われた」
俺は言った。
「これからもそうするかは、君が決める」
長い沈黙。
ナギは立ち上がった。
「庭を借りる」
「傷は」
「座っていると、死んだ者の声が聞こえる」
止めようとして、言葉を飲んだ。
今の彼女に、ただ休めと言っても届かない。
だから、俺は別の言い方をする。
「無理をしたら止める」
「道連れとしてか」
「そうだ」
ナギは少しだけ目を伏せた。
「ならば、止められる前に止まる努力をする」
十分すぎる前進だった。
庭に出ると、朝日が門の上に差していた。
ナギは刀を抜き、ゆっくりと型を始める。
黒杯で見た剣とは違う。
速さを見せるための剣ではない。
客に血を見せるための剣でもない。
風の流れを止めるような、静かな型。
セリアが隣に立ち、黙って見ている。
「美しいな」
元聖騎士が言った。
ナギの動きが一瞬止まる。
「見世物ではない」
「わかっている」
セリアは静かに答えた。
「だから美しいと言った」
ナギは何も言わなかった。
ただ、次の型に移った。
やがて彼女は刀を鞘に収めた。
本当に、鞘に収めた。
庭にいた全員が、その意味を感じ取った。
死に場所を探す剣が、ほんの一瞬だけ、休んだ。
その時、ミュールの耳が立った。
「門」
セリアが盾を取る。
俺も身構えた。
門の外に立っていたのは、一人の男だった。
黒杯の護衛ではない。
武器も見える場所には持っていない。
ただ、黒い封筒を掲げている。
「使いです」
男は震えていた。
自分の意思で来たというより、来させられた顔だ。
ロゼッタが封筒を受け取る。
赤い蝋。
黒杯の印。
彼女は封を切り、中の文を読んだ。
表情が冷える。
「何と」
セリアが尋ねる。
ロゼッタは一拍置いて、読み上げた。
「東方の剣奴を返却せよ。今夜日没までに戻らぬ場合、黒杯に残る檻の処分を開始する」
庭の空気が止まった。
ナギの手が、刀の柄へ伸びる。
俺はその手を見た。
止めるべきか。
いや。
止めるだけでは、また彼女は一人で行く。
だから、俺は先に言った。
「戻るぞ」
ナギの目が俺を向く。
「貴殿は」
「死に場所を買いにじゃない」
俺は黒杯の封書を見た。
「檻を壊しに戻る」
朝日が、ナギの刀の鞘を照らしていた。
レオンは、死に場所を買いに行くのではなく、檻を壊しに戻ると決めました。
ナギの剣を見世物のまま終わらせないため、次回は再び黒杯へ向かいます。
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