第047話 主ではなく道連れ
「戻れ。東雲の最後の剣」
声が消えた後も、ナギはしばらく動かなかった。
地下水路の奥で水が落ちる音がする。
追っ手の声は遠い。
けれど、安心できるほど離れたわけではない。
排水管理室の壁は湿り、古い木扉は今にも外れそうだった。
セリアが扉の前で盾を構え、ミュールは床に耳を近づけて足音を探っている。
イリスは腕輪を押さえながら、ナギの首輪を見ていた。
ロゼッタは濡れないように帳簿片を布で包み直している。
俺は、ナギの肩から手を離さなかった。
「知っている声だと言ったな」
ナギは答えない。
答えられないのではなく、答える言葉を選んでいるようだった。
首輪の赤い光は弱まっている。
だが、完全には消えていない。
熱を持った鉄が、彼女の首に食い込んでいる。
「先に診る」
「不要」
「必要だ」
ナギの目が俺を射る。
「拙者は、まだ戦える」
「戦えるかどうかを聞いてない」
俺は布を裂き、首輪と肌の間に挟まった血を拭った。
ナギの肩が小さく跳ねる。
痛いのだ。
当然だ。
だが、彼女は痛みを痛みとして扱わない。
戦えるなら問題ない。
立てるなら問題ない。
剣を握れるなら問題ない。
その考え方は、黒杯が彼女に押しつけたものと同じ匂いがした。
「痛むだろ」
「痛みは、動きを鈍らせぬ限り問題ではない」
「問題だ」
ナギの眉がわずかに動いた。
「なぜ」
「君が人間だからだ」
言ってから、自分でも少し強いと思った。
だが、言い直さなかった。
ナギはしばらく俺を見ていた。
その視線には、怒りよりも困惑があった。
人間だから痛みが問題になる。
そんな当たり前を、彼女はすぐには飲み込めないらしい。
イリスが膝をついた。
「首輪、見てもいいですか」
ナギはイリスを見る。
「外せるのか」
「今すぐ完全には無理です。ですが、痛みを弱めることはできるかもしれません」
「ならば、頼む」
短い。
だが、拒まなかった。
イリスは指先に紫の魔力を灯し、首輪へ近づける。
触れない。
線を読むように、空中で指を止めていく。
「黒杯の命令術式は、外部鎖が切れたことで半分死んでいます。でも、もっと内側に別の認証があります」
「奴隷契約ではないのか」
「奴隷契約に似せていますが、古いです。たぶん、本来は所有のためではなく、継承や封印に使うものです」
イリスの声が少し早くなる。
怖い時ではなく、考えが走っている時の早さだ。
「そこへ奴隷術式をかぶせている。だから、命令が二重に響く。黒杯の命令と、別の場所から来る命令が、首輪の中で絡まっています」
ナギの指が剣の柄を握る。
「別の場所」
「方角までは曖昧です。ただ、地下水路の流れとは違う。もっと高いところ、街の中心か、教会施設に近い術式の反応です」
ロゼッタの手が止まった。
「教会」
その単語だけで、部屋の空気が重くなる。
セリアが扉の前から言った。
「ナギ。東雲とは、君の一門か」
ナギは少しだけ目を伏せた。
「東雲流」
初めて、自分から名を言った。
「東の街道を守る剣。旅人を通し、賊を退け、神域と人里の境を守る役目を持っていた」
「剣術一門というより、守護職に近いのか」
「そう呼ぶ者もいた」
ナギの声は静かだった。
静かすぎて、何かを押し殺しているのがわかる。
「今は、拙者だけだ」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
水の音だけが響く。
俺は治療薬を布に染み込ませ、首輪の周辺へ当てた。
「しみる」
「しみるくらいなら効いてる」
「乱暴な理屈だ」
「ガレスさんから教わった」
「誰だ」
「武器を直す人だ。たぶん君の刀を見たら、怒りながら喜ぶ」
ナギがほんのわずかに首を傾げた。
「怒りながら喜ぶ?」
「そういう人だ」
会話が途切れる。
だが、先ほどまでの緊張とは少し違った。
ミュールが扉の隙間から戻ってくる。
「追っ手、二組。水路の上を探してる。ここはまだ見つかってない」
「どれくらい猶予がある」
「長くない」
ロゼッタが帳簿片を机代わりの木箱に広げた。
「なら、今のうちに確認します」
濡れた紙片は小さい。
だが、そこには黒杯の本物の記録の一部が残っていた。
赤鎖の搬入印。
夜爪の中継符号。
黒杯の管理番号。
そして、所有者欄に押された薄い印。
ロゼッタは布で紙面を押さえ、目を細める。
「これ、空白ではありませんわ」
「何か書いてあるのか」
「見えにくいよう、削られています。でも、印の外枠が残っている」
彼女は紙片をイリスの魔灯に透かした。
淡い光の中に、丸い紋が浮かぶ。
鳥の翼にも見える。
鎖にも見える。
祈りの手にも見える。
セリアの顔が変わった。
「教会印だ」
イリスが息を呑む。
「魔塔の書類にも、補助承認印として似たものがありました」
ロゼッタは唇を結ぶ。
「黒杯は赤鎖の私設闘技場ではありません。赤鎖は搬入役。夜爪は調達役。黒杯は収益化の場所。そして所有者欄には教会系の印」
「教会が剣奴を所有しているのか」
「所有している、ではまだ弱いですわ」
ロゼッタの声が冷える。
「正式な所有者として名を出さず、委託と資金洗浄で利益だけ取っている可能性があります」
ナギは黙って聞いていた。
だが、教会印が浮かんだ瞬間から、呼吸が変わっている。
「その印」
彼女が言う。
「一門が滅びた夜にも、見た」
空気が止まる。
俺はナギを見る。
彼女の目は、もう今の地下水路を見ていなかった。
「神官の袖に、あった」
低い声。
「賊でも、傭兵でもない者がいた。白い袖。祈りの言葉。拙者の師は、その者を門の内へ入れなかった」
「その後、一門が襲われたのか」
ナギは頷かなかった。
ただ、剣を握る指が白くなる。
「夜明け前だった」
それ以上は言わない。
言えば、今ここで崩れるとわかっているようだった。
だから俺も、それ以上は聞かなかった。
代わりに、首輪へ薬を塗り直す。
「ナギ」
「何だ」
「君は、これからどうする」
ナギは俺を見た。
答えは決まっている、という目だった。
「黒杯へ戻る」
「なぜ」
「檻が残っている」
「一人で戻る気か」
「拙者が原因で、あの者たちが処分されるなら」
「違う」
俺の声が強くなった。
ナギが目を細める。
「何が違う」
「処分すると脅しているのは黒杯だ。君じゃない」
「だが」
「君が戻れば、黒杯は君をまた見世物にする。残りの檻も助ける保証はない」
ナギは黙る。
論理ではわかっている。
だが、感情が許さないのだろう。
自分だけが出た。
自分だけが生きた。
その痛みが、彼女を黒杯へ戻そうとしている。
ミュールがぽつりと言った。
「戻っても、助からない時ある」
ナギがミュールを見る。
「経験か」
「うん」
ミュールはそれ以上語らない。
だが、その短い返事だけで十分だった。
セリアが続ける。
「守るために戻ることと、死ぬために戻ることは違う」
ナギの目がセリアへ向く。
「貴殿も、守れなかった者がいる顔をしている」
「いる」
セリアは隠さなかった。
「だから言う。死ねば償えると思うな。残された者に、さらに重いものを背負わせる」
ナギの唇がかすかに動いた。
反論しかけて、やめたようだった。
俺は治療布を結び終える。
「ナギ」
「何だ」
「君は、俺を主だと思っているか」
唐突な問いだったのだろう。
ナギは瞬きをした。
「わからぬ」
「正直で助かる」
「貴殿は拙者を買っていない。だが、逃がした。手当てをしている。命令はしない。しかし、止める」
ナギは少し考える。
「主ではないなら、何だ」
「道連れ」
口に出すと、思ったよりしっくりきた。
ナギの眉がわずかに寄る。
「道連れ」
「道が同じ間、隣を走る。違う道を選ぶなら、止められない。でも、死に場所を探すために一人で戻るなら、止める」
「それは、命令ではないのか」
「違う」
俺は彼女の目を見る。
「君の主じゃない。でも、見殺しにする他人でもない」
ナギの呼吸が止まった。
水の音が遠くなる。
彼女は何かを言おうとして、言えなかった。
代わりに、剣の柄から指を一本ずつ離していく。
それは、戦いをやめる仕草ではなかった。
誰かの前で、ほんの少しだけ力を抜く仕草だった。
「拙者は」
ナギは言った。
「まだ、貴殿を信じたわけではない」
「それでいい」
「解放者の家とやらも、まだ知らぬ」
「見てから決めればいい」
「檻の者たちは」
「戻る。準備して戻る」
ナギは俺を見続けた。
嘘を探しているのだろう。
ミュールほど匂いで読めるわけではない。
だが、剣士の間合いで、言葉の重さを測っている。
やがて、彼女は小さく頷いた。
「ならば、道連れとして借りる」
「何を」
「その言葉を」
変な返しだった。
だが、ナギには大事なことらしい。
ロゼッタが帳簿片をしまいながら言った。
「よろしいですか。感動的なところ申し訳ありませんが、今後の現実です」
「現実はいつも遠慮がないな」
「遠慮する現実なら苦労しませんわ」
ロゼッタは指を三本立てた。
「まず一つ。黒杯は今夜のうちに証拠を消します。二つ。アルベルト様は、この件を自分に都合よく王都へ報告するでしょう。三つ。ナギさんの所有者欄に教会印がある以上、相手は黒杯だけではありません」
イリスが続ける。
「首輪も完全には止まっていません。外部命令は断続的に来ます。解放者の家に戻ったら、地下室の魔法陣と私の道具で、もう少し詳しく見られると思います」
「戻れるのか」
俺が聞くと、ミュールが頷いた。
「水路を抜ければ、東の廃井戸。そこから屋敷の裏手に行ける」
「詳しいな」
「さっき覚えた」
頼もしい。
セリアが扉の向こうへ意識を向ける。
「追っ手が近い」
ミュールも耳を立てた。
「三人。いや、五人。迷ってるけど、来る」
ナギが立とうとする。
俺は手を出した。
彼女はその手を見た。
また、すぐには取らない。
だが、今度は剣先を向けなかった。
少し迷ってから、手を取る。
軽い。
思ったよりずっと、彼女の手は冷えていた。
「立てるか」
「立てる」
「走れるか」
「走れる」
「戻ったら、ちゃんと診る」
「それは命令か」
「予約だ」
ナギはわずかに目を細めた。
「予約ならば、破るとどうなる」
「ロゼッタに請求書を書かれる」
「それは、避けたい」
ロゼッタが扇子を閉じた。
「賢明ですわ」
追っ手の足音が近づく。
俺たちは排水管理室を出た。
地下水路の闇へ再び入る。
先頭はミュール。
後ろをセリア。
中央にロゼッタとイリス。
ナギは俺の隣を走った。
主従ではない。
まだ仲間と呼ぶにも早い。
それでも、同じ道を走っている。
水路の出口が見えた時、ロゼッタがふと立ち止まりかけた。
「待って」
「どうした」
彼女は帳簿片をもう一度取り出し、魔灯にかざした。
水滴で紙の表面が少しめくれ、削られていた印の内側が浮かんでいる。
「所有者欄の下。もう一つ、文字があります」
「読めるか」
ロゼッタは目を凝らした。
そして、顔色を変えた。
「東雲流継承者、神域鍵保持者」
ナギの足が止まった。
その言葉は、首輪の命令より深く彼女を刺したようだった。
「神域鍵」
セリアが繰り返す。
イリスの腕輪が、微かに震えた。
「鍵というのは、比喩ではないかもしれません。ナギさんの首輪の古い認証と、つながります」
ロゼッタは続ける。
「そして、欄外に小さく教会印。黒杯の客ではなく、もっと上の委託元です」
水路の出口から、夜明け前の風が流れ込む。
冷たい風だった。
ナギは、遠くを見るように呟いた。
「拙者の一門は、剣だけを守っていたのではない」
その声は、初めて迷っていた。
黒杯の檻を壊す戦いは、まだ始まりに過ぎなかった。
東雲流が守っていたもの。
教会が欲しがったもの。
そして、ナギが最後の剣と呼ばれる理由。
次に向き合うべき檻は、彼女の過去の中にあった。
ナギの一門が守っていたもの、教会が欲しがったもの、そして彼女が最後の剣と呼ばれる理由。
黒杯の檻を壊す戦いは、まだ始まりに過ぎませんでした。
次回、ナギの過去と滅びた一門に触れます。
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