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第046話 黒杯脱出戦

 檻が百ある場所で、最初の一本の鎖が落ちた。


 その音は小さかった。


 けれど、黒杯闘技場の地下では、爆発より大きく響いた。


「捕らえろ!」


 支配人の怒号が飛ぶ。


 護衛たちが一斉に動いた。

 通路の出口を塞ぐ者。

 闘場へ降りる階段へ走る者。

 檻の前に立ち、他の剣奴たちを威圧する者。


 観客席では悲鳴と歓声が混ざっていた。


 逃げようとする客。

 酒杯を持ったまま笑っている客。

 これはこれで見世物だと勘違いしている客。


 最悪だ。


 だからこそ、利用する。


「ミュール、出口」


「右は閉じた。左、搬入口。水の匂い」


「地下水路か」


「たぶん」


 ミュールの声は短い。

 だが、必要な情報は全部入っていた。


 セリアが盾を構え、俺たちの前へ出る。


「左へ抜ける。私が正面を受ける」


「ナギは」


 俺が振り返ると、ナギは剣を構えたまま立っていた。

 首輪はまだ残っている。

 黒杯の外部命令鎖は断った。

 だが、うなじの下にある刻印は赤く熱を持ち、彼女の呼吸を浅くしている。


「動けるか」


「動く」


「聞き方を変える。倒れずに走れるか」


 ナギの目が、少しだけ俺を見た。


「走れる」


「なら走れ。斬るのは必要な時だけでいい」


「命令か」


「違う。頼みだ」


 ナギは一瞬だけ黙り、剣先を下げた。


「承知」


 その返事を聞く前に、護衛が三人突っ込んできた。


 セリアの盾が最初の一人を受ける。

 金属がぶつかり、通路に鈍い音が響いた。


「退け!」


 護衛が叫ぶ。


「断る」


 セリアは短く返し、盾で相手の胸を押し返す。

 二人目の槍が横から突き込まれる。

 ナギの剣が走った。


 槍の穂先が落ちる。


 腕は斬っていない。

 武器だけを断った。


 護衛の目が見開かれる。


 ナギはもうそこにいない。

 半歩横へ流れ、三人目の膝裏を柄で打つ。

 護衛が崩れたところへ、ミュールが影から出て首筋へ短剣の背を当てる。


「寝て」


 男が気絶する。


「殺してない」


 ミュールが俺を見ずに言った。


「助かる」


「あとで褒めて」


「今も褒めたい」


「あとで」


 こんな状況で、少しだけ息が抜けた。


 だが、すぐに別の圧が来る。


 アルベルトだ。


 彼は通路の中央で剣を抜き、こちらを睨んでいた。

 勇者の剣が淡い光を帯びる。


「どこへ行く、レオン」


「帰る」


「闇闘技場で暴れて、奴隷を奪って、逃げるのか」


「違法な競りを止めて、証拠を持って、保護対象を連れて帰る」


「言葉を飾るな。お前は昔からそうだ。雑用をしていただけなのに、自分が支えていたような顔をする」


 アルベルトの剣先が俺へ向いた。


「今も同じだ。女を集めて、守っている気になっている」


 セリアが前へ出ようとした。

 ナギも剣を握り直す。


 俺は二人より先に、ロゼッタを見た。


 ロゼッタは、すでに動いていた。


 彼女は帳簿片を胸元にしまい、支配人へ向かって声を張る。


「黒杯の皆さま、よろしいのですか」


 その声は、騒ぎの中でもよく通った。


「王都の勇者様が、違法所有疑いの剣奴を購入できなかった腹いせに、闇競売場で剣を抜いた。そう帳簿に残しますわよ」


 支配人の顔が引きつる。


「な、何を」


「こちらには帳簿片があります。さらに、勇者様がここにいた証人も、こんなに大勢」


 ロゼッタは観客席を扇子で示した。


 逃げようとしていた客たちの足が止まる。

 彼らもまた、ここにいた証人であり、同時に証拠にされたくない客だった。


「アルベルト様」


 支配人が慌てて言う。


「ここでの交戦は、その」


「黙れ」


 アルベルトの声は低い。


 だが、剣はまだ動かない。


 ロゼッタの言葉が効いている。

 勇者は正義の看板を必要とする。

 闇の中で何をしようと、表に出る形だけは選ぶ。


 その隙で十分だった。


「イリス」


「はい」


 イリスが腕輪に触れる。


 紫の光が、通路の灯りへ走った。

 次の瞬間、壁に並ぶ魔灯が一斉に強く光る。


「目を」


 彼女の警告に合わせて、俺たちは目を伏せた。


 白い閃光。


 護衛たちの悲鳴。

 観客の怒号。


 イリスは攻撃魔法を撃ったわけではない。

 灯りに溜まっていた魔力を、一瞬だけ過剰に流しただけだ。


 だが、暗い地下では十分すぎる。


「左」


 ミュールが走る。


 俺たちはその背中を追った。


 通路の奥。

 荷物搬入口。

 鉄格子。


 鍵はかかっている。


 だが、ミュールは止まらなかった。

 腰から細い針を出し、鍵穴へ差し込む。


「硬い」


 イリスが隣に膝をつく。


「魔力錠が混じっています」


「壊せるか」


「壊すと警報が」


 ナギが剣を上げる。


「斬る」


「待て」


 俺は搬入口の横にある古い滑車を見た。

 鉄格子は上下に動く形式だ。

 鍵を開けなくても、滑車と鎖を動かせば少し隙間ができる。


「ガレスなら殴ってるな」


「ガレスさんではありませんわ」


 ロゼッタが息を切らしながらも突っ込む。


「わかってる。俺は雑用係らしくやる」


 錬金術師の感覚で金属の錆を読む。

 鍛冶師の感覚で負荷のかかる場所を見る。

 斥候の感覚で、音が響きにくい角度を探す。


 小瓶の油を滑車へ流し込み、短杖の金具で錆びた留め具を叩く。


「セリア、盾でここを押してくれ」


「承知」


「ナギ、鎖を切らずに、ここの輪だけずらせるか」


 ナギが一瞬だけ俺を見る。


「細かい」


「できるか」


「できる」


 剣が走る。


 鎖の輪が割れるのではなく、留め具だけが外れた。


 セリアが盾で押し上げる。

 鉄格子が、人ひとり通れるだけ浮いた。


「先にトマぐらいの体なら余裕ですわね」


 ロゼッタがつぶやく。


「今は俺たちが通る」


 ミュールが真っ先に潜る。

 次にロゼッタ。

 イリス。

 セリアが最後まで盾で押さえる。


「ナギ」


 俺が呼ぶと、彼女は背後を見ていた。


 檻の方だ。


 通路の奥、他の剣奴たちがこちらを見ている。

 声を出す者はいない。

 助けを求める者もいない。


 期待して裏切られることに、慣れすぎた目だった。


 ナギの指が震える。


「拙者だけ」


 彼女の声はかすれていた。


「拙者だけが、出るのか」


 その問いは重い。


 俺は即答できなかった。


 全員を今すぐ連れていきたい。

 けれど、今ここで全檻を開ければ、逃げ場も食料も治療も足りない。

 黒杯は混乱に乗じて殺しに来る。

 ギルドの踏み込みもまだ間に合わない。


 助けるだけでは、人は生きられない。


 ロゼッタの言葉が胸を刺す。


 だから、俺は嘘を言わない。


「今は全員を連れていけない」


 ナギの目が俺を射る。


「見捨てるのか」


「違う。戻るために出る」


 俺は帳簿片を握った。


「証拠を持って、準備をして、戻る。今ここで死ぬためじゃなく、ここを壊すために出る」


 ナギは黙った。


 首輪の赤い光が強くなる。

 彼女の膝が揺れる。


 セリアが言う。


「ナギ。私は騎士だった。守れなかった者の顔は忘れない」


 ミュールが続ける。


「ミュールも、戻らなかったことある。だから、戻るなら覚えてる」


 イリスが震える声で言った。


「檻の魔力錠の型は見ました。次は、もっと開けられます」


 ロゼッタは短く言う。


「帳簿があれば、ギルドを動かせます。紙で殴る準備はできていますわ」


 ナギは、檻の中の者たちへ向き直った。


 そして、剣を縦に立てた。


 魔獣へ向けた弔いの形と同じ。

 だが、今度は約束のように見えた。


「戻る」


 彼女は言った。


「拙者は、戻る」


 檻の中の誰かが、ほんの少し顔を上げた。


 それだけを見て、ナギは鉄格子の隙間を潜った。


 最後にセリアが抜ける。

 俺も続こうとした瞬間、背後から光が迫った。


 アルベルトの剣だ。


「逃がすか!」


 白い斬撃が通路を裂く。


 セリアが盾を上げた。

 だが、角度が悪い。


 俺は反射的に、盾の縁へ手を添えた。

 鍛冶師の感覚で衝撃の流れを読み、治癒師の感覚で自分の腕が壊れる手前を測る。


 衝撃。


 腕が痺れる。

 セリアの盾が悲鳴を上げる。


 だが、斬撃は逸れた。

 搬入口の壁が砕け、粉塵が上がる。


「レオン!」


 セリアの声。


「大丈夫だ」


 大丈夫ではない。

 腕が熱い。

 だが、動く。


 ナギが戻ろうとする。


「来るな」


 俺は言いかけて、言葉を変えた。


「先に行ってくれ。出口を開ける人がいる」


 ナギは歯を食いしばった。


 命令ではない。

 役割だ。


 彼女は一瞬だけ迷い、走った。


 俺とセリアが鉄格子をくぐる。

 ミュールが外側から留め具を蹴り落とす。


 鉄格子が落ちた。


 アルベルトの姿が向こう側に隔てられる。


 彼は怒りに顔を歪めていた。


「レオン! お前はいつも、俺の邪魔をする!」


 いつも。


 そう思っていたのか。


 俺は返事をしなかった。


 返事をする時間もなかった。


 搬入口の先は、湿った石の通路だった。

 ミュールの言った通り、水の匂いがする。


 地下水路。


 狭く、暗く、足元は滑る。

 追っ手の声は背後から響いている。


 イリスが小さな魔灯を出した。

 セリアが後方を守る。

 ミュールが先行する。

 ロゼッタは帳簿片を濡らさないよう、外套の内側へ押し込んでいる。


 ナギは無言で走っていた。


 だが、速さが落ちている。


「ナギ」


「問題ない」


「嘘だ」


 ミュールが前を向いたまま言った。


「血の匂い、増えてる」


 ナギは答えない。


 首輪の赤い光が、闇の中で脈打っていた。


 水路の曲がり角を抜けたところで、ようやく追っ手の声が遠ざかった。


 ミュールが手を上げる。


「ここ、一度止まれる」


 崩れた排水管理室だった。

 壁は湿っているが、扉は残っている。

 外から見えにくい。


 俺たちはそこへ滑り込んだ。


 セリアが扉を押さえる。

 イリスが簡易結界を張る。

 ロゼッタがようやく息を吐いた。


 ナギは壁にもたれ、剣を杖のようにして立っていた。


「座れ」


 俺は言った。


 ナギは動かない。


「頼む。診たい」


 彼女の目が揺れた。


 少しして、膝をつく。


 俺は首輪を見る。


 熱い。

 黒杯の術式ではない。

 もっと奥、もっと古いところから命令が来ている。


 イリスが息を呑む。


「外部命令が、再接続しています」


「黒杯か」


「違います。方角が違う。もっと遠い」


 ナギの首輪が赤く光った。


 彼女の体が強張る。


 そして、声が響いた。


 男とも女ともつかない、冷たい声。


「戻れ」


 ナギの瞳が見開かれる。


 その声は、首輪からではなく、彼女の骨の内側から響いているようだった。


「戻れ。東雲の最後の剣」


 ナギの指が、剣の柄を握りつぶすほど強く締まった。


 俺は彼女の肩に触れる。


「ナギ」


 彼女は震えていた。


 闘場でも震えなかった彼女が。

 魔獣の前でも、アルベルトの前でも折れなかった彼女が。


 今、はっきりと震えていた。


「この声を」


 ナギがかすれた声で言う。


「拙者は、知っている」


 水路の奥で、遠く鐘のような音が鳴った。


 黒杯から逃げた夜は、まだ終わっていなかった。



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