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第045話 東方の剣奴

「やはりいたか、レオン」


 アルベルトの声が、地下の通路に響いた。


 金色の髪。

 整った顔。

 白を基調にした外套。

 腰には勇者の剣。


 ここが闇闘技場でなければ、誰もが彼を正義の側だと思っただろう。


 だが、彼は黒杯の支配人に案内されていた。

 支配人は低く頭を下げ、まるで貴人を迎えるように笑っている。


「アルベルト様、こちらのお客様は」


「知っている。俺の元荷物持ちだ」


 元荷物持ち。


 懐かしい呼び方だった。

 そして、少しも懐かしくない痛みがあった。


 セリアの気配が変わる。

 ミュールの足音が消える。

 イリスの腕輪が袖の下で光った。


 ロゼッタだけが、扇子を口元に当てて微笑んでいた。


「勇者様が、闇闘技場へ?」


 アルベルトの視線がロゼッタへ向く。


「誰だ」


「この方の財布を預かる者ですわ」


「レオンの財布?」


 アルベルトは鼻で笑った。


「あいつに財布を預ける価値があるのか。昔は俺たちの予備食まで数えていた男だぞ」


「予備食を数えられる人間は、遠征で役に立ちます」


 ロゼッタは微笑みを崩さない。


「少なくとも、闇競売で正義面をする人間よりは信用できますわ」


 空気が凍った。


 支配人の笑顔も固まる。


 アルベルトの目が細くなった。


「口の利き方に気をつけろ」


「ここでは財布が身分と聞きました。勇者様の剣が身分になる場所ではないでしょう?」


 ロゼッタは一歩も引かない。


 その姿を見て、俺はようやく息を整えた。


 怒るな。

 ここで怒ったら、相手の場所で相手のやり方に乗ることになる。


 俺は短杖の頭を指で叩いた。


「久しぶりだな、アルベルト」


「偉そうに」


 アルベルトは俺を上から下まで見る。


「噂は本当だったか。追放された雑用係が、女奴隷を買い集めて主人ごっこ」


 セリアが一歩出ようとした。


 俺は手で止める。


 命令ではない。

 ただ、今は俺が受けるべき言葉だと思った。


「君がどう呼ぶかは自由だ」


「ほう」


「だが、彼女たちは君の言葉で値が決まる人間じゃない」


 アルベルトは笑った。


「では何だ。仲間か? 奴隷首輪をつけたまま?」


 その言葉に、イリスの肩が揺れた。

 ミュールの瞳が冷える。

 セリアの口元が固くなる。


 俺は答えようとして、ナギの檻を見た。


 ナギはこちらを見ていた。

 首輪をつけたまま。

 鎖につながれたまま。

 それでも、目は折れていない。


「そうだ」


 俺は言った。


「途中だ」


 アルベルトの笑みが止まる。


「途中?」


「首輪を外して終わりじゃない。買い戻して終わりでもない。生きる場所を作って、選べるだけの力を戻すまで途中だ」


 言葉にすると、ずいぶん青い。


 ロゼッタなら、理念としては十分だが看板としては青いと言うかもしれない。


 だが、今はそれでいい。


 アルベルトが吐き捨てる。


「雑用係が救世主気取りか」


「救世主じゃない。手が届く檻を開けたいだけだ」


 支配人が咳払いをした。


「お客様方。個人的なご事情は、競りの後にお願いいたします。東方の剣奴の競りを開始いたしますので」


 アルベルトは檻の中のナギを見た。


 その目が、獲物を見る目に変わる。


「あれが今夜の目玉か」


「はい。東方剣術の使い手で、先ほどの試合でも見事な」


「買う」


 即答だった。


 支配人が笑みを深める。


「競りにて」


「俺が買うと言っている。勇者パーティに足りない前衛が一人欲しかった」


 勇者パーティに足りない。


 その言葉で、理解した。


 アルベルトは、レオンが抜けた穴を認めない。

 準備や索敵や支援の穴を、自分の失敗とは呼ばない。

 だから、別の強い駒で埋めようとしている。


 それが、ナギ。


 檻の中の人間を、ただの戦力として見ている。


 黒杯の司会者が通路へ現れ、手を広げた。


「皆さま、お待たせいたしました。東方の剣奴ナギ、競りを開始いたします」


 俺たちは観覧席へ戻された。


 ナギは闘場の中央へ立たされる。

 首輪には赤い光。

 鎖は外されたが、自由ではない。


 司会者が開始額を告げる。


 高い。


 今の俺たちの資金では、届かない額だった。


 それでも、ロゼッタは扇子を上げた。


 競りが始まる。


 最初の数声は、貴族代理人らしい男たちだった。

 物好きな傭兵商。

 奴隷商会の代理。

 そして、アルベルト。


 彼が一声出すたび、額が跳ねる。


 ロゼッタは冷静に追う。


 俺は胃が冷えるのを感じていた。


 見せ金はある。

 だが、本当に払える金ではない。

 ロゼッタもそれを知っている。


 それでも、彼女は競りから降りない。


 アルベルトがこちらを見て笑った。


「無理をするな、レオン。お前の財布の底は知っている」


「昔の話だ」


「人間の器は変わらない」


 アルベルトがさらに額を上げた。


 会場がどよめく。


 ロゼッタの扇子が止まった。


 届かない。


 俺にもわかった。


 だが、彼女は悔しそうな顔をしなかった。


 むしろ、待っていたように微笑んだ。


「では、その額で本当に所有権を移せるのか、確認させていただきます」


 司会者の眉が動く。


「何を」


 ロゼッタは立ち上がった。


「この剣奴ナギの搬入記録には不備があります。写しでは三日前の搬入。しかし管理番号は昨日発行の赤鎖札と連動している。加えて、特別搬入の所有者欄が空白。所有者不明の商品を、黒杯は今ここで勇者様に売るのですか」


 会場がざわめいた。


 支配人の顔色が変わる。


 アルベルトが舌打ちした。


「小賢しい」


「商売では、正確と言います」


 ロゼッタは折りたたんだ紙片を出した。


 ミュールが盗んだ本物の帳簿の一部。


 そこには、ナギの番号と、赤鎖、夜爪、そして読めない貴族印が記されていた。


「これをギルドへ持ち込めば、黒杯は少なくとも数日は閉じます。王都の勇者様が、その不備を承知で購入した記録も残りますわ」


 アルベルトの表情が歪む。


「脅す気か」


「交渉です」


 ロゼッタは扇子を閉じた。


「選びなさい。今ここで競りを中止し、所有権の確認をするか。それとも、勇者様を違法奴隷売買の客として帳簿に残すか」


 黒杯の支配人が汗を浮かべる。


 闇の場所にも、守りたい外面はある。

 勇者が客として来ていることは価値だ。

 だが、勇者が違法売買に関わった証拠は毒になる。


 支配人は司会者へ目配せした。


「本品は、所有権確認のため、競りを一時保留といたします」


 会場から不満の声が上がる。


 アルベルトが席を蹴った。


「ふざけるな。俺は買うと言った」


「申し訳ございません、アルベルト様。形式上の確認で」


「形式などどうでもいい」


 アルベルトの手が剣へ伸びる。


 セリアが立った。


 その瞬間、ナギの首輪が赤く光った。


 司会者が焦った声で叫ぶ。


「剣奴ナギ、暴れるな! 待機命令だ!」


 違う。


 ナギは暴れていない。


 彼女はただ、アルベルトを見ていた。


 そして、俺を見た。


 首輪の命令に逆らいながら、ゆっくりと剣を抜く。


 会場が静まり返る。


 ナギの膝が震えている。

 首輪が彼女の喉を焼いている。

 それでも、剣先は下がらない。


 支配人が叫ぶ。


「止めろ! 所有者命令を上書きしろ!」


 魔術師らしき男が杖を構える。


 イリスが動いた。


 袖の下の腕輪が紫に光る。


「あの首輪、外部命令を受けています。三秒だけ、流れを乱します」


「三秒でいい」


 俺は立ち上がった。


 短杖を捨てる。

 若主人の仮面も、ここまでだ。


「ナギ!」


 彼女の目が俺を射抜く。


 俺は命令しない。


 こんな場所で、彼女に命令したくない。


「選べ!」


 イリスの魔力が首輪の光を一瞬だけ歪ませる。


 ナギの体が自由になった。


 たった三秒。


 だが、剣士には長すぎる時間だった。


 ナギは踏み込んだ。


 アルベルトへではない。

 司会者へでもない。


 自分の首から垂れる命令鎖へ。


 細い剣が閃く。


 鎖が断たれた。


 首輪そのものは残っている。

 だが、黒杯の命令術式とつながっていた外部鎖が、床に落ちる。


 会場が爆発したように騒いだ。


 支配人が叫ぶ。

 護衛が走る。

 アルベルトが剣を抜く。


 ナギは血のにじむ首元を押さえ、俺たちの方へ歩いた。


 一歩。

 二歩。


 セリアが前に出て盾を構える。

 ミュールが影から護衛の足を払う。

 イリスが通路の灯りを落とす。

 ロゼッタが帳簿の紙片を胸元にしまう。


 俺はナギへ手を伸ばした。


 彼女はその手を見た。


 すぐには取らない。


 当然だ。


 代わりに、剣先を俺の喉元の少し手前で止めた。


「貴殿は、主か」


 静かな声だった。


 俺は首を横に振る。


「違う」


「では、何だ」


「今は、逃げ道を作る者だ」


 ナギの目が、ほんの少しだけ揺れた。


 背後でアルベルトが叫ぶ。


「レオン! 貴様、俺の獲物を」


 ナギの剣先が、アルベルトへ向いた。


「拙者は、獲物ではない」


 その一言で、闘場の空気が変わった。


 首輪はまだ残っている。

 黒杯も壊れていない。

 アルベルトも目の前にいる。


 完全な勝利にはほど遠い。


 それでも、ナギは自分の言葉で、自分を獲物ではないと言った。


 俺は頷いた。


「行くぞ」


 ナギは一瞬だけ目を閉じ、剣を構え直した。


「承知。ただし、拙者はまだ、貴殿を主とは呼ばぬ」


「それでいい」


 黒杯の護衛たちが、通路を塞ぐ。


 アルベルトの剣が光る。


 地下闘技場の出口は遠い。


 だが、俺たちの手には帳簿がある。

 隣には、折れない東方の剣が立っている。


 檻が百ある場所で、最初の一本の鎖が落ちた。



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