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第044話 黒杯の帳簿

 魔獣の鎖が外された。


 闘場の砂が、低い唸りで震える。

 引き出されたのは、黒い毛並みの四足獣だった。

 狼に似ているが、肩の高さが人の胸ほどもある。

 口元からは泡が垂れ、目は赤く濁っていた。


「薬を使っています」


 イリスが小声で言った。


「興奮剤か」


「それだけではありません。痛覚を鈍らせて、恐怖も薄くしている。かなり雑です」


 雑。


 生き物を壊して、見世物にするための雑さ。


 ナギは闘場の中央に立ったままだった。


 細い剣を抜いている。

 だが、構えは大きくない。

 肩の力が抜け、足裏で砂の沈みを確かめるように立っている。


 観客が叫ぶ。


「早く斬れ!」


「東方の剣を見せろ!」


「噛まれたら値が下がるぞ!」


 値。


 その言葉に、セリアの拳が固くなる。


 俺は短杖を握る手に力を入れた。


 まだ動くな。


 ここで飛び出せば、ナギだけでなく檻の中の全員が危険になる。

 赤鎖は証拠を隠す。

 黒杯は入口を閉じる。

 ギルドは踏み込めなくなる。


 わかっている。


 わかっているのに、体が前に出そうになる。


 ロゼッタの扇子が、俺の膝に軽く触れた。


「主人役」


 小さな声。


 俺は息を吐き、椅子に深く座った。


 魔獣が跳んだ。


 速い。


 黒い塊が砂を蹴り、ナギの喉元へ食らいつこうとする。


 ナギは半歩だけ横へずれた。


 本当に、半歩だけ。


 魔獣の爪が彼女の袖を裂く。

 だが、肉には届かない。


 ナギの剣が走った。


 首ではない。

 腹でもない。

 前脚の腱を、薄く断つ。


 魔獣が崩れた。


 観客の歓声が上がる。


「殺せ!」


「首を落とせ!」


 ナギは動かない。


 魔獣は唸りながら、立とうとして立てない。

 苦しんでいる。

 だが、薬のせいで痛みの意味すらわからないように暴れている。


 司会者が笑う。


「おや、剣奴ナギ。情けですか? それとも刃が鈍りましたか?」


 ナギは司会者を見ない。


 剣先を下げ、魔獣の目を見る。


 そして、一撃。


 急所を正確に突いた。


 見世物にするための派手な斬撃ではない。

 苦しみを長引かせない、静かな一突きだった。


 魔獣が倒れる。


 闘場に、一瞬だけ妙な沈黙が落ちた。


 観客は派手な血を期待していた。

 だが、見せられたのは技だった。


 司会者がすぐに笑顔を作る。


「見事! 東方の剣は、獣を一息で沈める!」


 歓声が戻る。


 だが、俺にはわかった。


 ナギは魔獣を見世物として殺さなかった。

 終わらせた。


 その直後、ナギの首輪が赤く光った。


 彼女の膝が、わずかに沈む。


 司会者が声を張り上げる。


「おや、まだ終わりではありません。黒杯の剣奴は、勝利の礼を忘れてはなりません」


 観客が笑う。


 ナギの手が、勝手に持ち上がろうとしていた。

 首輪の命令術式だ。

 勝者として剣を掲げろ。

 客に頭を下げろ。

 自分が商品だと認めろ。


 そんな命令が、首輪を通して彼女の体を動かそうとしている。


 だが、ナギは動かなかった。


 正確には、動きを止めていた。


 剣を握る指が震える。

 肩に筋が浮く。

 額に汗がにじむ。


 首輪の光が強くなる。


 観客の笑いが、少しずつ戸惑いに変わった。


「従わないのか?」


「壊れてるんじゃないか」


「いや、あれでこそ高い」


 勝手な声。


 ナギはゆっくり剣を上げた。


 ただし、客席へではない。


 倒れた魔獣へ向けて、刃を垂直に立てる。

 礼ではなく、弔いの形だった。


 司会者の笑みが一瞬だけ引きつる。


 首輪の赤い光が弾け、ナギの喉から小さな息が漏れた。


 膝をつきかける。


 だが、彼女は倒れなかった。


 俺の中で、何かが音を立てた。


 あの首輪は、彼女を折るためにある。

 命令に従わせるためだけではない。

 逆らうたび、自分がどれほど無力かを思い知らせるためにある。


 セリアが歯を食いしばった。


「あれは、騎士の礼に似ている」


「東方にも、死者へ刃を立てる作法があるのかもしれません」


 イリスの声は震えていた。


「首輪の術式、普通より強いです。所有者命令だけではなく、興行用の強制動作が重ねられています」


「外せるか」


「構造を見れば。ですが、今ここでは」


「わかってる」


 今は動けない。


 動けないことが、こんなにも苦しい。


 ナギは剣を下ろし、司会者を見た。


 一瞬だけ。


 その視線は、刃よりも冷たかった。


 司会者は笑顔を取り戻し、観客へ両手を広げる。


「見ましたか皆さま。折れない剣ほど、折る価値がある!」


 歓声が爆発した。


 俺は、その声を忘れないと決めた。


 セリアが低く言う。


「あれは、戦士だ」


 ミュールも頷く。


「殺すの、好きじゃない匂い」


 イリスは魔獣の死体を見ている。


「あの薬、魔塔系です」


「何だって」


「配合が似ています。地下施設で見た実験記録に、興奮と恐怖抑制を同時に行う薬がありました」


 黒杯。

 赤鎖。

 魔塔。


 また線がつながる。


 ロゼッタは係員から受け取った帳面を開いていた。


「こちらも線がつながりましたわ」


「何かわかったか」


「この写し、日付が合いません」


 彼女は扇子で帳面の一箇所を指す。


「東方の剣奴ナギは、三日前に搬入されたことになっています。ですが、赤鎖の札の刻印は昨日の夜。搬入後に発行されるはずの札が、搬入前の管理番号を持っている」


「偽造か」


「偽造です。ただし、番号の癖は本物です」


 ロゼッタは目を細める。


「本物の帳簿を見ながら、急いで写した。だから番号体系だけは正しい」


 係員が戻ってきた。


「いかがですか、お客様。お気に召しましたか」


 ロゼッタは帳面を閉じた。


「悪くありませんわ。ただ、剣奴の状態をもう少し近くで見たいですわね」


「競りの前に檻前での確認は可能です。ただし、接触は禁止です」


「当然です。傷物を買わされては困りますもの」


 俺の胃が軋む。


 その言い方を、ロゼッタが好きでしているわけではないと知っている。

 それでも、耳に痛い。


 係員は満足げに頷いた。


「では、準備が整い次第ご案内します」


 男が去った後、ロゼッタの指がわずかに震えた。


 俺は気づかないふりをしなかった。


「大丈夫か」


「大丈夫ではありません」


 彼女は小さく答えた。


「でも、今の私は嫌な女に見えたでしょう」


「見えた」


「なら成功です」


 ロゼッタは笑った。


 仮面の笑みではない。

 少しだけ苦い、本物の笑み。


「嫌な言葉ほど、嫌な場所では鍵になりますわ」


 やがて、俺たちは檻の並ぶ通路へ案内された。


 観覧席の喧騒が遠ざかる。

 代わりに、鉄格子の匂いと、湿った石の冷たさが近づく。


 檻の中の人々は、こちらを見ない。

 見ても、すぐ目を伏せる。

 買い手に視線を合わせるなと教え込まれているのだろう。


 ミュールの足音が消える。

 彼女は俺たちの少し後ろで、壁の影を拾うように歩いていた。


「奥に書類部屋」


 ほとんど唇だけで言う。


「匂い?」


「紙、蝋、赤鎖。あと夜爪」


 セリアが前を向いたまま、盾の布を握り直す。


 イリスは袖の下で腕輪を回した。


「魔力錠があります。檻ではなく、奥の扉に」


「開けられるか」


「時間があれば」


「時間を作る」


 俺はロゼッタに視線を送る。


 彼女は頷き、案内役へ声をかけた。


「少し待ちなさい」


「何か?」


「この通路、暗すぎますわ。買い手に傷を確認させる気があるのかしら」


 案内役が困った顔をする。


「灯りを増やせ」


 俺は低く言った。


 できるだけ横柄に。


 案内役は俺の顔を見て、すぐに頭を下げた。


「ただいま」


 男が走っていく。


 数十秒。


 短い。

 だが、ミュールには十分だった。


 彼女が影に溶ける。


 イリスが奥の扉へ視線を向け、指先で小さな魔力の糸を伸ばす。


 ロゼッタは檻の中を見ているふりをしながら、通路の壁に貼られた管理札を読んでいた。


「番号、三系統ありますわ」


「意味は」


「通常競売、闘技用、特別搬入。ナギさんは特別搬入」


「特別」


「所有者を隠す時の分類です」


 胸の奥がざわつく。


 ナギはただ売られた剣奴ではない。

 誰かが、所有者を隠したまま黒杯へ流した。


 その時、奥の檻の前で足音が止まった。


 ナギがいた。


 闘場から戻され、手首の鎖を壁に繋がれている。

 肩に浅い傷がある。

 息は乱れていない。


 彼女は俺たちを見た。


 近くで見ると、その瞳は思ったより静かだった。

 諦めではない。

 燃え尽きてもいない。


 刃を鞘に収めたまま、抜く時を待っている目。


 ロゼッタが買い手の顔で言う。


「状態を確認します」


 案内役が戻ってきて、慌てて灯りを持ち上げた。


「接触は禁止です」


「見ればわかります」


 ナギの視線が、ロゼッタから俺へ移る。


 俺は何も言わない。


 言えない。


 ここで助けると言えば、彼女を危険にする。


 ナギの唇がわずかに動いた。


 声にはならない。


 だが、俺は読めた。


 助けか。


 いや。


 違う。


 彼女はこう言った。


 敵か。


 俺は短杖の頭を一度だけ叩いた。


 合図でも何でもない。

 ただ、何か返したかった。


 ナギの目が細くなる。


 ミュールが戻ってきた。

 袖の中に、小さく折った紙片がある。


「取った」


 声はほとんど息だった。


 ロゼッタの目が一瞬だけ光る。


 本物の帳簿の一部。


 これで、黒杯と赤鎖のつながりを示せるかもしれない。


 だが、すぐに別の音が通路に響いた。


 上階からの足音。

 複数。

 武装した護衛の足音ではない。

 もっと堂々とした、通る道が開くことに慣れた足音。


 案内役が急に姿勢を正した。


「上客が到着されたようです」


 ロゼッタが扇子を閉じる。


「どなたかしら」


「王都からのお客様です」


 通路の奥に、金色の髪が見えた。


 俺の背筋が冷える。


 見間違えるはずがない。


 勇者アルベルト。


 彼は黒杯の支配人らしき男に案内され、こちらへ歩いてきていた。


 そして、檻の中のナギを見るより先に、俺を見た。


 アルベルトの口元が、ゆっくり歪む。


「やはりいたか、レオン」


 地下の空気が、急に狭くなった。



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