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第043話 闇闘技場への招待状

 翌日の夕方、俺は鏡の前で自分を見ていた。


 似合わない。


 まず、それが最初の感想だった。


 黒い外套。

 磨きすぎて光る靴。

 胸元には、安物ではないが本物の貴族には見えない金具。

 腰には剣ではなく、装飾の多い短杖。


 ロゼッタが選んだ「急に金を持った若主人」の衣装だ。


「背筋を伸ばしすぎですわ」


「伸ばすなと言われても」


「堂々としているのと、育ちが良さそうに見えるのは違います。もっと雑に」


「雑な堂々さとは」


「相手が道を譲って当然だと思って歩いてください」


 難しい。


 勇者パーティにいた頃、俺の仕事は道を譲ることだった。

 荷物を持ち、先に宿を取り、火を起こし、他人の顔色を読む。

 当然のように道を譲られる側の歩き方など、体に入っていない。


 ロゼッタはため息をついた。


「仕方ありません。喋らないでください」


「昨日も言われた」


「重要なので何度でも言います。貴方は黙っていると、少し危険な人に見えます。話すと善人が出ます」


 セリアが横で咳払いをした。


 彼女も装備を変えている。

 聖騎士らしい清潔な装いではなく、傷のある革鎧に外套。

 盾は布で包み、紋章を隠している。


「私は護衛でよいのだな」


「ええ。落ちぶれた騎士を金で買い戻した、という見え方にします」


「不快だが、役としては理解した」


 ミュールは影のような黒衣を着ていた。

 耳を隠すフードの下から、金色の瞳だけがのぞく。


「ミュールは?」


「危険な愛玩刃ですわ」


「変な名前」


「地下の人間は、そういう下品な呼び方を好みます。だから、こちらから先に下品な看板を出します」


 ミュールは少し考え、俺を見た。


「命令されてるふり?」


「できるか」


「嫌。でも、できる」


 短い答えだった。


 胸が痛む。


 ミュールは俺の顔を見て、尾を一度だけ揺らした。


「ふり。わかってる」


「合図を決めよう。嫌になったら、すぐ離れる」


「ん」


 イリスは魔導具師の助手に見えるよう、眼鏡をかけ、髪をまとめていた。

 腕輪は袖の下に隠している。


「私は、危険な魔導奴隷役ではないのですね」


「それは絶対にさせない」


 俺が即答すると、イリスは少し目を丸くした。


 ロゼッタが苦笑する。


「だから善人が漏れるのです」


「これは漏れていい」


「まあ、今回は同意しますわ」


 ロゼッタ自身は、見違えていた。


 修繕前の屋敷で泥をかぶっていた令嬢ではない。

 中古のドレスを整え、足りない装飾を借り物の金具で補い、首元に母の形見だという小さな飾りをつけている。


 派手ではない。

 だが、目を引く。


 彼女は「没落した令嬢」ではなく、「若主人の財布を握る女主人」に見えた。


「ロゼッタ」


「何ですの」


「無理をしていないか」


「しています」


 即答だった。


「ですが、必要な無理です。私にできる戦いを、私がやるだけですわ」


 それ以上、何も言えなかった。


 黒杯闘技場への入口は、街の南にある古い酒場の地下にあった。


 表向きは、傭兵と商人が集まる騒がしい店。

 酒の匂い。

 焼けた肉の匂い。

 汗と煙草と安い香水。


 その奥に、赤い布で仕切られた通路がある。


 ロゼッタが黒杯の札を出すと、番人の目が細くなった。


「見ねえ顔だ」


「新しい顔だから、金を落とせますの」


 ロゼッタは微笑んだ。


 番人は俺を見た。

 セリアを見て、ミュールを見て、イリスを見た。

 最後に、またロゼッタを見る。


「ずいぶん癖のある連れだ」


「癖のない商品は、表で買えますわ」


 俺は黙っていた。


 余計なことを言わない。

 相手を見下ろす。

 短杖の頭を指で叩く。


 自分でも嫌になる演技だった。


 だが、番人は納得したように笑った。


「いい趣味だ。下へどうぞ」


 赤い布の奥には、石の階段があった。


 一段降りるごとに、空気が変わる。


 酒場の喧騒が遠ざかり、代わりに低い歓声が近づく。

 鉄の匂い。

 薬の匂い。

 古い血の匂い。


 ミュールの耳がフードの下で伏せた。


 俺は歩調を緩める。


 だが、ミュールは首を横に振った。


「行ける」


 セリアの手が盾の布に触れる。

 イリスの指が袖の下の腕輪を押さえる。


 ロゼッタだけは、笑顔を崩さない。


 地下の扉が開いた。


 黒杯闘技場。


 それは、想像していたより広かった。


 円形の闘技場を囲む観覧席。

 上段には個室。

 下段には粗い木の席。

 中央には砂を敷いた闘場。

 壁際には檻。


 檻。


 檻。


 檻。


 昨夜、捕らえた男が言った「百ある」という言葉が、誇張ではないとわかった。


 人がいた。


 剣を持たされた者。

 鎖をつけられた者。

 薬で目が濁った者。

 何も持たず、ただ座っている者。


 観客は笑っている。


 誰かが賭け札を振り、誰かが酒をこぼし、誰かが檻の中の人間を品定めしている。


 胃の奥が冷える。


 怒りはある。

 だが、ここで怒鳴れば終わる。


 ロゼッタが俺の袖を軽く引いた。


「顔」


 小声だった。


 俺は息を吐き、表情を殺す。


 若主人。

 下品な金持ち。

 奴隷を買い集める男。


 そう見せる。


 それが、ここを壊すための最初の鍵だ。


 係員が近づいてきた。


「初めてのお客様ですね。競りも観戦も可能です。今夜の目玉は、東方の剣奴。なかなかの品ですよ」


 セリアの肩がわずかに動く。


 俺は黙ったまま、ロゼッタに視線を向ける。


 ロゼッタが扇子を広げた。


「品が良ければ買います。ですが、先に帳面を見せていただけるかしら。信用できない市場で財布は開けません」


 係員の笑顔が少し固まった。


「帳面、ですか」


「搬入元、負傷歴、所有権の移転状況。高い買い物ですもの。まさか、口上だけで買わせるおつもり?」


 係員は迷った。


 そこで、ロゼッタは小さな革袋を取り出し、重そうに鳴らした。


 中身のほとんどは銀貨だ。

 金貨は少ない。

 だが、音は派手に作ってある。


 係員の目が変わる。


「上へ確認してまいります」


 男が去る。


 ロゼッタは扇子の陰で言った。


「食いつきました」


「帳簿まで届くか」


「向こうが本物の帳簿を見せるとは思いません。ですが、偽物を持ってくれば、偽物の癖がわかります」


「癖?」


「嘘にも筆跡がありますわ」


 頼もしい。


 そして怖い。


 俺たちは案内された席に座った。


 席と言っても、半分は見世物を近くで見るための場所だ。

 闘場の砂がよく見える。

 檻の中の顔も見える。


 ミュールが低く言う。


「奥の檻、夜爪の匂い」


「どれだ」


「三つ目。あと、下の通路にも」


 セリアが闘場の出入り口を確認する。


「正面から突破するなら、階段が狭い。観客を巻き込む」


「突破しない」


 俺は言った。


「まず証拠だ。助けるなら、出し方も考える」


 言いながら、自分に言い聞かせていた。


 今すぐ全部壊したい。


 でも、それでは足りない。


 ここから出した後、どこへ行くのか。

 誰が追ってくるのか。

 どの契約で縛られているのか。

 それを知らずに檻を開ければ、また別の檻へ戻される。


 ロゼッタの言葉が、胸の中で重く響く。


 助けるだけでは、人は生きられない。


 闘場の灯りが落ちた。


 歓声が大きくなる。


 司会者らしき男が中央へ出る。

 赤い上着。

 白い手袋。

 作り物の笑顔。


「今宵の黒杯へようこそ。血ではなく技を。命ではなく価値を。皆さまの財布が震える夜を始めましょう」


 最低の口上だった。


 それでも観客は湧いた。


 最初の試合が終わり、二つ目の競りが終わる。

 薬で鈍らされた男が、安い値で買われていった。


 俺の爪が手のひらに食い込む。


 その時、係員が戻ってきた。


 薄い帳面を持っている。


「確認用の写しです」


 ロゼッタが受け取る。


 一瞬だけ、彼女の目が鋭くなった。


「どうした」


「この帳面、急いで作られています」


「偽物か」


「ええ。でも、良い偽物です。つまり、本物が近くにあります」


 その言葉と同時に、司会者の声が闘場へ響いた。


「さて、お待たせいたしました。今宵の目玉。東方の剣奴」


 鉄の扉が開く。


 闘場の奥から、一人の女が歩いてきた。


 黒髪。

 切れ長の目。

 東方風の薄い衣の上に、傷だらけの軽鎧。

 手首には鎖。

 首には奴隷首輪。


 だが、背筋は折れていない。


 彼女は観客を見なかった。

 司会者も見なかった。


 ただ、闘場の中央に立ち、腰に差された細い剣へ指を添えた。


「名はナギ」


 司会者が高らかに叫ぶ。


「一門を失い、主を失い、それでも剣だけは折れなかった女。今夜、この刃の値を決めていただきましょう」


 ナギの目が、ふとこちらを向いた。


 一瞬だけ、視線が合う。


 その瞳には、怯えよりも先に、問いがあった。


 斬るべき相手は誰か。


 助けを求めるのではなく、戦場を測る目。


 次の瞬間、闘場の反対側の扉が開いた。


 鎖につながれた魔獣が、低く唸りながら引き出される。


 司会者が笑った。


「では、ご覧ください。東方の剣が、どれほど美しく折れるのかを」


 ナギの指が、剣の柄を握った。


 俺は立ち上がりそうになる膝を、必死に押さえた。


 まだ、動くな。


 黒杯の本当の夜が、始まった。



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