第042話 女主人の仮面
翌朝、解放者の家の門前には、縄で縛られた男たちが並んでいた。
赤鎖の回収屋たちは、夜明け前にギルドへ引き渡すことになった。
マルタは眠そうな顔で来たが、状況を聞くと一気に目が覚めたらしい。
「一晩で襲撃まで呼び込みましたか」
「呼んだつもりはありません」
「呼んだ相手は、だいたい皆さんそう言います」
返す言葉がない。
マルタは縛られた男たちを見て、ため息をついた。
「生きているのは助かります。取り調べができますから」
「殺していません」
セリアが言うと、マルタは頷いた。
「ええ。その判断は正しいです。相手が赤鎖なら、死体にした瞬間こちらが悪者にされます」
ロゼッタが黒杯闘技場の札を机に置いた。
赤い蝋の札。
裏に刻まれた黒い円。
昨夜から何度見ても、嫌な冷たさがある。
「これを持っていました」
マルタの表情がさらに硬くなる。
「黒杯ですか」
「ご存じですのね」
「噂だけです。辺境の表通りには出ません。奴隷商、傭兵崩れ、貴族の代理人、王都の物好きが集まる地下闘技場」
マルタは札に触れようとして、やめた。
「ギルドとして踏み込むには証拠が足りません」
「でしょうね」
ロゼッタはあっさり言った。
その落ち着きが、逆に怖い。
「だから、証拠を取りに行きます」
「今、何と?」
「赤鎖の帳簿です。黒杯が赤鎖とつながっているなら、闘技場には必ず搬入記録があります。人を檻に入れて戦わせるなら、出入りした数をごまかしきれません」
マルタが額を押さえる。
「それは、ギルド職員として聞かなかったことにしたい話です」
「聞いたことにしてください。後で必要になります」
ロゼッタは容赦ない。
マルタは俺を見た。
「止めないのですか」
「止めたい気持ちはあります」
「では」
「でも、必要なら止めません」
マルタは少しだけ目を細めた。
「レオンさん、だんだん面倒な人になっていますね」
「自覚はあります」
俺たちは食堂へ戻った。
トマは暖炉のそばで、干したパンを小さくちぎって食べている。
昨夜より顔色は少しいい。
だが、門の方から男たちの声が聞こえるたび、指が止まる。
ミュールは窓際に座り、外を見ていた。
「赤鎖、また来る」
「だろうな」
「次は、もっと静かに来る」
「対策がいるな」
「屋根、まだ穴ある。あそこから入られる」
セリアが即座に木片へ印をつける。
「ガレスに補強を頼む。だが、完全に塞ぐか」
「ひとつ残す」
ミュールが言う。
「入ってくる道が一つなら、待てる」
セリアは少し考え、頷いた。
「罠ではなく、迎撃点か」
「そう」
二人が当然のように防衛線を組んでいる。
イリスは地下室の魔法陣の上に紙を広げていた。
壊れた線、眠らせた線、生きている線を色分けしている。
「記録転送の行き先は、おそらく街の南側です。魔力の流れが地下水路に沿っています」
「黒杯も南か」
「可能性はあります。地下に作るなら、水路跡は使いやすいので」
点がつながっていく。
奴隷市場。
赤鎖。
夜爪。
魔塔。
王都の貴族。
そして黒杯闘技場。
ひとつひとつは別の悪意に見えた。
だが、裏で金と契約と人間が流れている。
ロゼッタは食堂の机に、真新しい帳簿を三冊並べた。
「今日から、解放者の家の帳簿を正式に分けます」
「三冊も?」
「少ないくらいです。一冊目は生活費。二冊目は保護記録。三冊目は敵対組織の証拠台帳」
「敵対組織の証拠台帳」
「ええ。喧嘩を売られたので、買います」
口調は優雅だが、目は笑っていない。
ロゼッタは昨夜の襲撃者から奪った札、留め具、笛、赤鎖の小印を順に並べ、番号を振った。
「証拠は、拾っただけでは石ころです。日時、場所、持ち主、発見者、関係者の証言。全部を紐づけて初めて、武器になります」
俺は感心しながら聞いていた。
その視線に気づいたのか、ロゼッタが顔を上げる。
「何ですの」
「頼もしいと思って」
「当然です。私はこれで、一度家を失っていますから」
空気が止まった。
ロゼッタは羽根ペンを置く。
彼女の横顔から、いつもの皮肉が少しだけ消えた。
「フォルン商会は、荷馬車の数も、仕入れ値も、倉庫の鍵も、全部帳簿に残していました。父は善良でした。ですが、善良すぎた。相手が契約書に毒を混ぜるとは思わなかった」
彼女は自分の指先を見る。
「一枚目の契約で支払い期日をずらされ、二枚目で担保を増やされ、三枚目で責任者を父個人にされました。気づいた時には、商会の負債が父の首にかかっていた」
「それで、債務奴隷に」
「ええ。父は先に倒れました。母は髪飾りを売って、私を逃がそうとした。でも、逃げる先にも契約書がありました」
ロゼッタは小さく笑った。
笑いというより、傷口を指でなぞる音に近い。
「だから私は学びました。善意で帳簿は守れない。悔しさだけでも、契約書には勝てない。相手の言葉を、相手の紙で縛り返す必要がある」
セリアが静かに言う。
「それが、君の剣か」
「剣ほど綺麗ではありませんわ」
ロゼッタは黒杯の札をつまむ。
「でも、人を檻から出すには、鍵穴の形を知らなければならない」
俺は彼女に向き直った。
「ロゼッタ」
「何ですの」
「解放者の家の会計と契約、任せてもいいか」
ロゼッタは瞬きをした。
ほんの少しだけ、隙が見えた。
「よろしいのですか。私は債務奴隷として買われた女ですわ」
「君は、自分の価値を自分で示した」
「失敗すれば、この家ごと傾きます」
「なら、一緒に立て直す」
彼女はしばらく黙った。
やがて、ゆっくりと立ち上がる。
汚れの残るドレスの裾を摘み、優雅に一礼した。
「承りました。解放者の家の会計、契約、交渉、証拠台帳。すべて私が管理します」
「頼む」
「ただし」
ロゼッタの目が戻った。
いつもの、少し意地悪な光。
「今後、無計画な善意で財布を開く時は、私の許可を取ってください」
「努力します」
「努力ではなく、誓約です」
セリアが小さく笑った。
ミュールの尾が一度だけ揺れた。
イリスは真面目に「誓約文を作りますか」と言い、ロゼッタに「冗談ですわ」と止められた。
その空気が、家の中に少しだけ温度を戻した。
けれど、温度が戻ったところで、現実の数字は優しくない。
ロゼッタは生活費の帳簿を開き、俺の前に置いた。
「まず、黒杯に入るには見せ金が必要です」
「見せ金」
「本当に全額使う必要はありません。ただし、貧しい顔をした者は入口で止められます。ああいう場所は、品性は問いませんが、財布の厚みだけは見ます」
俺は残金を思い浮かべた。
セリアの装備。
ミュールの薬。
イリスの腕輪。
屋敷の契約。
修繕費。
保護対象の食費。
財布の中身は、考えただけで寒くなる。
「足りるか」
「足りませんわ」
即答だった。
「では」
「だから、足りているように見せます」
ロゼッタは別の紙を出した。
そこには、必要な品が並んでいる。
良い外套。
磨いた靴。
金具のついた杖。
護衛の装備を整える油。
安物に見えない封筒。
「成金に必要なのは、金貨の山ではありません。金貨の山を持っていると相手に思わせる雑さです」
「雑さ」
「本物の大商人は慎重です。ですが、急に金を得た若主人は、財布の紐が緩い。地下闘技場が好む客は、後者です」
セリアが少し眉を寄せる。
「つまり、レオンに合わない役をさせるのか」
「ええ。合わないからこそ、私が横でしゃべります」
ロゼッタは俺を見て、にっこり笑った。
「レオンさんは、無口で少し不機嫌そうにしていてください。余計なことを言うと、善人が漏れます」
「善人は漏れるものなのか」
「貴方の場合、かなり漏れます」
ミュールが小さく頷いた。
「匂いも漏れる」
「そこは助けてくれ」
「頑張る」
真面目に返され、余計に不安になった。
昼過ぎ、ガレスが修繕材を運び込んできた。
同時に、街の噂も持ってきた。
「黒杯が明日の夜に大きな興行をやるらしい」
「目玉商品は東方の剣奴、か」
俺が言うと、ガレスは眉を上げた。
「耳が早いな」
「昨夜、逃げた男が叫んだ」
「なら本当だ。妙な買い手が王都から入ってる。剣奴は女だそうだ。東方の一門を潰されて、最後に残った腕利きだとか」
ミュールが低く言う。
「戦えるなら、高く売れる」
セリアの手が盾の縁を掴む。
「見世物にするつもりか」
「黒杯とはそういう場所ですわ」
ロゼッタは立ち上がった。
「ですから、正面から助けに行くのではなく、買いに行きます」
「買う?」
「ええ。悪趣味な金持ちの買い手として入る。黒杯は外面の礼儀を重んじます。金を落とす客には扉を開く」
「誰がその役を」
聞くまでもなかった。
ロゼッタは汚れたドレスの襟を直し、優雅に微笑んだ。
「私が女主人になります」
「危険だ」
「承知しています」
「君が顔を知られていたら」
「没落したフォルン商会の娘を、誰も上客とは思いません。だからこそ使えます」
ロゼッタは黒杯の札を指で弾いた。
「奴隷を買い集める成金の若主人。傷物の聖騎士、獣人の刃、暴走魔導師を従えた危険人物。そして、その財布を握る女主人」
俺は苦い顔をする。
「噂が最悪だな」
「最悪の噂ほど、地下では通行証になります」
彼女は笑った。
それは、仮面をかぶる前の顔だった。
「黒杯に入り、赤鎖の帳簿を一冊盗みます。そして可能なら、東方の剣奴を競り落とす」
トマが暖炉のそばで息を呑んだ。
ミュールが窓の外を見る。
セリアが盾を立てる。
イリスの腕輪が静かに光る。
俺は黒杯の札を手に取った。
冷たい。
だが、扉は開いた。
次に向かう場所は、檻が百あるという地下。
ロゼッタは髪を結い直し、微笑みを作った。
「では、皆さま。明日の夜までに、下品な金持ちに見える練習を始めましょう」
その仮面の奥で、彼女の目だけが、燃えるように冷えていた。
ロゼッタは笑っていても、黒杯の札を見た目は冷えていました。
次に向かうのは、檻が百ある地下闘技場です。
下品な金持ちに見える練習から、潜入作戦が始まります。
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