第040話 解放者の家
解放者の家、始動回です。
ロゼッタの契約、マルタの実務、仲間たちの役割で、ようやく拠点が形になり始めます。
屋敷を借りる手続きは、その日のうちに終わった。
正確には、ロゼッタとマルタが終わらせた。
俺は横で印を押す場所を示され、名前を書いただけだ。
契約書は三枚。
ギルド管理物件の短期賃貸契約。
修繕費の分割支払い契約。
保護対象受け入れに関する暫定覚書。
どれも、俺一人なら半分も読めなかったと思う。
「危険ですわね」
ロゼッタが言った。
「何が」
「読めない契約書に署名する手つきが自然すぎます」
「今は君とマルタさんが読んでくれた」
「だからこそ、読めるようになってください」
彼女は容赦ない。
マルタも頷く。
「最低限、金額、期間、解除条件、責任範囲は読んでください」
「勉強します」
「今日からです」
こうして俺の仕事に、契約書の読み方が追加された。
ロゼッタは、契約書の端に爪を置いた。
「この屋敷は、ただ借りればよい物件ではありませんわ」
「どういう意味だ」
「赤鎖が勝手に使っていた痕跡がある。なら、向こうは必ず言います。自分たちの管理物件だった、預けていた荷物がある、先に占有していた、と」
荷物。
その言い方に、胸の奥が冷える。
地下室で見つけた少年の顔が浮かんだ。
トマは荷物ではない。
商品でもない。
だが、赤鎖はそう呼ぶ。
「だから先に紙で押さえます。ギルド管理物件として、賃貸契約を結ぶ。修繕記録を残す。保護対象の覚書を作る。誰がいつ入ったのか、誰が何を直したのか、全部こちらの記録にします」
「記録が盾になるのか」
「盾にも剣にもなりますわ。ただし、紙の剣は遅い。だから、セリアさんの盾とミュールさんの耳とイリスさんの魔術も必要です」
セリアが静かに頷いた。
「契約が時間を稼ぎ、私たちが時間を守る、ということか」
「ええ。力だけでは、後で悪者にされます。紙だけでは、今夜殺されます。両方必要です」
ロゼッタの声には、実感があった。
フォルン商会を潰された彼女は、紙の恐ろしさを知っている。
そして、紙だけでは守れなかったものも知っている。
「俺たちは、両方足りないな」
「足りないから集めるのです」
ロゼッタは当然のように言った。
「足りないものを数えられるなら、まだ破産ではありません」
屋敷の修繕は翌朝から始まった。
ガレスが職人を二人連れてきた。
ギルドからは下働きの少年たちが手伝いに来た。
マルタは「業務外です」と言いながら、必要物資の一覧を置いていった。
まずは割れた窓を塞いだ。
風が通るのは悪くない。
だが、逃げ込んだ人間が夜に震えるほどの隙間は、家ではない。
次に、暖炉の煤を落とした。
古い灰の中から、小さな金具がいくつか出てきた。
奴隷首輪に使う留め具に似ていて、セリアの表情が固くなる。
「証拠として残す」
ロゼッタが布で包み、帳簿とは別の箱に入れた。
「捨てないのか」
「捨てた瞬間、なかったことにされます」
彼女は短く答えた。
なかったことにされる。
ここで誰かが泣いたことも。
ここで誰かが名前を奪われかけたことも。
誰かがそれを商売にしていたことも。
だから、残す。
優しさだけではなく、怒りも形にして残す。
セリアは正面門と裏口の補強を担当した。
盾を持つ彼女は、建物を見る時も守る場所を探す。
「ここに灯りを置く。夜に影ができすぎる」
「この廊下は荷物を置かない。逃げ道になる」
「子供や怪我人は二階奥ではなく、一階の暖炉に近い部屋がよい」
騎士の視点だ。
ミュールは屋根裏、塀、抜け道、庭の茂みを調べていた。
「ここ、入れる」
「塞ぐか」
「半分塞ぐ。味方だけ通れるようにする」
「味方だけ」
「ミュールが知ってる道にする」
頼もしいような、怖いような。
イリスは地下室に残った魔法陣を調べている。
腕輪はまだ試作一号だ。
無理はさせられない。
だが、彼女は自分から言った。
「危険なところだけ印をつけます。触らなければ大丈夫な線と、消したほうがいい線があります」
「無理は」
「無理かどうかは、一緒に判断します」
また言われた。
彼女は少しだけ強くなっている。
地下室の魔法陣には、三種類の線があった。
イリスは床に膝をつき、指先を浮かせたまま説明する。
「これは逃亡防止。これは魔力感知。こちらは、おそらく記録転送です」
「記録転送?」
「誰かがここに入ると、別の場所に知らせる仕組みです。今は半分壊れていますが、完全には死んでいません」
ミュールの耳がぴくりと動いた。
「じゃあ、赤鎖はここをまだ見てる?」
「可能性はあります」
食堂にいた空気が少し重くなった。
俺たちは隠れ家を見つけたつもりでいた。
だが、ここは元々、相手の隠し場所だった。
「消せるか」
「消せます。ただ、乱暴に消すと、向こうに異常として伝わるかもしれません」
イリスは腕輪を見た。
「だから、眠らせます。壊れたふりをさせます」
「魔法陣にもふりをさせるのか」
「はい。魔術にも嘘はあります」
ミュールが少しだけ感心した顔をした。
「匂いのない嘘」
「そこが困るところです」
二人の会話は短い。
けれど、役割が噛み合い始めている。
俺はその様子を見て、勇者パーティ時代を思い出した。
あの頃、俺は穴を埋める側だった。
誰かの見落とし、誰かの準備不足、誰かの苛立ち。
空いたところに走って、叱られないように塞いでいた。
今は違う。
足りないところを、一人で抱え込まなくていい。
誰かが自分の得意なもので支え、別の誰かがその支えを受ける。
それが、こんなにも静かに息をしやすいものだとは知らなかった。
ロゼッタは食堂の一角を帳簿机にした。
汚れたドレスのまま、髪を紐でまとめ、羽根ペンを走らせる。
優雅さは残っている。
だが、働き方は容赦ない。
「食料費、修繕費、医療費、寝具。全部分けます。混ぜると破滅しますわ」
「混ぜると破滅」
「ええ。善意の支出は、特に混ざりやすい」
彼女は俺を見た。
「誰かを助けたい気持ちで財布を開くのは悪くありません。ですが、全部同じ財布から出せば、最後に全員が飢えます」
言葉が刺さる。
でも、その刺さり方にも慣れてきた。
ロゼッタは俺を折るために言っているのではない。
続けるために言っている。
トマは、最初の保護対象として一階の暖炉近くの部屋に寝かされた。
まだ怯えている。
食事も少ししか食べない。
誰かが扉の前を通るたび、肩を震わせる。
ミュールが時々、部屋の前に座っていた。
「見張りか」
俺が聞くと、彼女は首を横に振る。
「音を少なくしてる」
「音?」
「廊下の足音。怖いみたい」
ミュールは扉の前に古い布を敷いていた。
足音が響かないように。
不器用な優しさだった。
セリアはトマに剣を見せないようにしている。
イリスは熱い魔力を近づけないよう、部屋の外で腕輪を調整している。
ロゼッタは保護記録を作り、トマの名前を帳簿に書いた。
存在しない商品ではなく、保護された人間として。
その一行を見た時、俺は少し息を詰まらせた。
トマは字が読めなかった。
だからロゼッタは、帳簿を彼の前に置き、ゆっくり読み上げた。
「保護対象、トマ。年齢、おそらく十前後。発見場所、旧ギルド管理屋敷地下室。状態、衰弱、恐怖、首輪なし。所有者主張、現時点で確認されず」
トマは唇を噛んだ。
「おれ、商品じゃない?」
小さな声だった。
誰かに聞くというより、自分で確かめる声。
ロゼッタは羽根ペンを置いた。
「少なくとも、この帳簿では違います」
「帳簿で違ったら、違うの?」
「帳簿だけでは足りません。だから、ここにいる全員で違うことにします」
トマは俺を見た。
セリアを見て、ミュールを見て、イリスを見て、最後にロゼッタを見た。
まだ信じてはいない。
当然だ。
だが、スープの椀を両手で持つ力が、ほんの少しだけ緩んだ。
「じゃあ、名前、書いて」
「もう書きましたわ」
「もう一回」
ロゼッタは何も言わず、新しい紙を出した。
大きく、丁寧に書く。
トマ。
少年はその二文字を、まるで火のついた暖炉を見るように眺めていた。
「レオンさん」
ロゼッタが言う。
「名前が必要です」
「トマの?」
「違います。この場所の名前です」
俺は食堂を見回した。
まだ壁は汚れている。
床も傷だらけだ。
屋根の一部は修理中。
地下室には危険な刻印が残っている。
名前をつけるには、早すぎる気もした。
「保護施設」
俺が言うと、ロゼッタが即座に首を横へ振った。
「却下です」
「早い」
「保護施設では、来た人が保護される側に固定されます。施しの匂いが強い」
「では何がいい」
セリアが尋ねる。
ロゼッタは少し考えた。
「ここは、誰かを所有する場所ではない。けれど、ただ逃げ込むだけでもない。次を選ぶための場所です」
イリスが小さく言う。
「選ぶための場所」
ミュールが扉の前から顔を出す。
「檻じゃない場所」
セリアが頷く。
「命令ではなく、自分の足で出ていける場所」
俺はその言葉を聞いて、胸の中で何かが決まるのを感じた。
「解放者の家」
口に出すと、少し大げさに聞こえた。
だが、誰も笑わなかった。
ロゼッタは目を細める。
「悪くありませんわ。看板にするには少し青いですが、理念としては十分です」
「青いのか」
「ええ」
彼女は微笑む。
「ですが、青い旗ほど遠くから見えることもあります」
その日の夕方、ガレスが余った板に文字を彫った。
解放者の家。
まだ仮の看板だ。
歪んでいるし、板も古い。
それでも門の内側に立てると、屋敷がただの空き家ではなくなった気がした。
夜。
俺たちは食堂で簡単な食事を取った。
豆の煮込み。
固いパン。
少しの干し肉。
豪華ではない。
だが、同じ卓で食べるには十分だった。
トマも部屋から出てきて、食堂の隅で少しだけスープを飲んだ。
それだけで、今日の修繕の疲れが少し軽くなる。
だが、平穏は長く続かなかった。
食後、ミュールの耳が立った。
「外」
セリアがすぐに盾を取る。
「何人だ」
「四人。いや、六人。門の外と裏」
イリスの腕輪が光る。
ロゼッタは帳簿を閉じ、すぐに保護記録を抱えた。
「赤鎖ですか」
「匂い、近い」
庭の外で、男の声がした。
「ここに預けた商品があるはずだ。返してもらおうか」
トマの顔が真っ白になる。
俺は立ち上がった。
解放者の家。
その名前を掲げた夜に、最初の防衛戦が始まろうとしていた。
解放者の家は、保護するためだけの檻ではなく、自分で次を選ぶための場所です。
その名前を掲げた夜、さっそく最初の防衛戦が始まろうとしています。
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