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第039話 辺境の空き屋敷

拠点候補となる辺境の空き屋敷へ向かいます。

ここから、救った者たちが一時的に身を寄せる場所作りが始まります。

 屋敷の玄関扉は、押すだけでは開かなかった。


 錆びた蝶番。

 歪んだ木枠。

 内側から何かが噛んでいるような抵抗。


 ガレスが前へ出て、扉を一瞥した。


「蹴るなよ」


「まだ何もしていない」


「顔が蹴る顔だった」


 俺は足を下ろした。


 ガレスは工具を差し込み、蝶番の錆を削る。

 少し力を入れると、扉は低い悲鳴のような音を立てて開いた。


 中から、古い空気が流れ出す。


 埃。

 乾いた木。

 湿った石。

 そして、かすかな魔力の匂い。


 イリスが腕輪に触れた。


「地下からです」


「先に一階を確認する」


 セリアが言う。


「焦って地下へ降りれば、上を取られる」


「同感」


 ミュールはもう天井の梁を見ている。


 屋敷の一階は広かった。


 玄関ホール。

 応接室。

 食堂。

 厨房。

 使用人用の小部屋。

 奥には倉庫と、壊れかけた裏口。


 壁紙は剥がれ、床板は軋む。

 窓の一部は割れている。

 だが、思ったより骨組みはしっかりしていた。


 二階には客室が六つあった。


 扉が外れかけている部屋。

 雨漏りで床が染みている部屋。

 窓から庭が見える部屋。

 壁一面に本棚だけが残っている小さな書斎。


 どれも今すぐ使える状態ではない。


 それでも、扉を直し、寝台を入れ、窓に布をかければ、人が眠れる部屋になる。


 セリアは廊下の幅を見ていた。


「負傷者を運ぶには少し狭い。だが、担架一つなら通る」


 ミュールは天井裏へ消え、少しして戻ってきた。


「屋根裏、通れる。隠れ場所にもなる。でも、埃がすごい」


「掃除ですね」


 イリスが言うと、ミュールは耳を伏せた。


「埃、嫌い」


「私もです」


 イリスが真面目に同意する。


 ロゼッタは書斎の本棚を見て、指先で埃を払った。


「帳簿室にできますわ。湿気対策は必要ですが、書類を分類する棚が最初からあるのは大きいです」


「もう使い道を決めているのか」


「決めなければ、屋敷はただの広い廃墟です」


 彼女は廊下の突き当たりの窓を開けようとした。

 途中で枠が軋む。


「ここは後回し。先に寝室、厨房、井戸、裏口。人が生きる順番で直します」


 人が生きる順番。


 その言葉が、妙にロゼッタらしかった。


 きらびやかな屋敷に戻すのではない。

 人が眠り、食べ、逃げ、働き、次を選ぶための順番で直す。


 俺には、どこから手をつけるべきかも見えていなかった。


 ロゼッタには、それが見えている。


「直せる」


 ガレスが言った。


「安くはねえがな」


 ロゼッタはすぐに反応する。


「分割払いにしましょう」


「誰が受けると言った」


「受けますわ。ガレス様は、武器だけでなく使い手の帰る場所にも興味がおありですもの」


 ガレスが黙った。


 図星らしい。


「口の回る女だ」


「褒め言葉として受け取ります」


 ロゼッタは食堂の窓を開けようとして、途中で止めた。

 窓枠が腐りかけている。


「ここは食堂に戻せます。大人数で食べられる場所は必要です」


「大人数」


 俺は部屋を見回す。


 まだ誰もいない。

 埃だらけで、椅子も壊れている。


 だが、想像はできた。


 首輪を外したばかりの誰か。

 まだ怯えている子供。

 怪我をした冒険者。

 行き場のない元奴隷。


 そういう人たちが、同じ卓で温かいものを食べる光景。


 胸の奥が、少し熱くなる。


「レオンさん」


 ロゼッタが言った。


「理想に浸るのは後です。まず雨漏り箇所を数えてください」


「はい」


「返事が素直ですわね」


「反論できない」


 セリアは外周を確認していた。


「正面門は重いが、修理すれば防衛線になる。裏口は弱い。ここは補強が必要だ」


 ミュールが裏口の床にしゃがむ。


「古い足跡」


「誰か住んでいるのか」


「違う。出入りしてる。小さい足。たぶん子供か、痩せた人」


 マルタが眉を寄せる。


「浮浪者が入り込んでいた可能性はあります」


「今もいる?」


 ミュールは耳を澄ませた。


「今は、下」


 全員の視線が地下への扉へ向いた。


 重い木扉。

 古い鉄の取っ手。

 その隙間から、冷たい空気が漏れている。


 イリスの腕輪が薄く光った。


「魔法陣も下です」


 セリアが盾を構える。


「降りよう」


 地下階段は狭かった。

 石造りで、湿っている。

 足音が反響し、どこから音が来ているのかわかりにくい。


 先頭はセリア。

 次にミュール。

 イリス、俺、ロゼッタ、マルタ。

 ガレスは最後尾で工具袋を持っている。


「私は戦えませんわよ」


 ロゼッタが小声で言う。


「知っている」


「ですが、悲鳴は上品に上げます」


「上げないで済むようにしたい」


 ミュールが振り返らずに言った。


「静かに」


 地下室は広かった。


 元は貯蔵庫だったのだろう。

 壁際には空の樽。

 壊れた棚。

 床には古い魔法陣が刻まれている。


 その中央に、痩せた少年がいた。


 年は十代半ばだろう。

 首に粗末な金属輪。

 口元には布。

 手足を縄で縛られ、床に座り込んでいる。


 彼はこちらを見ると、怯えて後ずさった。


 だが、背後は壁だ。


「待ってくれ」


 俺はすぐに手を上げた。


「助けに来た」


 少年は首を振る。


 声が出ない。

 布で塞がれているだけではない。

 喉元の金属輪に、小さな沈黙の刻印がある。


「赤鎖か」


 セリアの声が冷える。


 ロゼッタが近づこうとして、ミュールに止められた。


「罠」


 ミュールが床を指す。


 少年の周囲の魔法陣が、薄く光っている。


 イリスが青ざめた。


「踏むと、首輪へ信号が返ります。逃亡防止陣です」


「解除できるか」


「できます。でも、ゆっくり」


 少年の目が揺れる。


 怯え。

 疑い。

 それでも、ほんの少しの期待。


 俺は膝をついた。


「命令はしない。今から君の周りの陣を止める。痛かったら手を上げてくれ」


 少年は動かない。


 イリスが腕輪へ触れる。


「私が外側の流れを抑えます」


「頼む」


 彼女の紫の光が床へ落ちる。

 魔法陣の光が少しずつ弱まる。


 ミュールが縄を切る。

 セリアが盾を構え、万一の反応に備える。


 ロゼッタは少年の首輪を見ていた。


「この金属輪、正規品ではありません。市場に出す前の仮拘束です」


「つまり」


「誰かがこの屋敷を、保管場所として使っています」


 マルタの顔色が変わる。


「ギルド管理物件を?」


「鍵の管理が漏れているか、別の抜け道があるか」


 ミュールが壁を指した。


「あそこ。風」


 棚の裏に、細い隙間があった。

 人一人が通れるかどうかの抜け道。


 赤鎖か。

 別の業者か。

 どちらにせよ、屋敷は空ではなかった。


 イリスが額に汗を浮かべる。


「止めました」


 ミュールが少年の口布を外す。


 少年は咳き込み、かすれた声で言った。


「戻さないで」


 最初の言葉がそれだった。


 俺は胸が痛くなる。


「戻さない」


 少年は信じていない顔をしている。

 それでも、ミュールが縄を完全に切ると、床に崩れるように座り込んだ。


「名前は言えるか」


 俺が尋ねると、少年は喉を押さえた。


 声を出すのが怖いのか。

 それとも、沈黙の刻印の痛みが残っているのか。


 しばらくして、彼はかすれた声で答えた。


「トマ」


「トマ。ここへ連れてこられたのか」


 少年は頷く。


「市場に出す前に、ここで待てって。逃げたら喉が焼けるって」


 ロゼッタの顔から表情が消えた。


「待機保管ですわね」


「何だそれは」


「競売に出す前、正規倉庫に置けない商品を一時的に隠すことです。帳簿に載せる前なら、存在しないことにできます」


 存在しない。


 人間に対して使う言葉ではない。


 だが、赤鎖なら使うのだろう。


 トマは俺たちの顔を見回した。


「売られるの?」


「売らない」


 俺が答えると、彼はすぐには信じなかった。


 当然だ。


 売る側は、売る直前まで優しい声を出すこともある。


 ロゼッタが膝をつき、視線の高さを合わせた。


「貴方を売る契約書は、まだ作られていません。だから、今ここでこちらが保護記録を先に作れば、赤鎖は貴方を正規商品だと主張しづらくなります」


 トマはぽかんとした。


 たぶん、半分もわかっていない。


 だが、ロゼッタは真剣だった。


「つまり、先に紙で居場所を作ります。貴方は今から、存在しない商品ではなく、保護されたトマという人間です」


 少年の目が揺れた。


 その言葉がどこまで届いたのかはわからない。


 けれど、彼は初めて少しだけ息を吐いた。


 ロゼッタは床の魔法陣を見下ろす。


「決まりですわね」


「何が」


「この屋敷、借りましょう」


 マルタが驚く。


「今のを見て?」


「今のを見たからです」


 ロゼッタの声は冷たい。


「赤鎖か、その周辺がここを勝手に使っている。なら、こちらが正式に借りれば、相手の隠し場所を一つ潰せます」


 セリアが頷く。


「同時に、保護場所になる」


「ええ」


 ロゼッタは少年を見る。


「最初の保護対象も、もういます」


 少年は怯えたまま、俺たちを見ている。


 まだ名前も知らない。

 事情もわからない。


 だが、ここにいる。


 助けるだけでは、人は生きられない。


 なら、ここを生きるための場所にする。


 俺は地下室の壁を見た。


 古い魔法陣。

 逃亡防止陣。

 抜け道。


 問題だらけだ。


 それでも。


「借りよう」


 俺は言った。


「ここを、檻じゃない場所にする」


 その時、地下室の奥の壁に刻まれた古い文字が、かすかに光った。


 奴隷首輪の文字に、よく似た形だった。



問題だらけの屋敷ですが、レオンはここを「檻じゃない場所」にすると決めました。

地下室に残る古い文字は、奴隷首輪とよく似ています。

次回、解放者の家が動き始めます。

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