第038話 助けるだけでは、人は生きられません
ロゼッタが、救出の先にある生活と運営の問題を突きつける回です。
助けたあとにどう生きるのか、物語の段階が一つ進みます。
ロゼッタが最初に要求したのは、宿ではなかった。
「帳簿です」
ギルドの会議室で、彼女はそう言った。
首の債務奴隷輪はまだ外れていない。
手首の鎖も残っている。
それでも彼女は、椅子に座る姿勢だけで部屋の主導権を握っていた。
「帳簿?」
「ええ。貴方たちの収入、支出、借入、前借り、装備維持費、薬代、食費、宿代。全部です」
俺はマルタを見る。
マルタは黙って帳面を出した。
「あるのか」
「ギルドで把握している範囲だけです。個人財布までは知りません」
ロゼッタはそれを受け取り、頁をめくる。
速い。
指先が紙の上を滑り、目が数字を拾っていく。
しばらくして、彼女は帳面を閉じた。
「破綻していますわ」
「昨日も似たようなことを聞いた」
「昨日より確信しました」
容赦がない。
セリアが腕を組む。
「具体的には」
「収入が不安定。支出は増加傾向。装備更新と医療費が重い。今後、魔塔と赤鎖への対抗費、証拠集め、移動費も増えます。さらに、レオンさんは今後も人を買い戻す可能性が高い」
彼女は俺を見る。
「否定できます?」
「できない」
「でしょうね」
ミュールが小さく言う。
「レオン、檻を見ると買う」
「毎回買えるわけじゃない」
「でも、考える」
否定できない。
イリスが遠慮がちに手を上げた。
「私は、腕輪の改良費も必要です」
「ええ。必要です。貴女が倒れれば、治療費はもっと高くつきます」
「そういう計算なんですね」
「生きるための計算ですわ」
ロゼッタはそこで、少しだけ声を低くした。
「レオンさん。貴方は買い戻した人をどうするおつもりですか」
「奴隷契約を解いて、本人が選べるようにする」
「その後は」
「その後?」
「寝床は。食事は。仕事は。身分証明は。怪我をしていた場合の治療費は。追手が来た場合の避難先は。読み書きができない者の手続きは。故郷へ帰れない者はどこへ行くのです」
言葉が一つずつ、机に置かれていく。
重い。
俺はすぐに答えられなかった。
セリアも黙っている。
ミュールは耳を伏せた。
イリスは腕輪を押さえたまま、視線を落としている。
ロゼッタは続けた。
「買い戻して首輪を外す。それは尊いことですわ。ですが、それだけでは人は生きられません」
彼女の指が、帳面を叩く。
「寝床がなければ、路地へ戻る。食事がなければ、安い仕事を受ける。身分証明がなければ、また違法労働に落ちる。追手から逃げる場所がなければ、結局赤鎖へ戻される」
俺は息を吐いた。
「助けるだけでは、人は生きられない」
「ええ」
ロゼッタは頷いた。
「だから、場所が必要です」
その言葉で、部屋の空気が変わった。
「場所」
セリアが繰り返す。
「一時的に身を寄せられる場所。治療、食事、身分手続き、仕事探し、証言保護。全部を宿の一室でやるのは無理です」
「宿では駄目なのか」
俺が聞くと、ロゼッタは即座に首を横へ振った。
「宿は客を泊める場所です。身元の曖昧な元奴隷を長く置けば、宿側が赤鎖や役人に睨まれます。善意の宿主ほど、そこを突かれると弱い」
マルタも頷く。
「実際、昨日から問い合わせが増えています。レオンさんの部屋に何人いるのか、危険はないのか、奴隷を隠していないか」
「もう来ているのか」
「はい。噂が出てから早いです」
イリスが小さく肩を縮める。
「私のせいで」
「違いますわ」
ロゼッタが言った。
思ったよりも鋭い声だった。
「貴女のせいではありません。貴女を利用したい者たちが、貴女を理由にしているだけです。そこを間違えると、相手の契約書に自分で署名することになります」
イリスは目を見開いた。
ロゼッタは続ける。
「責任を引き受けることと、濡れ衣を着ることは違いますわ」
その言葉に、セリアが静かに頷いた。
「耳が痛いな」
「貴女にも覚えが?」
「大いにある」
ロゼッタは少しだけ目を細めた。
互いの傷を探るような沈黙。
だが、嫌なものではなかった。
ミュールが窓の外を見ている。
「宿、匂いが多い。人が多い。逃げ道も少ない」
「そういう問題もあります」
ロゼッタは頷いた。
「守るなら、出入りを管理できる場所が必要です。食料を置ける倉庫。怪我人を寝かせる部屋。書類を隠せる棚。子供や弱った者が夜に怯えず眠れる寝台」
彼女の声が、少しだけゆっくりになる。
「そして、働ける者が働ける場所」
「働く?」
「当たり前ですわ。助けられた人を、ずっと助けられる側に固定してはいけません。料理ができる者、洗濯ができる者、文字を覚えたい者、荷運びができる者。役割があれば、人は少しずつ顔を上げます」
その言葉には実感があった。
ロゼッタ自身が、役割を奪われた側だからだろう。
「ただ寝かせるだけでは、檻が部屋に変わるだけです」
会議室が静かになる。
俺はその言葉を忘れないようにした。
檻が部屋に変わるだけ。
命令しないこと。
首輪を外すこと。
それだけでは足りない。
選べるようにするには、選ぶための足場がいる。
それを用意しないまま自由だと言うのは、たぶん乱暴な優しさだ。
俺はまた一つ、自分の甘さを見つけた気がした。
ロゼッタは、それを数字で突きつけてくる。逃げ道のない正しさで。痛いが、今の俺には必要な痛みだった。
目を逸らせば、また誰かが檻へ戻る。それだけは、どうしても嫌だったからだ。
マルタが眼鏡を押し上げる。
「ギルドの保護室も限界があります。長期滞在はできません」
「候補はあるのか」
俺が聞くと、ロゼッタはマルタを見た。
マルタは少し嫌そうな顔をした。
「あります」
「あるんですね」
「ありますが、曰く付きです」
ロゼッタが笑う。
「曰く付きは安いですわ」
「商人の目ですね」
「褒め言葉として受け取ります」
マルタは帳面から別の紙を出した。
「ラグノール南東区に、古い屋敷があります。元は地方貴族の別邸でしたが、十年前に持ち主が亡くなり、相続争いで放置。現在はギルドが管理しています」
「なぜ借り手がいない」
セリアが問う。
「広すぎる。修繕費が高い。地下室に古い魔法陣が残っているという噂がある。夜に音がする。井戸が壊れている。あと、税の処理が面倒です」
理由が多い。
ミュールの耳が立った。
「夜に音」
「興味を持つところがそこか」
「罠かもしれない」
イリスは別のところに反応した。
「古い魔法陣」
「貴女もそこですか」
マルタが疲れた声を出す。
ロゼッタは紙を受け取り、すぐに言った。
「借りましょう」
「早い」
「条件が良いです。広い。安い。曰く付きなので競合がいない。地下室があるなら証拠保管にも使える。井戸は直せば資産です。税処理は私が見ます」
ガレスが会議室の入口で腕を組んでいた。
「修繕費はどうする」
「現物払い、分割、労務交換、ギルドへの保護事業名目の減免。使える手はあります」
「口が回る女だ」
「手も動きますわ」
ガレスは鼻を鳴らした。
「なら見に行くぞ。口だけなら、屋敷の床は直らねえ」
話は決まった。
午後、俺たちは南東区へ向かった。
ラグノールの中心から少し離れると、街の顔は変わる。
商店の賑わいは薄れ、古い石塀と空き家が増える。
目的の屋敷は、その奥にあった。
大きい。
最初の印象はそれだった。
鉄門は錆びている。
庭は荒れ、雑草が膝まで伸びている。
外壁には蔦が絡み、二階の窓の一部は割れていた。
だが、建物そのものはまだ立っている。
セリアが門の前で周囲を見る。
「防衛には向いている。正面門と裏口、二箇所を押さえればよい」
ミュールはすでに塀へ登っていた。
「侵入経路、いっぱい」
「防衛に向いているのか向いていないのか」
「直せば向いてる」
イリスは屋敷の奥を見つめていた。
「地下に、魔力の残り香があります」
ロゼッタは門の錆を指で触る。
「修繕費はかかりますわね」
「やめるか」
俺が聞くと、彼女は振り返った。
「まさか」
緑がかった金色の瞳が、少しだけ輝いている。
「壊れているものは、安く買えます。直せる者がいれば、価値になります」
ガレスが隣で笑った。
「気に入った」
「屋敷を?」
「その考え方をだ」
ロゼッタは優雅に一礼した。
「光栄ですわ」
俺は錆びた門に手をかけた。
重い音を立てて、門が開く。
荒れた庭の向こうに、古い屋敷がある。
ここが、場所になるのか。
買い戻した誰かが、次を選ぶために休める場所。
俺たち自身も、戻ってこられる場所。
まだ何も始まっていない。
むしろ、問題だらけだ。
それでも、胸の奥が少しだけ熱くなった。
玄関へ向かおうとした時、イリスが足を止めた。
「待ってください」
「どうした」
「地下の魔力が、今、動きました」
ミュールが塀の上で低く身を沈める。
セリアが盾に手をかける。
屋敷の奥。
閉ざされた地下室のほうから、かすかな音がした。
石を爪で引っかくような、乾いた音。
ロゼッタが笑みを消す。
「曰く付き、ですわね」
マルタが小さく頷いた。
「ええ。かなり」
ロゼッタは、レオンたちが戦うべき相手を「奴隷商」だけではなく「契約そのもの」だと見抜きました。
力で助けるだけでは届かない場所へ、ここから踏み込んでいきます。
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