表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
38/145

第038話 助けるだけでは、人は生きられません

ロゼッタが、救出の先にある生活と運営の問題を突きつける回です。

助けたあとにどう生きるのか、物語の段階が一つ進みます。


 ロゼッタが最初に要求したのは、宿ではなかった。


「帳簿です」


 ギルドの会議室で、彼女はそう言った。


 首の債務奴隷輪はまだ外れていない。

 手首の鎖も残っている。

 それでも彼女は、椅子に座る姿勢だけで部屋の主導権を握っていた。


「帳簿?」


「ええ。貴方たちの収入、支出、借入、前借り、装備維持費、薬代、食費、宿代。全部です」


 俺はマルタを見る。


 マルタは黙って帳面を出した。


「あるのか」


「ギルドで把握している範囲だけです。個人財布までは知りません」


 ロゼッタはそれを受け取り、頁をめくる。


 速い。

 指先が紙の上を滑り、目が数字を拾っていく。


 しばらくして、彼女は帳面を閉じた。


「破綻していますわ」


「昨日も似たようなことを聞いた」


「昨日より確信しました」


 容赦がない。


 セリアが腕を組む。


「具体的には」


「収入が不安定。支出は増加傾向。装備更新と医療費が重い。今後、魔塔と赤鎖への対抗費、証拠集め、移動費も増えます。さらに、レオンさんは今後も人を買い戻す可能性が高い」


 彼女は俺を見る。


「否定できます?」


「できない」


「でしょうね」


 ミュールが小さく言う。


「レオン、檻を見ると買う」


「毎回買えるわけじゃない」


「でも、考える」


 否定できない。


 イリスが遠慮がちに手を上げた。


「私は、腕輪の改良費も必要です」


「ええ。必要です。貴女が倒れれば、治療費はもっと高くつきます」


「そういう計算なんですね」


「生きるための計算ですわ」


 ロゼッタはそこで、少しだけ声を低くした。


「レオンさん。貴方は買い戻した人をどうするおつもりですか」


「奴隷契約を解いて、本人が選べるようにする」


「その後は」


「その後?」


「寝床は。食事は。仕事は。身分証明は。怪我をしていた場合の治療費は。追手が来た場合の避難先は。読み書きができない者の手続きは。故郷へ帰れない者はどこへ行くのです」


 言葉が一つずつ、机に置かれていく。


 重い。


 俺はすぐに答えられなかった。


 セリアも黙っている。

 ミュールは耳を伏せた。

 イリスは腕輪を押さえたまま、視線を落としている。


 ロゼッタは続けた。


「買い戻して首輪を外す。それは尊いことですわ。ですが、それだけでは人は生きられません」


 彼女の指が、帳面を叩く。


「寝床がなければ、路地へ戻る。食事がなければ、安い仕事を受ける。身分証明がなければ、また違法労働に落ちる。追手から逃げる場所がなければ、結局赤鎖へ戻される」


 俺は息を吐いた。


「助けるだけでは、人は生きられない」


「ええ」


 ロゼッタは頷いた。


「だから、場所が必要です」


 その言葉で、部屋の空気が変わった。


「場所」


 セリアが繰り返す。


「一時的に身を寄せられる場所。治療、食事、身分手続き、仕事探し、証言保護。全部を宿の一室でやるのは無理です」


「宿では駄目なのか」


 俺が聞くと、ロゼッタは即座に首を横へ振った。


「宿は客を泊める場所です。身元の曖昧な元奴隷を長く置けば、宿側が赤鎖や役人に睨まれます。善意の宿主ほど、そこを突かれると弱い」


 マルタも頷く。


「実際、昨日から問い合わせが増えています。レオンさんの部屋に何人いるのか、危険はないのか、奴隷を隠していないか」


「もう来ているのか」


「はい。噂が出てから早いです」


 イリスが小さく肩を縮める。


「私のせいで」


「違いますわ」


 ロゼッタが言った。


 思ったよりも鋭い声だった。


「貴女のせいではありません。貴女を利用したい者たちが、貴女を理由にしているだけです。そこを間違えると、相手の契約書に自分で署名することになります」


 イリスは目を見開いた。


 ロゼッタは続ける。


「責任を引き受けることと、濡れ衣を着ることは違いますわ」


 その言葉に、セリアが静かに頷いた。


「耳が痛いな」


「貴女にも覚えが?」


「大いにある」


 ロゼッタは少しだけ目を細めた。


 互いの傷を探るような沈黙。


 だが、嫌なものではなかった。


 ミュールが窓の外を見ている。


「宿、匂いが多い。人が多い。逃げ道も少ない」


「そういう問題もあります」


 ロゼッタは頷いた。


「守るなら、出入りを管理できる場所が必要です。食料を置ける倉庫。怪我人を寝かせる部屋。書類を隠せる棚。子供や弱った者が夜に怯えず眠れる寝台」


 彼女の声が、少しだけゆっくりになる。


「そして、働ける者が働ける場所」


「働く?」


「当たり前ですわ。助けられた人を、ずっと助けられる側に固定してはいけません。料理ができる者、洗濯ができる者、文字を覚えたい者、荷運びができる者。役割があれば、人は少しずつ顔を上げます」


 その言葉には実感があった。


 ロゼッタ自身が、役割を奪われた側だからだろう。


「ただ寝かせるだけでは、檻が部屋に変わるだけです」


 会議室が静かになる。


 俺はその言葉を忘れないようにした。


 檻が部屋に変わるだけ。


 命令しないこと。

 首輪を外すこと。

 それだけでは足りない。


 選べるようにするには、選ぶための足場がいる。

 それを用意しないまま自由だと言うのは、たぶん乱暴な優しさだ。

 俺はまた一つ、自分の甘さを見つけた気がした。

 ロゼッタは、それを数字で突きつけてくる。逃げ道のない正しさで。痛いが、今の俺には必要な痛みだった。

 目を逸らせば、また誰かが檻へ戻る。それだけは、どうしても嫌だったからだ。



 マルタが眼鏡を押し上げる。


「ギルドの保護室も限界があります。長期滞在はできません」


「候補はあるのか」


 俺が聞くと、ロゼッタはマルタを見た。


 マルタは少し嫌そうな顔をした。


「あります」


「あるんですね」


「ありますが、曰く付きです」


 ロゼッタが笑う。


「曰く付きは安いですわ」


「商人の目ですね」


「褒め言葉として受け取ります」


 マルタは帳面から別の紙を出した。


「ラグノール南東区に、古い屋敷があります。元は地方貴族の別邸でしたが、十年前に持ち主が亡くなり、相続争いで放置。現在はギルドが管理しています」


「なぜ借り手がいない」


 セリアが問う。


「広すぎる。修繕費が高い。地下室に古い魔法陣が残っているという噂がある。夜に音がする。井戸が壊れている。あと、税の処理が面倒です」


 理由が多い。


 ミュールの耳が立った。


「夜に音」


「興味を持つところがそこか」


「罠かもしれない」


 イリスは別のところに反応した。


「古い魔法陣」


「貴女もそこですか」


 マルタが疲れた声を出す。


 ロゼッタは紙を受け取り、すぐに言った。


「借りましょう」


「早い」


「条件が良いです。広い。安い。曰く付きなので競合がいない。地下室があるなら証拠保管にも使える。井戸は直せば資産です。税処理は私が見ます」


 ガレスが会議室の入口で腕を組んでいた。


「修繕費はどうする」


「現物払い、分割、労務交換、ギルドへの保護事業名目の減免。使える手はあります」


「口が回る女だ」


「手も動きますわ」


 ガレスは鼻を鳴らした。


「なら見に行くぞ。口だけなら、屋敷の床は直らねえ」


 話は決まった。


 午後、俺たちは南東区へ向かった。


 ラグノールの中心から少し離れると、街の顔は変わる。

 商店の賑わいは薄れ、古い石塀と空き家が増える。

 目的の屋敷は、その奥にあった。


 大きい。


 最初の印象はそれだった。


 鉄門は錆びている。

 庭は荒れ、雑草が膝まで伸びている。

 外壁には蔦が絡み、二階の窓の一部は割れていた。


 だが、建物そのものはまだ立っている。


 セリアが門の前で周囲を見る。


「防衛には向いている。正面門と裏口、二箇所を押さえればよい」


 ミュールはすでに塀へ登っていた。


「侵入経路、いっぱい」


「防衛に向いているのか向いていないのか」


「直せば向いてる」


 イリスは屋敷の奥を見つめていた。


「地下に、魔力の残り香があります」


 ロゼッタは門の錆を指で触る。


「修繕費はかかりますわね」


「やめるか」


 俺が聞くと、彼女は振り返った。


「まさか」


 緑がかった金色の瞳が、少しだけ輝いている。


「壊れているものは、安く買えます。直せる者がいれば、価値になります」


 ガレスが隣で笑った。


「気に入った」


「屋敷を?」


「その考え方をだ」


 ロゼッタは優雅に一礼した。


「光栄ですわ」


 俺は錆びた門に手をかけた。


 重い音を立てて、門が開く。


 荒れた庭の向こうに、古い屋敷がある。


 ここが、場所になるのか。


 買い戻した誰かが、次を選ぶために休める場所。


 俺たち自身も、戻ってこられる場所。


 まだ何も始まっていない。

 むしろ、問題だらけだ。


 それでも、胸の奥が少しだけ熱くなった。


 玄関へ向かおうとした時、イリスが足を止めた。


「待ってください」


「どうした」


「地下の魔力が、今、動きました」


 ミュールが塀の上で低く身を沈める。

 セリアが盾に手をかける。


 屋敷の奥。

 閉ざされた地下室のほうから、かすかな音がした。


 石を爪で引っかくような、乾いた音。


 ロゼッタが笑みを消す。


「曰く付き、ですわね」


 マルタが小さく頷いた。


「ええ。かなり」



ロゼッタは、レオンたちが戦うべき相手を「奴隷商」だけではなく「契約そのもの」だと見抜きました。

力で助けるだけでは届かない場所へ、ここから踏み込んでいきます。

少しでも続きが気になったら、ブックマーク・評価・いいねで応援していただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ