第037話 契約書を武器にする令嬢
ロゼッタ加入直後の回です。
彼女は剣ではなく、契約書と帳簿を武器にして戦います。
「まず、私の報酬条件からです」
ロゼッタ・フォルンは、買われたばかりの債務奴隷とは思えない顔でそう言った。
場所は奴隷市場を出た先の、人通りの少ない路地。
赤鎖の建物からはまだ近い。
競売場のざわめきも背後に残っている。
普通なら、まず休む。
水を飲む。
首輪をどうするか確認する。
だがロゼッタは、自分で鎖を持ったまま、最初に報酬の話を始めた。
「報酬?」
俺が聞き返すと、彼女は当然のように頷く。
「ええ。私は貴方に買われました。ですが、貴方は私を所有する気がない。でしたら、私が貴方のために働く理由と対価を決める必要があります」
「まだ働くとも決めていないんじゃないか」
「働かない場合、貴方はすでに破産寸前ですわ」
即答だった。
セリアがわずかに横を向いた。
ミュールの尾が揺れた。
イリスは困ったように俺を見る。
「破産寸前」
俺は繰り返す。
「ええ」
ロゼッタは指を折って数え始めた。
「元聖騎士の装備維持費。獣人斥候の毒抜きと栄養改善費。暴走魔導師の調律具の改良費。ギルド依頼で稼げる金額。ガレス様からの前借り。私の落札代金。今後、赤鎖と魔塔と勇者筋から来るであろう法的圧力への対策費」
彼女はそこで俺の腰袋を見る。
「足りませんわ」
「わかってはいた」
「わかっていて、なぜ買うのです」
「檻に置いていきたくなかった」
ロゼッタは一瞬だけ黙った。
その目が、値踏みから観察へ変わる。
「なるほど。善人ですのね」
「褒めているようには聞こえないな」
「褒めていますわ。ただし、善人と経営者は別です」
彼女は鎖を指先で軽く持ち上げた。
「レオンさん。貴方、善人ですけれど経営者としては破滅的ですわ」
マルタが小さく咳払いをした。
「否定できません」
「マルタさんまで」
「事務的事実です」
ロゼッタは満足げに頷いた。
「ですから、私が必要です」
その言い方は傲慢に聞こえる。
だが、虚勢だけではない。
競売台の上で彼女が見せた観察力。
買い主候補の資金繰りを一目で見抜き、危険な貴族印を見分けた判断。
あれは本物だ。
「条件を聞こう」
俺が言うと、ロゼッタはわずかに笑った。
「第一に、私を奴隷として使わないこと」
「当然だ」
「当然を契約書に書くのが大事ですわ」
彼女はマルタを見る。
「ギルド立会いで、私とレオンさんの間に労務契約を作成します。身分は一時保護対象。業務は契約書読解、帳簿管理、交渉補助、資金計画。報酬は当面、生活保障と債務整理完了後の利益配分」
マルタの眼鏡が光った。
「話が早くて助かります」
「遅い契約は損を生みます」
「同感です」
この二人、相性が良いのか悪いのかわからない。
マルタは携帯用の契約用紙を取り出した。
「では、簡易労務契約の形で起こします。保護対象者ロゼッタ・フォルン。雇用主ではなく、業務依頼者レオン・グランヴィル。業務期間は暫定七日」
「七日は短すぎますわ」
ロゼッタが即座に言う。
「暫定です」
「暫定なら三日で十分です。七日と書くと、更新時に相手へ主導権を渡します。三日ごとに見直せば、こちらの貢献を小刻みに価格へ反映できますわ」
マルタのペンが止まった。
「なるほど」
「それから、報酬欄に生活保障だけを書くのは危険です。食事と寝床を与えているから報酬は十分だ、と後から言い出す者がいます」
「レオンさんは言わないでしょう」
「レオンさんが言わなくても、第三者が読みます」
ロゼッタは俺をちらりと見た。
「善人の契約ほど、悪人に読まれた時のことを考えるべきです」
その言葉は、妙に重かった。
マルタは静かに頷き、文面を書き換える。
「生活保障に加え、成果に応じた後払い報酬。内容は三日ごとに協議」
「よろしいですわ。あと、命令権の不行使を明記してください」
セリアが少し目を伏せる。
ミュールの耳も動いた。
イリスは腕輪に触れている。
ロゼッタは三人の反応を見て、声を少しだけ柔らかくした。
「言葉で信じるのも大切です。ですが、紙に残すことも同じくらい大切ですわ。紙は人を縛ります。なら、人を守る紙も作れます」
俺はその言葉を、しばらく胸の中で転がした。
人を守る紙。
俺にはなかった発想だ。
剣で守る。
盾で守る。
薬で守る。
魔法で守る。
だが、書類で守るという戦い方もある。
ロゼッタは次にセリアを見た。
「貴女の契約状態は」
「奴隷契約文字は消えている。だが、所有者認証が残っている」
「証文は?」
「赤鎖のものがある」
「見せてください」
セリアは一瞬だけ迷い、俺を見る。
俺は頷いた。
書類はマルタが写しを保管している。
ロゼッタはその写しを受け取ると、路地の薄明かりの中で目を細めた。
「冤罪処理、聖職封印、所有者認証。かなり汚い契約ですわね」
セリアの眉が動く。
「汚い?」
「ええ。契約書の形をしていますが、責任の所在を三箇所に分けている。王国騎士団、教会、赤鎖。誰か一人を責めても、他の二者が逃げる作りです」
マルタが低く言う。
「やはりそう見えますか」
「見えます。見えすぎて腹が立ちますわ」
ロゼッタは次にミュールを見る。
「貴女は」
「ミュール」
「ええ、ミュールさん。売却証文は」
「夜爪の印。赤鎖に売った」
「理由は」
「失敗作」
ロゼッタの表情が少し冷えた。
「便利な言葉ですわね」
ミュールの耳が動く。
「便利?」
「ええ。失敗作と書けば、売った側は責任ではなく廃棄処分だったと言い張れる。買った側は危険商品だから安く仕入れたと言い張れる。貴女本人の意思は、どこにも書かれない」
ミュールはしばらく黙った。
「嫌い」
「私もです」
短い一致だった。
ロゼッタは最後にイリスを見た。
「そして貴女が、魔塔の研究奴隷」
イリスの肩が小さく跳ねる。
だが、今度は俯かなかった。
「はい。書類上は」
「よろしい。書類上は、という言い方ができるなら戦えます」
イリスは瞬きをした。
「戦える?」
「契約では、言葉の置き場所が剣になります。『私は研究奴隷です』と『書類上は研究奴隷とされています』では、まるで意味が違う」
ロゼッタは三枚の写しを並べる。
セリア。
ミュール。
イリス。
それぞれ別の書類。
別の不幸。
別の鎖。
だが、赤鎖の印はすべてにある。
「見えましたわ」
ロゼッタが言った。
「何が」
「赤鎖は奴隷商会ではありません」
俺は眉を寄せた。
「奴隷商会だろう」
「表向きは。ですが、実態は責任洗浄の装置です」
責任洗浄。
嫌な言葉だった。
「王国、教会、魔塔、貴族、暗殺組織。彼らは直接人を檻へ入れたくない。だから赤鎖を通す。赤鎖を通せば、書類上は合法取引になる」
ロゼッタの指が、赤鎖の印を叩く。
「人を売っているのではありません。責任を売り払っているのですわ」
路地が静まり返った。
セリアの目が鋭い。
ミュールの耳が伏せる。
イリスの腕輪が淡く光る。
俺は拳を握った。
ただ奴隷を買い戻せばいい。
最初はそう思っていた。
だが、それだけでは足りない。
買い戻しても、書類が残る。
書類が残れば、誰かがまた引き戻そうとする。
法の顔をして。
「では、どう戦う」
セリアが問う。
ロゼッタは笑った。
競売台の上で見せた笑みとは違う。
今度は、刃物のような笑みだった。
「まず、相手の書類を集めます」
「盗むのか」
ミュールの声が少し明るくなる。
「場合によっては」
マルタが咳払いした。
「合法的な入手を優先してください」
「もちろんですわ。合法的に入手できない帳簿ほど、価値がありますけれど」
「ロゼッタさん」
「冗談です」
たぶん冗談ではない。
ロゼッタは俺へ向き直った。
「第二の条件です。私を雇うなら、私に帳簿と契約を任せること」
「任せる」
「即答は危険ですわ」
「今の話を聞いたら、任せるしかない」
ロゼッタは少しだけ目を伏せた。
ほんの一瞬。
強気な仮面の奥に、疲れが見えた。
「では、第三の条件」
「まだあるのか」
「当然です」
彼女は自分の首の金属輪に触れた。
「私の債務契約を、必ず精査すること。私を哀れんで無条件に解放するのではなく、誰が、どの契約で、どれだけ奪ったのかを明らかにすること」
声が少しだけ低くなる。
「私の家は、契約で潰されました。なら、契約で取り返します」
その言葉で、ロゼッタが初めて自分の傷を見せた気がした。
「わかった」
俺は頷いた。
「君を解放するだけで終わらせない。奪われたものを見る」
「よろしい」
ロゼッタはまた仮面の笑みに戻った。
「では最初の仕事です」
「何をする」
「貴方たちの財政を立て直します」
彼女は俺の腰袋を指差した。
「このままでは、次に誰かを買い戻す前に、貴方が食費で詰みます」
否定できない。
セリアも否定しない。
ミュールは「食費、大事」と呟く。
イリスは申し訳なさそうに腕輪を押さえている。
ロゼッタは優雅に一礼した。
「改めまして。ロゼッタ・フォルンです。元フォルン商会令嬢、現債務奴隷、そして本日より、貴方の破滅的な善意を帳簿で延命させる者ですわ」
「紹介がひどい」
「正確です」
マルタが頷いた。
「正確です」
「二人で言わないでくれ」
少しだけ空気が緩んだ。
だが、ロゼッタはすぐに真顔へ戻る。
「レオンさん」
「何だ」
「貴方が戦うべき相手は、奴隷商だけではありません」
彼女は三枚の契約書を指で叩いた。
「契約そのものですわ」
ロゼッタは、レオンたちが戦うべき相手を「奴隷商」だけではなく「契約そのもの」だと見抜きました。
力で助けるだけでは届かない場所へ、ここから踏み込んでいきます。
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