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第036話 買われた瞬間から交渉を始める女

ロゼッタ・フォルン登場回です。

彼女は救われるだけの令嬢ではなく、競売台の上でも相手を値踏みする商人として現れます。

「買うなら、まず貴方の財布と覚悟を見せてくださる?」


 競売台の上で、ロゼッタ・フォルンはそう言った。


 奴隷商が口を開くより早い。

 買い主候補が値踏みするより早い。

 彼女は、自分が値踏みされる側であることを理解したうえで、先にこちらを値踏みしてきた。


 周囲がざわめく。


「何だ、あの女」


「奴隷のくせに」


「だから売れ残ったんだろう」


 そんな声が飛ぶ。


 ロゼッタは気にしない。


 蜂蜜色の巻き髪は乱れている。

 ドレスは汚れている。

 手首には細い鎖。

 首には債務奴隷の金属輪。


 それでも、背筋だけは曲がっていない。


 緑がかった金色の瞳が、俺をまっすぐ見ていた。


「財布は軽い」


 俺は正直に言った。


 隣でマルタがほんの少しだけ目を閉じた。

 競売場で最初にそれを言うのは、たぶん悪手なのだろう。


 ロゼッタは唇の端を上げた。


「でしょうね」


「見ただけでわかるのか」


「靴の手入れ、外套の縫い直し、腰袋の重さ、隣の方々の装備更新具合。どれを見ても、余裕のある買い主には見えませんわ」


 周囲の笑いが起きる。


 俺は苦笑しかけた。


 セリアが小声で言う。


「言われているぞ」


「聞こえている」


 ミュールが俺の腰袋を見た。


「軽いの、ばれた」


 イリスは真面目に言う。


「観察眼がかなり高いです」


 競売人が慌てて槌を持ち上げた。


「黙れ、商品! 勝手に喋るな!」


「商品価値を説明しているのですけれど」


 ロゼッタは競売人へ視線を向けた。


「貴方の説明では、わたくしの値段が下がりますわ」


 またざわめき。


 競売人の顔が赤くなる。


「この女は態度不良の債務奴隷だ! 元フォルン商会令嬢、帳簿読み、契約書作成、商談補助が可能。ただし買い主への反抗が多く、返品不可!」


「返品不可はそちらの不手際を隠す便利な言葉ですわね」


「黙れ!」


 首輪が淡く光る。


 ロゼッタの眉がわずかに動いた。

 痛みが走ったのだろう。


 だが、彼女は声を乱さなかった。


「この程度で黙るなら、とっくに売れております」


 ミュールの耳が立つ。


「強い」


「戦い方が違うだけだ」


 セリアが低く言った。


 俺も同じことを思っていた。


 ロゼッタは剣を持っていない。

 魔法も使っていない。

 それでも、競売台の上で戦っている。


 言葉で。

 姿勢で。

 値段を決める側に、自分の価値を任せないことで。


 競売が始まった。


 最初の価格は、予想より高い。

 元商家令嬢という肩書きと、帳簿を読める能力。

 そして見た目の華やかさ。

 それだけで、見物人の何人かが興味を示している。


 だが、入札は伸びない。


 理由はすぐにわかった。


「そちらの方」


 ロゼッタが最初に手を上げた太った商人を見た。


「貴方、買った後に私へ帳簿を任せるおつもりですか」


「だったら何だ」


「帳簿を任せるなら、隠し債務を整理してからになさいませ。指輪の質、靴底の減り、護衛の人数。見栄を張るには少し資金繰りが厳しいようですわ」


 商人の顔色が変わる。


 周囲が笑った。


 商人は手を下げた。


 次に、貴族風の若い男が金額を上げた。


 ロゼッタは一瞥する。


「愛玩目的ならお断りしますわ」


「奴隷が断るだと?」


「ええ。断ります。無理に買うなら、貴方の家の出入り商人に、昨年の秋から支払いが遅れている件をうっかり思い出してしまうかもしれません」


 若い男は真っ赤になった。


 やはり手を下げる。


 競売人が青ざめていく。


「おい、商品!」


「ですから、商品価値を説明していると申し上げています」


 ロゼッタは涼しい顔だ。


 自分で買い手を減らしている。

 だが、ただ反抗しているのではない。


 買われた後、自分を使い潰しそうな相手を先に潰しているのだ。


 イリスが小声で言う。


「すごいです。自分の価格を下げながら、危険な買い主を選別しています」


「競売台の上でか」


「はい」


 ミュールが尻尾を小さく揺らした。


「やっぱり、強い」


 俺は頷いた。


 強い。


 だが、長くは続かない。


 首輪の光が少しずつ強くなっている。

 ロゼッタの顔色も、よく見ると悪い。

 彼女は痛みを顔に出さないだけだ。


 競売人が苛立ちを隠さず叫ぶ。


「次! 他に入札は!」


 その時、後方から低い声がした。


「倍額」


 場が静まった。


 声の主は、黒い外套をまとった男だった。

 顔は帽子の影でよく見えない。

 だが、胸元に細い鳥の印がある。


 俺は息を呑む。


 ミュールが小さく言う。


「同じ匂い」


 夜爪の追手。

 魔塔の回収命令。

 貴族印。


 あの鳥の紋章だ。


 ロゼッタも気づいたらしい。


 初めて、彼女の表情から笑みが消えた。


 黒外套の男は淡々と言う。


「フォルンの娘は、こちらで引き取る」


 競売人の顔が露骨に明るくなる。


 高値。

 そして、おそらく裏の買い主。


 このままではロゼッタは鳥印の側へ渡る。


 俺は財布の重さを感じた。


 足りない。


 普通に競れば、勝てない。


 それでも、手を上げた。


「同額」


 周囲がざわつく。


 黒外套の男がこちらを見る。


「同額では上回っていない」


「金額は同じだ」


 俺はロゼッタを見た。


「ただし、契約条件を変える」


 競売人が眉をひそめる。


「契約条件だと?」


「購入後、彼女の帳簿、契約書、証言を封じない。首輪の命令権を行使しない。本人の意思に反して愛玩目的、懲罰目的、転売目的に使わない」


 競売場が一瞬、静まり返った。


 次の瞬間、笑いが起きる。


「何だそりゃ」


「奴隷を買う気があるのか」


「馬鹿か、あいつ」


 ロゼッタは笑わなかった。


 彼女は俺を見ている。


 じっと。


 値段ではなく、言葉の裏を読んでいる目だ。


「その条件」


 ロゼッタが言う。


「書面にできますの?」


「できる」


 俺は言い切った。


 実際には、俺には契約書の専門知識はない。

 だが、ここで迷えば負ける。


 マルタが後ろから低く言った。


「簡易契約なら、ギルド書式で作れます」


 ありがたい。


 ロゼッタの瞳が、今度はマルタへ移る。


「ギルド職員の立会いあり」


「可能です」


 マルタが答える。


「買い主の資金力は弱いが、契約条件は悪くない」


 ロゼッタはそう呟いた。


 競売人が焦る。


「商品が買い主を選ぶな!」


「では、商品価値を最大化する買い主を選定していると言い換えましょう」


「同じだ!」


 黒外套の男がさらに金額を上げた。


 俺の財布では届かない。


 だが、その瞬間、ロゼッタが声を張った。


「その方には売らないほうがよろしいですわ」


 競売人が凍る。


「何?」


「鳥の印。三年前、フォルン商会の債権移管に関わった貴族家のものです。わたくしを買うのではなく、口を塞ぎに来ています」


 場の空気が変わった。


 見物人たちが黒外套の男を見る。


 男の手がわずかに動く。


 ミュールも動いた。


 影から一歩。

 ただそれだけで、男の手は止まる。


 セリアが盾に手をかける。

 イリスの腕輪が紫に光る。


 競売場の緊張が一気に高まった。


 競売人は汗を流しながら槌を握る。


 ここで騒ぎになれば、競売自体が壊れる。

 赤鎖にとっても都合が悪い。


 マルタが静かに言った。


「ギルド立会いで、同額入札と条件付き契約を記録します。後から揉めた場合、今日の競売記録は提出できます」


 競売人の顔が歪む。


 黒外套の男は何も言わない。

 だが、周囲の目が集まりすぎた。


 彼は小さく舌打ちし、手を下げた。


 競売人が槌を振り上げる。


「落札!」


 乾いた音が鳴った。


 ロゼッタ・フォルンは、俺のものになった。


 いや。


 その言い方は違う。


 俺は彼女を買った。

 だが、所有するためではない。


 そのことを、俺自身が忘れてはいけない。


 周囲の視線が刺さる。


 また女奴隷を買った。

 噂の通りだ。

 危険な女ばかり集めている。


 そんな声が、言葉になる前から聞こえる気がした。


 セリアが一歩、俺の隣に並ぶ。

 ミュールも影から出る。

 イリスは腕輪を袖で隠したまま、けれど顔を伏せなかった。


 彼女たちは俺の後ろに並ばない。


 噂がどう歪めても、その事実だけは競売場の全員に必ずはっきり見えるはずだった。


 手続きが終わり、細い鎖の端が俺へ渡される。


 俺は受け取らず、ロゼッタへ差し出した。


「持ちたいなら」


 ロゼッタはその手を見た。


 それから俺の顔を見る。


 そして、競売台の上で見せたものとは少し違う笑みを浮かべた。


「レオン様」


「様はいらない」


「では、レオンさん」


 彼女は鎖を自分で持ち、優雅に一礼した。


「まず申し上げます」


「何を」


「貴方、商才はありませんわ」


 セリアが横を向いた。

 ミュールの尾が揺れた。

 イリスは目を丸くした。


 ロゼッタは続ける。


「ですが、交渉材料としては悪くありません。これから私を買った代金、今後の資金繰り、赤鎖への対抗策、そして貴方が今後どれだけ損をしないために私を雇うべきか、順番にお話しいたしましょう」


 買われたばかりの債務奴隷は、そう言って微笑んだ。


「もちろん、私の報酬条件からです」


ロゼッタは買われた直後から、代金、資金繰り、赤鎖への対抗策、そして自分の報酬条件まで話し始めました。

レオンたちに足りなかった「金と契約で戦う力」が、ここから加わります。

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