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第032話 魔塔の回収命令

魔塔から、イリスを回収するための正式な命令が届きます。

今回は剣や魔法だけではなく、書類と契約が相手になります。

 回収命令の羊皮紙は、ただの書類ではなかった。


 机の上に広げると、薄い文字が浮かび上がる。

 魔塔印。

 赤鎖の商会印。

 鳥の紋章。

 そして、紙の下部に隠れるように押された教会系の副印。


 インクではない。

 魔力で刻まれた承認術式だ。


 イリスは椅子に座り、腕輪を押さえながらその紙を見ていた。

 さっきの初陣の疲れが残っている。

 顔色は悪い。

 それでも、彼女の紫水晶の瞳には細い輪が浮かんでいた。


「魔塔の命令書に、教会の承認術式が混ざっています」


 彼女はもう一度言った。


 場所は冒険者ギルドの奥の会議室。

 マルタが鍵を閉め、窓の外にはセリアが立っている。

 ミュールは天井裏にいるらしい。

 姿は見えないが、時々梁がわずかに鳴る。


 ガレスは「書類を見ると槌を振りたくなる」と言って鍛冶場へ戻った。

 ただし、何かあれば呼べと釘を刺していった。


「教会が関わっているなら、セリアの件とも繋がるかもしれない」


 俺が言うと、セリアは窓の外から答えた。


「可能性は高い。私の所有者認証も、通常の奴隷契約ではなかった」


 彼女の声は静かだ。

 だが、怒りは消えていない。


 マルタは帳面を開き、回収命令の写しを作っていた。


「厄介ですね。魔塔、奴隷商会、教会、貴族印。権限が多すぎます」


「多いと何がまずい」


「誰も責任を取らないことです」


 マルタは淡々と言った。


「魔塔は研究資産の回収だと言う。赤鎖は輸送と保管を請け負っただけだと言う。貴族側は後援契約だと言う。教会は安全確認の承認だと言う。全員が少しずつ関わって、全員が主犯ではない顔をします」


 聞いているだけで腹が重くなる。


 セリアの冤罪。

 ミュールの売却。

 イリスの実験奴隷化。


 どれも同じだ。


 人を鎖に繋いだ者ほど、鎖の端を自分は持っていないと言い張る。


「この命令書で、イリスを連れていけるのか」


 俺が問うと、マルタは首を横に振った。


「この場では無理です。ギルド保護下にある重要証人ですから。ただし、王都から上位執行官か教会監査官が来れば、こちらの保護権限は弱くなります」


「どれくらい時間がある」


「早ければ三日。遅くても十日」


 短い。


 短すぎる。


 セリアの呪印を解く時でさえ、素材を集め、器具を整え、何度も診断した。

 ミュールの首輪に残る爪印も、まだ完全には触れられていない。


 イリスの腕輪は試作一号だ。

 初陣で彼女を支えた。

 だが、それは勝利ではなく、崖の上に細い板を渡しただけに近い。


 その板の上に立つ彼女へ、王都から別の手が伸びてくる。

 こちらが一歩間違えれば、その板ごと「危険だから撤去する」と言われる。

 嫌な想像なのに、簡単に絵が浮かんだ。


 イリスが手首の腕輪を見た。


「三日で、私は安定できません」


「安定しなくても渡さない」


 俺が言うと、彼女は驚いたように顔を上げた。


「でも、法的には」


「法がいつも正しいなら、君は研究奴隷になっていない」


 イリスは言葉を失う。


 マルタが眼鏡を押し上げた。


「その意気は良いですが、法的に負けると本当に連れていかれます。力で突っぱね続ければ、今度はレオンさんたちが犯罪者扱いです」


「なら、書類で勝つ方法がいる」


「はい」


 マルタは回収命令の端を指した。


「問題はここです。赤鎖の輸送札に、別の監査印が残っています。かなり薄いですが」


 彼女はそこで一度、言葉を切った。


「レオンさん。これは単にイリスさんを取り返す書類ではありません」


「違うのか」


「はい。イリスさんを取り返すと同時に、こちらを試す書類です」


 マルタの指が、魔塔印、赤鎖印、教会副印を順に叩く。


「どこまで読めるか。どこまで抵抗するか。誰が味方につくか。そういう反応を見ています。だから、雑に拒めば向こうの思う壺です」


「俺たちが暴れれば、危険な私兵集団に見える」


「そうです」


 マルタは頷いた。


「元聖騎士、獣人暗殺者、暴走魔導師。言葉だけ並べれば、かなり強い悪評を作れます」


 イリスの肩が小さく震えた。


「私のせいで」


「違う」


 俺はすぐに言った。


「君のせいじゃない。向こうがそういう言葉を選んでいるだけだ」


「でも、事実でもあります。私は暴走魔導師で」


「君は魔導師だ。暴走させられていた魔導師だ」


 イリスは黙った。


 腕輪の紫が、ほんの少しだけ落ち着く。


 イリスが顔を近づける。


「魔力印ではありません。これは普通の商会印です。古い」


「読めるか」


「文字が潰れています。でも、輪郭は……花と秤?」


 マルタが別の帳面を開いた。


 古い商業名簿だ。

 分厚く、紙の端が擦り切れている。


「ラグノールのギルドにも、王都商会の古い登録写しがあります。赤鎖と取引していた商会、監査役、保証人の名簿です」


 彼女は頁をめくる。


 指が止まった。


「ありました」


 俺たちは覗き込む。


 そこには、花と秤を組み合わせた印。


 フォルン商会。


 五年前、債務不履行により解体。

 商会主死亡。

 残存資産は債権者団へ移管。

 令嬢ロゼッタ・フォルン、債務奴隷として処分。


「債務奴隷」


 イリスが小さく繰り返した。


「この人も」


「たぶん、赤鎖に流れている」


 マルタはさらに頁をめくる。


「フォルン商会は、かつて赤鎖の契約監査を請け負っていたようです。奴隷売買そのものではなく、契約書の形式確認、債務処理、輸送保証」


「なら、その商会の令嬢なら契約が読めるかもしれない」


「読める可能性は高いです。ただし」


 マルタの声が少し重くなる。


「現在の所在は不明。最後の記録は、三年前に王都の債務奴隷市へ移送。その後、赤鎖系列の競売目録に名前が一度だけ出ています」


「一度だけ」


「はい。買い手がつかなかったようです」


 セリアが窓の外から問う。


「なぜだ」


 マルタは帳面を読み上げた。


「態度不良。買い主候補への侮辱。契約条件の逆提示。競売中の価格操作未遂」


 沈黙。


 天井裏でミュールが呟いた。


「強そう」


「戦闘力とは別の意味でな」


 俺は少しだけ苦笑した。


 競売台の上で買い主を値踏みする女。

 それだけで、会ったこともないロゼッタの輪郭が見えた気がした。


 イリスは名簿を見つめている。


「その人なら、私の契約を解けるでしょうか」


「解けるかどうかはわからない」


 マルタは正直に言った。


「ですが、少なくとも読めるはずです。魔塔の術式はイリスさんが読める。奴隷契約の現場はレオンさんが見てきた。けれど、商会契約と債務処理は専門外です」


「つまり、次に必要なのは」


 俺が言うと、マルタは頷いた。


「契約で戦う人です」


 部屋の空気が決まった。


 魔塔の回収命令を力で弾くだけでは足りない。

 赤鎖の書類を崩し、教会の承認を疑い、貴族印の責任を引きずり出す。


 そのためには、剣でも魔法でもない武器がいる。


 契約書。

 帳簿。

 印章。

 噂。


 俺たちには、まだその戦い方が足りない。


「ロゼッタ・フォルンを探す」


 俺が言うと、イリスが顔を上げた。


「私のために、ですか」


「君だけじゃない。セリアの所有者認証にも、ミュールの売却にも、赤鎖と書類が絡んでいる。ここを放っておくと、また同じことをされる」


 セリアが頷く。


「同意する。剣で斬れない鎖があるなら、それを断つ者が必要だ」


 天井裏からミュールの声。


「書類、嫌い」


「俺も得意ではない」


「でも、敵なら読む」


「そうだな」


 イリスは腕輪に触れた。


「私も、読みます。魔塔の術式なら」


「無理はするな」


「無理かどうかは、私も一緒に判断します」


 言い返された。


 セリアが少しだけ笑った気配がした。


 その変化は小さい。

 だが、俺には大きく見えた。


 昨日までのイリスなら、自分を数に入れなかった。

 危ないから置いていけ。

 危ないから渡してくれ。

 危ないから封じてくれ。


 そう言っただろう。


 今の彼女は、まだ怖がっている。

 それでも、自分が読むと言った。

 自分の限界を、自分も一緒に判断すると言った。


 腕輪は、魔力だけでなく、彼女の言葉の流れも少し変え始めているのかもしれない。


 マルタは帳面を閉じる。


「問題は、ロゼッタ・フォルンが今どこにいるかです。王都に戻された可能性もありますし、地方競売へ流された可能性もあります」


 その時、会議室の扉が叩かれた。


 マルタが警戒しながら開ける。


 立っていたのは、ギルドの下働きの少年だった。

 息を切らしている。


「マルタさん! 奴隷市場から新しい競売札が出ました!」


「今度は何です」


「債務奴隷です。元商家令嬢。契約書偽造の疑いありって」


 俺は嫌な予感がした。


 少年は手にした写しを差し出す。


 そこには、蜂蜜色の巻き髪を持つ女の簡単な似顔絵。

 競売予定時刻。

 赤鎖の印。


 そして名前。


 ロゼッタ・フォルン。


 マルタが小さく息を呑む。


 イリスが腕輪を握る。

 セリアが窓の外で盾を持ち直す音がした。

 ミュールが天井裏から、音もなく降りてくる。


 写しの端には、売り文句が書かれていた。


 買われた瞬間から交渉を始める、扱いづらい債務奴隷。


 俺はその一文を見て、なぜか確信した。


 次に会う女は、檻の中にいても負けた顔をしていない。


イリスを守るには、力だけでは足りないとわかってきました。

契約で戦うために必要な名前、ロゼッタ・フォルンがここで浮上します。

次に会う彼女は、檻の中にいても負けた顔をしていないはずです。

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