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第029話 紫水晶の瞳

イリスの過去と傷に触れる回です。

彼女がなぜ自分を危険物だと思い込むようになったのかが見えてきます。

 イリスは、手当てを受ける間も謝り続けていた。


「ごめんなさい」


 包帯を巻かれている時も。


「ごめんなさい」


 水を渡された時も。


「ごめんなさい」


 誰も責めていないのに、彼女は息をするように謝った。


 ギルドの奥にある簡易治療室。

 窓は開けられ、地下から運び出された焦げ臭さを逃がしている。

 外では崩落現場の後始末が続いていた。


 負傷した斥候は命に別状なし。

 若い魔導師はマルタの前で証言を取り続けられている。

 魔塔の主任は、ミュールが縛ったまま倉庫の椅子に座らされているらしい。


 たまに「これは不当拘束だ!」という声が聞こえる。


 そのたびにミュールの声が返る。


「うるさい」


 そして少し静かになる。


 何をしているのかは、聞かないでおいた。


 俺は自分の右手を見た。


 指先から手首にかけて赤く腫れている。

 魔力焼けだ。

 軽傷ではない。

 ただ、指は動く。


「動くから大丈夫、という顔をしているな」


 セリアが言った。


「顔に出ていたか」


「貴殿は自分の怪我に関してだけ、非常にわかりやすい」


「不便だな」


「便利だ。こちらが止めやすい」


 セリアは俺の手に薬を塗り、包帯を巻く。

 手つきは丁寧だが、視線は厳しい。


「しばらく工具は持つな」


「それは難しい」


「では怒る」


「最近、怒るが増えてきたな」


「貴殿が怒られることを増やしている」


 そのやり取りを、イリスがぼんやり見ていた。


 彼女は治療台の端に座っている。

 赤紫色の長い髪は土埃で乱れ、手首にはまだ拘束具が残っている。

 首元の金属輪も外れていない。


 ただ、魔塔の主任が制御に使っていた杖は取り上げた。

 拘束具の出力も応急的に落としてある。


 それでも彼女は、いつまた自分が爆発するかわからないものを見る目で、自分の両手を見ていた。


「イリス」


 俺が呼ぶと、彼女の肩が跳ねる。


「はい。すみません」


「謝らなくていい」


「すみません」


「それも謝っている」


「あ」


 イリスは口元を押さえた。


 セリアが俺の包帯を結び終える。


「少し休め。話を聞くにしても、彼女も貴殿も治療後だ」


「わかっている」


「その返事は信用できるほうか」


「半分くらいは」


「低い」


 セリアがため息をついた。


 その時、マルタが治療室へ入ってきた。

 片手に帳面。

 もう片方に、煤けた書類束。


「失礼します。生きている方から順に確認しています」


「嫌な順番ですね」


「死んだ方は今のところいません。なので良い順番です」


 マルタは淡々と言った。


「若い魔導師の証言は取りました。名前はノルド。魔塔管理局の下級研究員です。彼は、旧排水路の下層陣がイリスさんの暴走事故ではなく、意図的な実験だった可能性が高いと証言しています」


 イリスの顔が白くなる。


「ノルドが」


「知り合いか」


 俺が尋ねると、彼女は小さく頷いた。


「同じ研究棟にいました。いつも資料を運んでくれて……でも、私が事故を起こした後は、会っていません」


 マルタが書類束を机に置く。


「崩落現場から回収されたものです。完全な証拠になるかはまだ不明ですが、いくつか読める箇所があります」


 俺は書類へ目を落とした。


 焦げている。

 水も吸っている。

 だが、文字は残っていた。


 被験体I。

 魔力過飽和。

 古代陣適合。

 下層起動試験。


 俺の手が止まる。


「被験体I」


 イリスが呟いた。


 紫水晶の瞳が、書類の文字をなぞる。


「私のことです」


 声が乾いていた。


 セリアの表情が硬くなる。


「魔塔は貴女を研究員として扱っていたのではないのか」


「最初は」


 イリスは視線を落とした。


「最初は、特待研究員でした。魔力容量が大きくて、古代文字が読めて、封印術式の解析が得意で。魔塔に入れた時は、嬉しかったんです」


 彼女の声に、ほんの少しだけ昔の明るさが混じる。


「田舎の小さな町から出て、王都の魔塔に入って。誰も私を変な子って呼ばなくなりました。魔法陣を一日中見ていても怒られなくて、寝食を忘れて研究しても、むしろ褒められて」


 そこで言葉が止まる。


 褒められた記憶が、今は毒になっているのだろう。


「私は、調律式の研究をしていました」


「調律式?」


「魔力を封じるのではなく、流れを整える術式です。暴走体質の魔導師や、魔力過多の子供が、自分の力と一緒に生きられるようにするためのもの」


 俺は顔を上げた。


 まさに、今必要な考え方だった。


「それは君の研究か」


「はい。でも、未完成でした」


「なぜ」


 イリスは手首の拘束具を見る。


「上層部は、調律より制御を求めました。本人の意志に合わせる術式は不安定だと。命令に従って出力を固定できるほうが、安全で、管理しやすいと」


 セリアが低く言う。


「管理しやすい」


「はい」


 イリスは苦しそうに笑った。


「私は反論しました。魔力は持ち主の感情や呼吸と繋がっている。外から締めつければ、かえって跳ねる。だから本人の理解と同意が必要だと」


「それで?」


 俺が促すと、彼女はしばらく黙った。


 窓の外から、崩落現場の石を運ぶ音が聞こえる。


「事故が起きました」


 短い言葉。


「研究室で、古代陣の解析中でした。主任たちは、私の調律式を下層陣に接続していました。私は知らなかった。私の魔力を通せば、古代陣が一時的に起動することを、彼らは試そうとしていたんです」


 イリスの指先が震える。


 小さな火花が散った。


 彼女は慌てて手を握りしめる。


「落ち着いて」


 俺は言った。


「火花が出たら危険です」


「今の火花は、君が危ないという意味じゃない。怖いという反応だ」


 イリスが俺を見る。


「同じです」


「違う」


「違いません。私は怖いだけで人を焼ける」


「だから、怖さごと整える方法を探す」


 イリスは言葉を失った。


 セリアが静かに言う。


「続きを話せるか。無理なら後でいい」


「……話します」


 イリスは深く息を吸った。


「古代陣が起動した時、研究室の魔力が逆流しました。私は止めようとしました。でも、拘束具の試作品が勝手に出力を固定して、私の魔力が跳ね返って……研究室が焼けました」


「死者は」


「いません」


 彼女はすぐに答えた。


 その事実だけは、何度も自分に言い聞かせてきたのだろう。


「でも、負傷者は出ました。私は危険物として隔離されました。研究成果は主任たちが管理し、私は被験体になりました」


 マルタが書類をめくる。


「この記録では、事故後にイリスさんの調律式は魔塔管理局名義になっています」


「盗まれたのか」


「研究成果の帰属を魔塔に移す契約書があります。本人署名欄は空白ですが、上位承認印があります」


 ロゼッタがいれば、どんな顔をしただろう。

 きっと笑顔で怒ったに違いない。


 契約を悪用して人を縛る。

 この世界の悪意は、どこでも同じ形をしている。


「それで奴隷商会へ?」


 セリアが問う。


 イリスは頷く。


「魔塔の中では扱いに困ったのだと思います。私の魔力は使いたい。でも、責任は取りたくない。だから、実験体として外部施設へ移されました。表向きは移送中の事故。実際は、拘束具をつけたまま地下へ」


「奴隷商会が関わっているな」


 俺が言うと、マルタが頷いた。


「現場から赤鎖の輸送札も出ています。魔塔、奴隷商会、そして旧排水路の古代陣。繋がりはかなり黒いです」


「輸送札の名義は、研究奴隷扱いです。少なくとも書類上、イリスさんは人ではなく、赤鎖が預かる実験用資産として移されています」


 セリアの手が盾に触れる。


「また赤鎖か」


「夜爪だけではなかった」


 俺はミュールのほうを思い出す。


 暗殺組織。

 奴隷商会。

 魔塔。


 それぞれ別の悪意に見えていたものが、少しずつ同じ根へ向かっている。


「イリス」


 俺は彼女に向き直った。


「君の調律式は、まだ再現できるか」


 彼女は目を見開いた。


「何を言っているんですか」


「そのままの意味だ」


「危険です。未完成です。私が触ればまた」


「一人でやらなくていい」


 俺は包帯を巻かれた右手を少し上げた。


 セリアに睨まれたので、すぐ下げる。


「俺は錬金、治癒、魔導、鍛冶を少しずつ使える。君は理論を持っている。なら、封じる拘束具じゃなく、整える制御具を作れるかもしれない」


「制御具」


「いや」


 俺は首を振った。


「制御という言葉も違うな。君の魔力を押さえる道具じゃない。君が自分で流れを掴むための道具だ」


 イリスの瞳が揺れる。


 紫水晶の瞳に、初めて恐怖以外の光が差した。


「そんなもの、魔塔は認めません」


「魔塔の許可を取るつもりはない」


「主任が黙っていません」


「今、縛られて黙らされている」


 治療室の外から、くぐもった抗議の声がした。


 ミュールの「うるさい」が続く。


 イリスが一瞬だけ目を丸くした。

 笑いそうになって、すぐに下を向く。


「笑っていい」


 俺が言うと、彼女は困った顔をした。


「笑い方を忘れました」


「なら、そのうち思い出せばいい」


 セリアが静かに頷いた。


「焦る必要はない。私も、誇りの持ち方を思い出すのに時間がかかった」


 イリスはセリアを見た。


「あなたも」


「ああ。私も、一度は自分を呪われた奴隷だと思っていた」


 セリアは首元へ触れる。


「だが、私はそれだけではなかった」


 その言葉は、イリスにも届いたようだった。


 彼女は両手の拘束具を見た。


「私も」


 小さな声。


「危険物だけでは、ないのでしょうか」


「違う」


 俺は答えた。


「君は魔導師だ」


 イリスの唇が震えた。


 泣くのかと思った。

 だが、彼女は泣かなかった。


 代わりに、ゆっくりと手を伸ばした。


 俺の包帯を巻いた右手へ。


 触れる直前で止まる。


「触れても」


「いい」


 彼女の指先が、包帯の上に触れた。


 熱い。

 だが、焼けない。


 小さな火花が散った。

 すぐ消えた。


 イリスは震える声で言った。


「怖くないのですか」


 俺は正直に答えた。


「怖い」


 彼女の指が離れかける。


 俺は続けた。


「でも、怖いから封じるのは違う」


 イリスの紫水晶の瞳が、俺を見つめていた。


 その奥で、まだ消えていない魔力が揺れている。


 危険な光。

 美しい光。


 そして、誰かに命令されるためではなく、自分で流れを選びたいと願う光。


「一緒に作ろう」


 俺は言った。


「君を閉じ込める拘束具じゃない。君が君の魔力で生きるための腕輪を」


 イリスは何も言わなかった。


 ただ、包帯越しに触れた指先が、ほんの少しだけ震えていた。


 その震えは、恐怖だけではないように見えた。


イリスの魔力は、誰かに命令されるためのものではありません。

次回、レオンたちは彼女を閉じ込める拘束具ではなく、彼女が自分の魔力で生きるための腕輪を作ります。

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