第025話 命令ではなく名前を呼ぶ
銀灰の斥候編の区切りとなる回です。
レオンはミュールに命令せず、名前を呼ぶことで彼女に向き合います。
ミュールは後ろへ下がっていた。
暗い路地へ。
俺たちから離れる方向へ。
そして追手たちが、当然のように彼女を囲む。
一人で終わらせる。
その言葉の意味を、彼女は軽く考えていない。
むしろ、重すぎるほどわかっている。
自分が危険なら離れる。
自分が迷惑なら消える。
自分が追われるなら、一人で追われる。
たぶん、それがミュールの中で一番慣れた選択なのだ。
俺は息を吸った。
「ミュール!」
名前を呼ぶ。
命令ではない。
制止でもない。
ただ、名前を呼ぶ。
ミュールの耳が、わずかにこちらへ向いた。
だが、足は止まらない。
「来ないで」
彼女は繰り返した。
「ミュールは、ひとりで終わらせる」
「勝手に終わらせるな!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
ミュールの足が止まる。
追手たちも一瞬だけ動きを止めた。
セリアが盾を構えたまま、横目で俺を見る。
俺は続けた。
「命令はしない。でも、勝手に自分を捨てるなら怒る」
ミュールの目が揺れた。
「怒る」
「ああ、怒る」
「首輪を焼かない怒る?」
「焼かない。殴らない。売らない。でも怒る」
追手の一人が笑った。
「なんだ、その甘い主人ごっこは」
「主人じゃない」
セリアが低く言った。
「貴様らには理解できないだろうがな」
言い終わる前に、彼女は動いていた。
正面の追手が短剣を構える。
セリアは盾を前へ出し、受けるのではなく押した。
盾の面で相手の視界を奪い、踏み込む。
剣ではなく、盾の縁で胸を打つ。
男の息が詰まった。
その隙に、俺は左へ走る。
戦闘で正面から役に立つつもりはない。
俺ができるのは、場を崩すことだ。
路地の端に積まれていた空き樽。
昼間なら邪魔なだけのもの。
だが、今は壁になる。
俺は樽の縄をほどき、足で蹴った。
転がった樽が、井戸の横を抜けようとした追手の足元へ転がる。
「ちっ」
男が避ける。
避けた先には、さっき倒した水桶の水が広がっている。
滑る。
ほんの一瞬。
それで十分だった。
ミュールの鎖が走る。
男の足首に絡み、引いた。
男が背中から倒れる。
ミュールは反射的に刃を喉へ向けた。
「殺すな!」
俺は叫びかけて、喉で止めた。
違う。
それでは命令になる。
俺は言い直した。
「ミュール、殺さなくても止められる!」
彼女の刃が、喉の直前で止まった。
ほんの紙一枚の距離。
追手の男の目が見開かれる。
ミュールは無表情のまま、刃の柄で男の顎を打った。
鈍い音。
男は意識を失う。
殺していない。
俺は短く息を吐いた。
だが、安堵するには早い。
屋根から降りた追手が、俺の背後へ回っていた。
「雑用係風情が、よく動く」
背筋に冷たいものが走る。
振り返るより早く、セリアの声が飛んだ。
「伏せろ!」
俺は考える前に地面へ転がった。
頭上を短剣が通る。
次の瞬間、セリアの盾が追手の腕を弾いた。
金属音。
追手はそのまま後ろへ跳ぶ。
身軽だ。
セリア相手でも正面からは打ち合わない。
「元聖騎士の動きじゃないな。奴隷落ちして鈍ったかと思ったが」
セリアの目が冷える。
「貴様の期待に応えられず残念だ」
彼女は踏み込む。
追手は退く。
その足元へ、俺は背嚢から取り出した粉を投げた。
乾燥させた眠り草ではない。
眠らせるほどの量はない。
ただ、目に入れば痛い。
追手が顔をそむける。
セリアの盾が腹へ入った。
男が膝をつく。
「小細工が多いな」
「雑用係だからな」
二度目の返しに、男は舌打ちした。
残る一人。
爪印に指を当てた、隊長格らしい男だ。
彼は倒れた仲間を見ても、動揺していなかった。
むしろ、ミュールだけを見ている。
「殺さなかったか」
その声は楽しそうだった。
「本当に失敗作になったな」
ミュールの肩が小さく跳ねる。
男は続けた。
「あの時もそうだ。文官一人を始末するだけの仕事で、子供が泣いた程度で止まった。標的を殺せず、証文を持つ者たちの顔まで見た。だから売られた。なのに、まだ刃のつもりか」
ミュールの耳が伏せる。
子供が泣いた。
あの夜に聞いた、意味を結ばなかった言葉たちが、いま一つの形を取る。
彼女は殺せなかったのだ。
殺さなかったのではなく、殺せなかった。
それを失敗と呼ばれた。
俺は拳を握る。
「それは失敗じゃない」
男が俺を見た。
「部外者が何を知る」
「何も知らない。だが、子供が泣いた場所で手を止めたことを、失敗とは呼ばない」
「甘い」
「甘くて結構だ」
男が短く笑った。
「なら、甘さごと刈る」
彼は指を鳴らした。
ミュールの首輪が黒く光る。
「っ、あ」
ミュールが膝をつく。
首輪の内側、爪の印が反応している。
命令権ではない。
古い調教の信号。
彼らは所有者ではない。
だが、首輪へ仕込まれた痛みの道筋を知っている。
「ミュール!」
俺は駆け寄ろうとする。
男が短剣を投げた。
セリアが盾で弾く。
「レオン、首輪を!」
「わかってる!」
俺は背嚢を探る。
完全な解呪はできない。
だが、痛みの流れを鈍らせる薬なら作ったばかりだ。
小瓶を取り出す。
問題は距離だ。
ミュールは男のすぐ近くにいる。
俺が近づけば狙われる。
セリアは隊長格を牽制している。
なら、使うのは地形だ。
井戸。
俺は井戸の縁へ走り、小瓶を布で包む。
洗濯縄の残りを結びつけ、振り子のように投げた。
小瓶は弧を描き、ミュールの近くへ落ちる。
「割れ!」
命令ではない。
いや、瓶への命令だ。
小瓶が石畳に当たり、割れた。
薬液が広がる。
薄い煙が立つ。
首輪の刻印を直接消すものではない。
だが、魔力の通りを濁らせる薬だ。
ミュールが息を吸う。
首輪の光が少し弱まった。
「何をした」
男の声に初めて苛立ちが混じった。
「応急処置だ」
「雑用係が」
「だから雑用係だって言ってるだろ」
俺は立ち上がる。
足が震えていた。
怖い。
当然だ。
だが、ミュールはまだ膝をついたままだ。
彼女の手が、喉元の刃へ伸びかけている。
自分を切ってでも、追手に渡らないつもりか。
「ミュール」
俺は静かに呼んだ。
彼女の耳が動く。
「命令はしない」
ミュールは顔を上げた。
「でも、君が必要だ」
その言葉に、彼女の目が揺れる。
「役に、立つから?」
「役に立つ。君の力は必要だ」
俺ははっきり言った。
ここで綺麗事だけを言っても届かない。
彼女は力を持っている。
それをなかったことにはしない。
「でも、役に立つから置くんじゃない」
ミュールは呼吸を止めたように見えた。
「君がここにいることと、君がどれだけ使えるかは別だ」
「別」
「そうだ」
「わからない」
「今はわからなくていい。こっちへ戻れ」
言ってから、俺は首を振った。
「いや、戻ってほしい」
ミュールはじっと俺を見ていた。
その背後で、男が短剣を構える。
「迷うな、失敗作」
ミュールの耳が伏せかける。
俺は声を重ねた。
「ミュール!」
名前だけを呼ぶ。
命令ではなく。
所有者としてではなく。
ただ、彼女の名前を呼ぶ。
ミュールの目が、男から俺へ戻った。
次の瞬間、彼女は低く跳んだ。
男の短剣をかわし、足元へ潜る。
刃が光る。
喉ではない。
手首でもない。
男の足の腱を浅く裂き、次に鎖で腕を縛る。
殺していない。
だが、動けない。
男が膝をつく。
「貴様……」
ミュールは男の首へ刃を当てた。
また、紙一枚の距離。
俺は何も言わなかった。
止めたい。
だが、ここで命令すれば、彼女の判断を奪う。
セリアも動かない。
盾を構えたまま、ミュールを見ている。
ミュールの刃が震えた。
追手の男は笑った。
「殺せ。そうすれば戻れる。お前は刃だ」
ミュールは小さく息を吐いた。
「ミュールは」
刃が離れる。
「今日は、止めるだけにする」
柄が男のこめかみに入った。
男は崩れ落ちる。
広場に、静けさが戻った。
遠くで犬が吠える。
誰かが窓を開け、すぐに閉める音がした。
俺は力が抜け、その場に座り込みそうになった。
なんとか踏みとどまる。
セリアが倒れた追手たちを縛る。
手際がいい。
騎士だった頃の経験だろう。
ミュールは立ったままだった。
肩で息をしている。
顔色が悪い。
首輪の痛みが残っているのだ。
「大丈夫か」
俺が近づくと、彼女は一歩下がろうとした。
だが、途中で止まる。
「大丈夫じゃない」
意外な答えだった。
正直な答えだ。
「じゃあ、宿へ戻ろう」
「戻っていい?」
「いい」
「命令じゃない?」
「違う」
「ミュールが戻るって選んだら」
「一緒に戻る」
ミュールはしばらく黙った。
そして、小さく頷いた。
「じゃあ、まだ近くにいる」
その言葉は、約束というには弱い。
信頼というには遠い。
けれど、檻から出たばかりの彼女が、自分で選んだ言葉だった。
セリアが追手の懐を探っていた手を止める。
「レオン、これを見ろ」
彼女が取り出したのは、小さな金属片だった。
印章だ。
黒い爪の印。
そして、その裏に赤い鎖を模した商会印。
赤鎖。
夜爪。
さらにもう一つ。
貴族家の紋章らしき鳥の印が刻まれている。
ミュールがそれを見た瞬間、顔色を変えた。
今度ははっきりと。
「それ」
声がかすれる。
「ミュールを売った人たちの印」
俺は印章を握った。
奴隷市場の奥に、もっと大きなものがある。
暗殺組織。
奴隷商会。
貴族。
そして、首輪に刻まれた爪の術式。
セリアの所有者認証とも、どこかで繋がっているのかもしれない。
「戻ろう」
俺は言った。
「今夜はここまでだ」
ミュールは俺を見た。
「明日は?」
「明日は、飯を食べて、寝不足を怒って、それから考える」
「また怒る」
「怒る」
ミュールの尾の先が、小さく揺れた。
ほんの一瞬。
彼女はまだ笑わない。
懐いたわけでもない。
信じたわけでもない。
それでも、俺たちへ背を向けて消えることはしなかった。
ミュールは自分の足で、俺たちの近くへ戻ってきた。
命令ではなく。
名前を呼ばれて。




