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第024話 夜の追跡者

ミュールを売った暗殺組織が、彼女を回収するために動き出します。

今回は夜の路地での追跡と対峙です。

 ミュールが眠ったのは、ほんの半刻ほどだった。


 椅子に座ったまま、背もたれに体を預けず、膝の上に鎖を置き、いつでも動ける姿勢で目を閉じていた。


 それでも、眠りは眠りだ。

 呼吸がわずかに深くなり、耳の動きが鈍くなる。


 セリアは扉の横で見張っていた。

 俺は机に向かい、首輪の痛みを抑える薬を小瓶へ移していた。


 外は夜だ。

 窓の向こうで、ラグノールの灯が少しずつ消えていく。

 昼の市場の喧騒は遠く、代わりに馬小屋の物音と、酔った冒険者の笑い声が薄く聞こえた。


 静かだった。


 静かすぎた。


 ミュールの耳が、ぴくりと動いた。


 次の瞬間、彼女の目が開いた。


 眠りから覚めたばかりの目ではない。

 最初から起きていたような、冷たい黄緑色の瞳。


「来た」


 小さな声だった。


 セリアが扉から離れずに問う。


「誰が」


 ミュールは答えない。

 椅子から音もなく降りる。

 鎖を手に取り、床へ触れさせないように持ち上げた。


「ミュール」


 俺が呼ぶと、彼女は振り返った。


「寝てて」


「それは無理だ」


「レオンは傷がある」


「浅い」


「浅くても血の匂いがする」


「君も薬を飲んだばかりだ。動く状態じゃない」


「動ける」


 即答。


 だが、俺は彼女の足を見ていた。

 左足に体重が乗りきっていない。

 毒の後遺症か、疲労か。

 本人は隠しているつもりだろうが、動きの端に出ている。


「戦える状態と、戦わせていい状態は違う」


 あのとき彼女に言った言葉を、もう一度言う。


 ミュールの耳が少し伏せた。


「でも、来た」


「だから一人で行くのか」


「ミュールの匂いを追ってきた。なら、ミュールが離れればいい」


 セリアの眉が動く。


「貴女を回収しに来た相手だな」


 ミュールは答えなかった。


 沈黙が答えだった。


「どこにいる」


「屋根。裏路地。井戸の影」


 三人。

 それを聞いた瞬間、背筋が冷えた。


 この宿は安い。

 壁は厚くない。

 窓の鍵も丈夫ではない。

 中で籠もれば、他の客を巻き込む。


「逃げ道は」


「裏口から出る。ミュールが西へ走る。追ってくる。二人は朝までここにいる」


「それで君はどうする」


「終わらせる」


 あまりにも平坦な声だった。


 自分の命を数に入れていない声。


 俺は薬瓶を机に置いた。


「却下だ」


 ミュールが瞬きする。


「命令?」


「違う。反対意見だ」


「聞かなくていい?」


「聞かなくてもいい。ただ、聞かなければ俺たちは追う」


 ミュールの尾が止まる。


「来たら邪魔」


「それでも追う」


「死ぬかもしれない」


「だから作戦を立てる」


 セリアが頷いた。


「私も行く。追手を宿に近づけるわけにはいかない」


 ミュールは二人を見た。

 困惑。

 苛立ち。

 少しだけ怯え。


 表情は薄いが、耳と尾が全部語っている。


「変」


「七回目だ」


 俺が返すと、ミュールは唇をわずかに結んだ。


 次の瞬間、窓が軋んだ。


 外からではない。

 屋根の上で、誰かが体重を移した音だ。


 ミュールの反応は速かった。

 彼女は机の上の布を掴み、窓へ投げる。

 同時に床を蹴った。


「ミュール!」


 俺の声より早く、彼女は窓枠へ飛び乗っていた。


 セリアが動く。

 だが、止めるには一歩遅い。


「来ないで」


 ミュールは振り返らずに言った。


「ミュールの失敗。ミュールが片づける」


 そして夜へ消えた。


 窓の外で、屋根瓦が軽く鳴る。

 次に、裏路地へ降りる音。

 さらに遠ざかる足音。


 俺は背嚢を掴んだ。


「追う」


「当然だ」


 セリアはすでに盾を持っていた。


 俺たちは階段を駆け下り、帳場の男へ銀貨を一枚投げた。


「壁は壊してない!」


「何の話だ!」


「たぶん、あとでわかる!」


 返事を待たずに裏口から外へ出る。


 夜のラグノールは昼と別の街だ。

 商店の戸は閉まり、狭い路地に水の匂いが溜まっている。

 遠くの酒場だけが明るい。

 その明かりも、この裏通りまでは届かない。


 セリアが先に角を確認する。


「足跡は」


「こっちだ」


 俺は路地の泥を見た。

 ミュールの足跡は浅い。

 だが、左足だけわずかに滑っている。


 やはり万全ではない。


「走れるか」


「問題ない」


 セリアは盾を抱え直した。

 重装ではないが、騎士の走り方だ。

 無駄が少なく、呼吸が乱れない。


 俺はその後ろを追う。

 正直、速さでは二人に劣る。

 だが、路地の構造は昼間の雑用で覚えている。


 薬草屋。

 井戸。

 空き樽の並ぶ裏手。

 乾いた洗濯縄。

 行き止まりに見えて、犬が通る抜け穴がある壁。


 戦うためではなく、働くために覚えた道だ。

 今はそれが役に立つ。


 角を二つ曲がったところで、金属が触れる音がした。


 セリアが手を上げる。

 俺たちは壁際に身を寄せた。


 声が聞こえる。


「逃げ足だけは残っているな、失敗作」


 男の声。

 低く、笑いを含んでいる。


「商品に傷をつけるなよ。上は回収しろと言っている」


「買われた後でもか」


「買われたからだろう。赤鎖に渡した証文ごと消せば、面倒は残らない」


 赤鎖。

 証文。

 消す。


 俺は息を殺した。


 奴隷商会と暗殺組織は、やはり繋がっている。


 路地の先、井戸のある小さな広場にミュールが立っていた。


 月明かりの下で、銀灰色の耳が揺れる。

 鎖を片手に持ち、もう片方の手には細い刃。


 彼女を囲む影が三つ。


 一人は屋根の上。

 一人は井戸の影。

 一人は路地の出口。


 全員、黒い外套をまとっている。

 顔は布で隠しているが、首元に爪の印が見えた。


「夜爪……」


 セリアが小さく呟く。


 名前を聞いたことがあるのだろう。


 ミュールの耳がこちらへ向きかけ、すぐに戻る。

 俺たちが来たことに気づいている。

 それでも振り返らない。


「来ないで」


 彼女は低く言った。


 追手の一人が笑う。


「おや、買い主が来たのか。ずいぶん情の深い主人だ」


 ミュールが刃を握り直す。


「主人じゃない」


「首輪がついているなら主人だ」


「違う」


「なら何だ」


 ミュールは答えなかった。


 答えを持っていないのだ。


 その沈黙を、追手は愉快そうに受け取った。


「失敗作にはお似合いだな。命令も受けず、役目も果たせず、買い主の言葉一つで迷う」


 ミュールの尾が低くなる。


 俺は一歩踏み出しかけた。

 セリアが腕で制する。


「まだだ。位置を崩してからだ」


 冷静な判断だった。


 屋根の上の男が短い笛を吹く。

 高い音。


 ミュールの首輪が黒く光った。


「っ」


 彼女の膝がわずかに折れる。


 位置把握だけではない。

 古い命令信号が残っている。


「動きが鈍った」


 井戸の影の男が前へ出る。


「大丈夫だ、殺しはしない。もう一度、使えるように削り直してやる」


 ミュールが鎖を振った。

 男の腕へ絡む。

 速い。

 だが、いつもの鋭さではない。


 屋根の男が投げ針を放つ。


「セリア!」


「任せろ!」


 セリアが飛び出した。

 盾が夜気を裂き、投げ針を弾く。


 金属音が広場に響いた。


 追手たちの視線が一斉にこちらへ向く。


「元聖騎士か」


「面倒なのが増えたな」


 俺は広場の端へ走りながら、背嚢から小瓶を取り出した。

 中身は眠り薬ではない。

 鍛冶屋で油汚れを浮かせるために作った刺激臭の強い溶剤だ。


 地面へ叩きつける。


 瓶が割れ、鼻を刺す匂いが広がった。


 獣人のミュールにはきつい。

 だが、それ以上に匂いで追跡している相手の感覚を乱せる。


 ミュールが一瞬だけ顔をしかめた。

 俺は叫ぶ。


「三呼吸だけ我慢しろ!」


「命令?」


「頼みだ!」


「……わかった」


 ミュールが短く答えた。


 その一言に、俺はなぜか少しだけ胸を突かれた。


 頼みを聞いた。

 命令ではなく。


 だが、喜ぶ暇はない。


 屋根の男が跳んだ。

 セリアの背後へ回り込もうとする。


 俺は洗濯縄を切った。

 昼に見た、古い縄だ。

 乾いた布と木の留め具が落ち、男の視界を塞ぐ。


「小細工を!」


「雑用係だからな!」


 俺は樽の陰へ転がり込む。

 直後、投げ針が樽に刺さった。


 セリアが正面の一人を盾で押し返す。

 ミュールは井戸の影の男と鎖を絡ませたまま、低く身を沈めていた。


 だが、足が鈍い。

 左足がまた滑る。


 追手は見逃さなかった。


「そこだ」


 短剣がミュールの肩へ向かう。


 彼女は避けきれない。


 俺は手元の石を投げた。

 狙いは男の顔ではない。

 足元の水桶だ。


 石が桶を倒し、水が広がる。

 男の足が滑った。


 刃の軌道がずれる。

 ミュールの肩ではなく、外套だけを裂いた。


 ミュールが俺を見る。


 驚いた顔。

 いや、表情はほとんど変わらない。

 だが、耳が完全にこちらを向いていた。


「見てる場合か!」


 俺が叫ぶと、彼女はすぐに視線を戻した。


 鎖を引く。

 男の体勢が崩れる。


 セリアが踏み込み、盾の縁で別の男の手首を打った。


 骨が鳴る。

 男が短剣を落とす。


 だが、追手はまだ退かない。


 屋根から降りた男が、首元の爪印に指を当てた。


「回収不能なら、傷を増やしてでも持ち帰る」


 その言葉に、ミュールの体が強張った。


 恐怖。

 初めて、はっきり見えた。


 彼女は後ずさる。

 俺たちからではない。

 追手からでもない。

 広場の外、暗い路地へ。


 一人で逃げ、そこで終わらせるつもりだ。


「ミュール!」


 俺が呼ぶ。


 彼女は振り返らない。


「来ないで」


 声が震えていた。


 ほんの少しだけ。


「ミュールは、ひとりで終わらせる」


 その言葉と同時に、三人の追手が動いた。


 ミュールを囲む輪が狭まる。


 セリアが盾を構え直す。

 俺は息を吸った。


 命令では届かない。

 優しいだけでも届かない。


 彼女は自分を捨てることに慣れすぎている。


 なら、次に必要なのは、止める言葉だ。


ミュールは、自分を捨てることに慣れすぎています。

だからこそ、次に必要なのは命令ではなく、止めるための言葉です。

次回、レオンは彼女の名前を呼びます。

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