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第023話 匂いと嘘

ミュールがレオンたちをどう見ているのか、そして彼女に残された傷が見えてくる回です。

命令ではなく信頼へ向かうには、まだ距離があります。

 宿へ戻るまで、ミュールは一度も俺たちの隣に並ばなかった。


 俺の半歩後ろ。

 セリアの視界にも入る位置。

 逃げるにも、俺の背中へ刃を届かせるにも都合のいい距離。


 歩き方に無駄がない。

 足音が薄い。

 鎖を自分で持っているのに、金属音をほとんど鳴らさない。


 道具として鍛えられた者の技術だ。

 俺はすぐに自分の考えを訂正した。


 違う。

 ミュールの技術だ。

 誰かに道具として扱われたからといって、彼女自身まで道具になるわけではない。


「レオン」


 セリアが小声で呼んだ。


「喉の傷は」


「浅い。血は止まっている」


「宿へ着いたら先に処置しろ」


「わかっている」


 後ろで、ミュールの耳が動いた。


「怒ってる?」


 彼女が尋ねた。


 主語がない。

 俺に聞いているのか、セリアに聞いているのか、あるいは空気そのものに聞いているのか。


「私は怒っている」


 セリアが先に答えた。


 ミュールは足音を変えずに言う。


「命令を待ってる?」


「待っていない」


「じゃあ、どうして怒るの」


「貴女がレオンを傷つけたからだ」


「浅い」


「深さの問題ではない」


 セリアの声は低いが、剣には手をかけていない。


 それがミュールには不思議らしい。

 彼女の尾の先が、小さく右へ揺れた。


「変」


「貴女に言われるほどではない」


「ミュールは変?」


「かなり」


 セリアが真顔で答えた。


 ミュールはしばらく黙った。

 怒ったのかと思ったが、そうではない。

 耳がわずかに立っている。


「変、なのに売り戻さない?」


「売り戻さない」


 俺が答えると、彼女は俺を見た。


「レオンはまだ聞いてない」


「何を」


「ミュールが何をしたか」


「聞きたいとは思っている」


「聞いたら売るかもしれない」


「聞かなくても売らない」


「嘘」


 即答だった。


 俺は振り返る。


 ミュールは無表情だった。

 だが、鼻先がわずかに動いている。

 匂いを読んでいる。


「嘘の匂いがしたか」


「少し」


「そうか」


 セリアが眉を寄せる。


「レオン」


「たぶん、俺も全部はわかっていないんだ」


 俺は正直に言った。


「売らないつもりでいる。でも、君が何をしてきたかを聞くのは怖い。俺がどう受け止めるかわからない。それを隠そうとした匂いかもしれない」


 ミュールは目を細めた。


「怖いって、また言った」


「怖いものは怖い」


「買い主は言わない」


「俺は言う」


「弱く見える」


「実際、君より弱いところは多い」


 ミュールは首を傾げた。


「じゃあ、どうして前を歩くの」


「宿の場所を知っているから」


「それだけ?」


「それだけだ」


 今度はミュールが黙った。


 宿の看板が見えてくる。

 俺がこの街へ来てから使っている安宿だ。


 ただし、獣人の暗殺者を連れて戻れば、さすがに目立つ。


 案の定、帳場の男は俺たちを見るなり固まった。


「……増えたな」


「一人分、追加で頼む」


「奴隷か」


「仲間になるかもしれない人だ」


 帳場の男は俺の喉の傷を見て、ミュールを見て、セリアを見た。


「面倒は部屋の中で収めてくれよ。壁を壊したら弁償だ」


「努力する」


「努力じゃ困るんだが」


 男はそう言いながら、桶と布を出してくれた。


「血を垂らすな。廊下の掃除が面倒だ」


「助かる」


「礼はいらん。掃除代を増やしたくないだけだ」


 ミュールは帳場の男をじっと見ていた。


「あの人、嘘が少ない」


「そうだな」


「でも、怖がってる」


「それもそうだ」


「怖いのに水をくれた」


「そういう人もいる」


 ミュールは理解できないという顔をした。

 表情はほとんど動かない。

 それでも、俺には少しだけわかるようになってきた。


 耳が立つ。

 尾の先が止まる。

 視線が一点に残る。


 彼女は考えている。


 部屋へ入ると、セリアがすぐに扉の横へ立った。


 ミュールは部屋の中央に立ち、最初に窓を見た。

 次に天井。

 床板。

 寝台の下。

 水差し。

 俺の背嚢。

 セリアの剣。


 やはり、逃げ道と武器になるものを数えている。


「座ってくれ」


 俺が椅子を指すと、ミュールは聞き返した。


「命令?」


「頼みだ。立ったままでもいいが、診るなら座ってくれたほうが助かる」


「診る」


「毒の痕と、首輪と、傷。問題があれば処置する」


「レオンの喉が先」


 意外な言葉だった。


 俺だけでなく、セリアも少し目を見開いた。


 ミュールは不思議そうにする。


「血の匂いがする。先に止めないと、追跡される」


「ああ、そういう理由か」


「他に理由がいる?」


「いや。正しい」


 俺は桶の水で布を濡らし、喉の傷を拭った。

 浅い。

 刃の先が皮膚を裂いただけだ。

 薬草軟膏を塗れば十分だった。


 セリアが腕を組んで見ている。


「本当に浅いな」


「だから言っただろ」


「浅く切る技術がある、という意味でもある」


 セリアの視線がミュールへ向く。


 ミュールは椅子に座らず、壁際に立っていた。


「殺すつもりなら、深くした」


「だろうな」


 俺は頷いた。


「でも、浅くても傷は傷だ。次に同じ試し方をしたら怒る」


 ミュールの耳がぴくりと跳ねた。


「また怒るって言った」


「言った」


「どう怒るの」


「まず理由を聞く。それから危ないと言う。必要なら止める」


「叩く?」


「叩かない」


「首輪を使う?」


「使わない」


「売る?」


「売らない」


 ミュールは黙る。


 あまりに長く黙るので、俺は少し不安になった。


「どうした」


「怒るの意味がわからない」


 その声は、今までで一番小さかった。


「ミュールが知ってる怒るは、叩く、縛る、罰を入れる、食事を減らす、暗い箱に入れる、首輪を焼く」


 セリアの手が、盾の革紐を強く握った。


 俺はすぐに言葉が出なかった。


 ミュールは淡々と続ける。


「それ以外の怒るは、知らない」


「なら、覚えなくていい怒りも多い」


 ようやく俺は言った。


「少なくとも、俺が言っている怒るはそれじゃない」


「じゃあ何」


「自分を粗末にしたら止める、という意味だ」


「粗末」


「君が自分を壊してもいい道具みたいに扱うなら、俺は怒る」


 ミュールの尾が止まった。


 完全に。


「道具は、壊れたら替える」


「君は道具じゃない」


「でも、使える」


「使えることと、道具であることは違う」


 ミュールは俺を見ていた。


 黄緑色の瞳に、理解はまだない。

 だが、拒絶だけでもない。


「わからない」


「すぐわからなくていい」


「わからないままだと、失敗する」


「失敗しても、全部が終わるわけじゃない」


 その瞬間だった。


 ミュールの耳が伏せた。


 ほんの一瞬。

 だが、明確に。


「失敗」


 彼女が呟いた。


「ミュールは、失敗作」


 部屋の空気が重くなる。


 セリアは何も言わない。

 俺も、急かさなかった。


 ミュールは自分の左手首を見た。

 そこには古い傷が幾つも走っている。

 訓練の傷。

 拘束の傷。

 自分でつけたものではない傷。


「殺せなかった」


 短い断片。


 俺は息を止めかけた。


「誰を」


 ミュールは首を振った。


「子供が泣いた」


 それ以上は言わなかった。


 だが、十分だった。


 任務。

 暗殺。

 標的。

 そこに子供がいた。

 ミュールは殺せなかった。

 だから失敗作と呼ばれ、売られた。


 推測にすぎない。

 だが、彼女の耳は伏せたままだった。


「話したくなければ、今はいい」


 俺が言うと、ミュールは顔を上げた。


「聞かないの」


「聞きたい。でも、無理に吐かせるつもりはない」


「命令なら話す」


「命令しない」


「知ったほうが便利」


「便利さだけで聞かない」


「変」


「五回目だな」


 ミュールは少しだけ瞬きをした。

 笑ったわけではない。

 けれど、さっきより部屋の空気がわずかに緩んだ気がした。


「診てもいいか」


 俺は改めて尋ねた。


「毒の痕と首輪だけだ。嫌なら止める」


 ミュールは俺を見た。

 それからセリアを見る。


「騎士は見張る?」


「見張る」


 セリアが答える。


「ただし、貴女を押さえつけるためではない。レオンが妙なことをしないかも見る」


「レオンを?」


「そうだ」


「戦友なのに?」


「戦友だからだ」


 ミュールはまた首を傾げた。


「戦友、難しい」


「私もまだ学んでいる」


 セリアの声が少しだけ柔らかくなった。


 ミュールはようやく椅子へ座った。

 ただし、背もたれには体を預けない。

 片足は床を踏み、もう片方はいつでも蹴り出せる角度。

 手は膝の上にあるが、指先に力が入っていない。


 逃げる準備、刺す準備、耐える準備。

 それらが同じ場所にある。


 俺はまず首輪を診た。


 黒鉄の首輪。

 奴隷契約の刻印。

 その内側に、細い線で爪の印が彫られている。


 外側からは見えにくい。

 だが、肌に触れる内側へ、わざと傷のように刻んである。


「この印は、前の持ち主か」


 ミュールの耳がわずかに倒れる。


「名前を言うと、来る」


「来る?」


「匂いを追ってくる」


 セリアが扉の外へ意識を向けた。


「組織か」


 ミュールは答えない。

 答えないことが、答えだった。


 俺はそれ以上聞かず、首輪の魔力の流れを探った。


 強制命令。

 罰。

 位置把握らしき微弱な術式。


 神殿由来の聖印ではない。

 もっと細く、隠れることに特化した術式だ。


「すぐには外せない」


 俺は正直に言った。


「無理にいじると、位置を知らせるかもしれない」


「知ってる」


「なら、しばらくは刺激しない。代わりに痛みを抑える薬を作る」


「痛くない」


「嘘」


 俺が言うと、ミュールが目を丸くした。


「匂い、読めるの?」


「読めない。でも、首の筋肉がずっとこわばっている。痛くない人の反応じゃない」


 ミュールは少し不満そうにした。


「便利じゃない」


「観察だ」


「それも便利」


「まあ、そうだな」


 俺は毒の痕も確認した。

 腕の内側。

 太もも。

 脇腹。

 細い針痕が多い。


 毒に慣らす訓練。

 解毒剤の投与。

 あるいは、抵抗を奪うための薬。


 体の中に残っている濁りは薄いが、完全には抜けていない。

 睡眠不足と栄養不足もある。


「今日は戦えない」


 俺が言うと、ミュールはすぐに返した。


「戦える」


「戦える状態と、戦わせていい状態は違う」


「命令があれば戦う」


「命令はない」


「じゃあ、何をする」


「飯を食べる。薬を飲む。寝る」


「寝ている間に殺される」


「俺とセリアが交代で起きる」


 セリアが頷いた。


「私が先に見張る。レオンは薬を作ったら寝ろ」


「いや、俺も」


「貴殿は喉を切られたばかりだ」


「浅いって」


「浅くても傷は傷だ」


 さっき自分が言った言葉を返され、俺は黙るしかなかった。


 ミュールが俺とセリアを見比べる。


「命令してないのに、言うこと聞く」


「聞いたほうが正しいと思ったからな」


「それも戦友?」


「たぶん」


 ミュールは膝の上の鎖を見た。


 しばらくして、小さく言う。


「ミュールは、寝ないほうが役に立つ」


「役に立つためにここにいるんじゃない」


「役に立たないと、置いていかれる」


「置いていかない」


「また少し嘘」


 彼女は鼻先を動かした。


「レオンは、困ってる。怖い。どうしたらいいかわからない。だから、少し嘘」


「その通りだ」


 俺は認めた。


「困っている。怖い。どうすれば君が安心するのか、まだわからない。でも、売り戻す気はない」


 ミュールは黙った。


 やがて、耳がほんの少しだけ立った。


「最後は、少ない」


「嘘が?」


「うん」


 それだけ言って、ミュールは目を伏せた。


 眠いのだ。

 限界に近い。

 それでも寝ることを恐れている。


 俺は薬草をすり潰しながら言った。


「危ないことをしたら怒る」


 ミュールの耳が動いた。


 大きくではない。

 だが、確かに。


「寝ないのも?」


「必要な時に眠らないのは、危ない」


「怒る?」


「怒る」


 ミュールはしばらく考え込んだ。


 そして、椅子の上で膝を抱えるでもなく、背を丸めるでもなく、ただ少しだけ肩の力を抜いた。


「怒られるの、わからない」


「少しずつでいい」


「でも、首輪は焼かない?」


「焼かない」


「箱に入れない?」


「入れない」


「食事は減らさない?」


「むしろ増やす」


 ミュールはそこで初めて、ほんのわずかに眉を動かした。


「それは、罰?」


「違う。栄養だ」


 セリアが横を向いた。

 笑いを堪えたのかもしれない。


 ミュールはまだ納得していない顔だったが、薬を受け取った。

 匂いを嗅ぎ、少し舐め、毒ではないと判断してから飲む。


「苦い」


「効く薬はだいたい苦い」


「嘘」


「今のは少し嘘だ。甘い薬もある」


「やっぱり」


 ミュールはそう言って、目を閉じかけた。


 すぐに開く。


 眠るのが怖い。


 俺はそれ以上何も言わなかった。

 ただ、机の上に水を置き、鎖が床で鳴らないよう布を敷いた。


 セリアは扉の横に立つ。

 盾を壁に預け、剣に手をかけず、しかしいつでも動ける姿勢。


 ミュールは俺たちを順番に見た。


「命令じゃないのに、見張る」


「そうだ」


「変」


「六回目だ」


 ミュールの尾の先が小さく揺れた。


 笑った、のかもしれない。

 まだそう呼ぶには早すぎる。


 だが、少なくとも彼女は椅子から立たなかった。


 檻にも戻らなかった。

 眠ることを怖がりながら、それでも目を閉じた。


 そして俺は、首輪の内側に刻まれた爪の印を思い出していた。


 名前を言うと、来る。


 匂いを追ってくる。


 ミュールはそう言った。


 なら、彼女を売った連中は、もうこちらを見失っていないのかもしれない。


 夜は、まだ始まったばかりだった。


ミュールは眠ることを怖がりながら、それでも檻ではない場所で目を閉じました。

けれど、彼女を売った暗殺組織はもう近くまで来ているかもしれません。

次回、夜の追跡者が動き出します。

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