第022話 買ったなら命令して
銀灰色の獣人斥候ミュールとの出会いの章です。
奴隷市場や暗殺組織の描写がありますが、主人公は彼女を命令で縛らず、名前を呼ぶことで向き合います
ミュールの値段は、セリアの時より安かった。
理由は、奴隷商が何度も繰り返した。
危険商品。
返品不可。
負傷しても自己責任。
命令権の即時行使を推奨。
まるで刃こぼれした短剣を売る時の注意書きだ。
だが、檻の中にいるのは短剣ではない。
銀灰色の耳を持つ、無表情な獣人の女だ。
「買うなら今だぞ、兄ちゃん」
奴隷商は鍵束を揺らした。
「正直、こいつは商会でも持て余してる。暗殺用の奴隷を欲しがる貴族に回す手もあるが、運ぶ途中で護衛を噛まれても困る。あんたが引き取るなら安くする」
引き取る。
便利な言葉だ。
売る側はいつも、自分が面倒を処分しているだけだという顔をする。
「証文を見せてくれ」
俺が言うと、奴隷商は少しだけ顔をしかめた。
「疑り深いな」
「前にも、正規の証文で仕入れたと言っていた」
「実際そうだ」
「だから見る」
奴隷商は舌打ちしながら、丸めた羊皮紙を出した。
所有権移転証。
奴隷商会《赤鎖》の印。
その前の所有者欄には、個人名ではなく、黒い爪のような印が押されている。
夜爪。
文字ではない。
だが、印からそう読ませるような形だった。
俺は羊皮紙を見つめる。
ミュールの耳が、こちらへ向いていた。
彼女は檻の中で動かない。
だが、俺がどこを読んでいるかまで見ている。
「この印は」
「さあな。裏の連中の印だろう。こっちは詮索しない」
「詮索しないと、人が売れるのか」
「詮索する商人は長生きできない」
奴隷商は笑った。
笑えなかった。
セリアが小声で言う。
「どうする」
「買う」
自分でも、もう答えは決まっていた。
セリアは反対しなかった。
ただ、確認するように言う。
「危険だ」
「わかっている」
「彼女自身も、そう言っている」
「それでも檻に置いていく理由にはならない」
セリアは少しだけ息を吐いた。
「貴殿らしい」
「呆れているのか」
「半分は」
「残り半分は」
「私も、置いていけないと思っている」
それだけで十分だった。
俺は金を払った。
セリアの時ほど無理はしていない。
だが、安い買い物ではない。
昨日までに稼いだ報酬と、ガレス工房での手伝い賃の前借りがほとんど消えた。
財布が軽い。
これでまた薬草採取と修理仕事が増える。
それでも、檻の中にいたミュールの視線を見てしまった後では、金の重さだけを理由に背を向けることはできなかった。
奴隷商が鍵を開ける。
檻の扉が軋んだ。
ミュールはすぐには出てこなかった。
檻の中で座ったまま、俺を見ている。
「出ていい」
俺が言うと、彼女は首を傾げた。
「命令?」
「いや、確認だ」
「買ったなら、命令して」
さっきと同じ言葉。
だが、今度は檻の外に出るかどうかの話だ。
「出たいなら出てくれ。出たくないなら、少し待つ」
周囲の見物人が笑った。
「何だそりゃ」
「奴隷に出たいか聞いてるぞ」
「あの兄ちゃん、また変なことしてる」
奴隷商も呆れた顔をした。
「兄ちゃん、そいつに選ばせるな。まず命令しろ。檻から出ろ。俺に従え。殺すな。そういう順番だ」
「その順番は使わない」
「死んでも知らんぞ」
「知っている」
ミュールはまだ俺を見ていた。
やがて、音もなく立ち上がる。
鎖がわずかに鳴った。
小柄だ。
だが、立つと印象が変わる。
重心が低い。
いつでも走れる。
いつでも跳べる。
いつでも刺せる。
檻の扉を抜ける時、彼女は奴隷商の鍵束を見た。
次に、俺の腰の短剣を見た。
セリアの盾。
周囲の出口。
見物人の隙間。
出た瞬間に逃げる経路を、すべて数えている。
「鎖を」
奴隷商が俺へ鎖の端を渡そうとする。
俺は受け取らなかった。
「彼女に持たせる」
「は?」
「必要なら、自分で持てる」
ミュールが鎖を見た。
それから俺を見る。
「持てばいい?」
「持ちたくなければ、俺が腰に結ぶ。ただし引かない」
「変な買い主」
「今日二回目だ」
ミュールは鎖の端を自分で持った。
その動きに、見物人の何人かが後ずさる。
彼女が鎖を武器に使えることを、本能で感じたのだろう。
セリアが俺の隣へ来る。
「このまま宿へ?」
「いや、まず人の少ないところへ出る」
「同感だ」
奴隷市場を出るまで、ミュールは何も言わなかった。
ただ、耳だけが動いている。
右の路地。
後ろの足音。
屋根の上の鳥。
馬車の車輪。
彼女の世界は、音と匂いと視線でできているのかもしれない。
市場の外れ、人通りの少ない路地へ入った。
そこでミュールが足を止める。
「ここなら、試せる」
声は平坦だった。
「何を」
俺が聞いた瞬間、鎖が動いた。
ミュールの手首に繋がっていた鎖が、蛇のように跳ねる。
俺の視界が一瞬遮られた。
次の瞬間、彼女は俺の懐にいた。
速い。
セリアが剣に手をかける。
「動くな」
ミュールの声。
俺の喉元に、薄い刃が当たっていた。
いつ抜いた。
どこに隠していた。
わからなかった。
短剣ではない。
もっと細い。
投げ針に近い刃。
肌に冷たい感触。
少し動けば切れる。
「ミュール」
セリアの声が低くなる。
盾を構えたまま、剣はまだ抜いていない。
ぎりぎりで止めている。
ミュールはセリアを見ない。
俺だけを見ている。
「買ったなら、命令して」
三度目の言葉。
「殺すな。逃げるな。逆らうな。そう言って」
俺は喉元の刃を感じながら、ゆっくり息を吸った。
怖い。
当然だ。
刃が当たっている。
目の前の彼女は、俺を殺せる。
怖くないふりをするのは違う。
「怖い」
俺は正直に言った。
ミュールの耳がわずかに動く。
「なら命令して」
「怖いから命令するのは違う」
「違わない。みんなそうする」
「みんながそうしてきたんだな」
ミュールの瞳が少しだけ細くなった。
踏み込みすぎたか。
だが、引けない。
「殺す気はあるのか」
「命令がなければ、必要なら殺す」
「必要って誰が決める」
「ミュール」
「なら、今必要か」
刃の圧が少しだけ強くなる。
首筋に熱い線が走った。
セリアが一歩踏み出しかける。
「セリア、待ってくれ」
「だが」
「頼む」
セリアは止まった。
歯を食いしばっている。
ミュールの視線が一瞬だけセリアへ向く。
すぐに俺へ戻る。
「命令しないと、そっちの騎士が怒る」
「怒っているのは俺を心配しているからだ」
「心配?」
理解できない、という声だった。
「役に立つから?」
「違う」
「じゃあ、何」
俺は少し考えた。
セリアを見た。
彼女は剣を抜かずに耐えている。
信じている、というより、約束を守ろうとしている。
「戦友だから」
俺が答えると、ミュールの耳が大きく動いた。
今までで一番わかりやすい反応だった。
「戦友」
「そうだ」
「命令しないのに?」
「しないから、戦友なんだと思う」
ミュールは黙った。
刃はまだ喉元にある。
だが、圧は少し緩んだ。
「変」
「それはもう聞いた」
「レオンは、変」
「名前を覚えたのか」
「買い主の名前は覚える。殺す時に困る」
「物騒だな」
「本当のこと」
「なら俺も本当のことを言う」
俺は彼女の目を見た。
「君が俺を殺そうとしたら止める。セリアが止める。必要なら俺も罠でも薬でも使う。でも、最初から君を命令で縛るつもりはない」
「どうして」
「君が命令されることに慣れすぎているから」
ミュールの目が、初めて揺れた。
ほんのわずか。
見間違いかもしれない程度。
「慣れてると、だめ?」
「だめじゃない。生きるために必要だったんだろう。でも、これからもずっとそうである必要はない」
「これから」
「そうだ」
「ミュールに、これから?」
その声は、さっきまでより少しだけ小さかった。
俺は頷く。
「ある」
沈黙。
路地の外から、市場の喧騒が聞こえる。
馬車の音。
遠くの鍛冶場の槌音。
誰かの笑い声。
刃が、ゆっくり離れた。
ミュールは細い刃をどこかへしまう。
動きが速く、やはり場所はわからない。
セリアがようやく息を吐いた。
「次に同じことをすれば、私は止める」
ミュールがセリアを見る。
「命令?」
「警告だ」
「警告」
ミュールはその言葉を味わうように繰り返した。
「命令じゃない?」
「違う。私は貴女の主人ではない」
「じゃあ、何」
セリアは少しだけ考えた。
「今は、見張りだ」
「見張り」
「必要なら盾にもなる」
ミュールはしばらくセリアを見ていた。
「変な騎士」
「それは否定しない」
セリアが真顔で返す。
俺は少しだけ笑いそうになった。
喉元がひりつく。
指で触れると、薄く血がついた。
ミュールがそれを見る。
「切れた」
「少しな」
「怒る?」
「怒るほどじゃない」
「怒らないの?」
「次にやったら怒る」
ミュールの耳が、また動いた。
警戒ではない。
たぶん、困惑だ。
「次」
「ああ。次がある前提で話している」
「……変」
「四回目だ」
ミュールは少しだけ目を伏せた。
表情は変わらない。
だが、尾の先が一度だけ小さく揺れた。
「命令しないなら、ミュールはどうすればいい」
「まず宿へ行く。水を飲む。傷と毒の痕を見る。眠れるなら眠る」
「それは命令?」
「提案」
「提案は、聞かなくてもいい?」
「いい。ただ、聞かなかった結果倒れたら怒る」
「怒るの、好き?」
「好きじゃない」
「でも怒る?」
「必要なら」
ミュールは首を傾げた。
その仕草だけは、年相応に見えた。
「よくわからない」
「俺もまだ、君のことはよくわからない」
「なら、どうして買ったの」
まっすぐな問いだった。
俺は少し考えた。
「檻に入れたままにしたくなかった」
「それだけ?」
「今はそれだけだ」
ミュールはじっと俺を見た。
「嘘の匂いは少ない」
「便利だな、それ」
「便利だから使われた」
短い言葉。
だが、その奥に何かが沈んでいる。
俺は深追いしなかった。
「行こう」
セリアが言う。
「人が集まる」
確かに、市場のほうから数人がこちらを覗き込んでいた。
今の騒ぎを聞きつけたのだろう。
俺たちは宿へ向かって歩き出す。
ミュールは俺の少し後ろを歩いた。
近すぎず、遠すぎず。
いつでも逃げられる距離。
いつでも刺せる距離。
それでいい。
最初から隣に並べるとは思っていない。
ただ、彼女は檻には戻らなかった。
それだけで、今は十分だった。
ミュールは命令を待ちましたが、レオンは命令しませんでした。
まだ隣には並べなくても、彼女は檻には戻っていません。
次回、ミュールの感覚と過去が少しずつ見えてきます。
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