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第021話 檻の中の獣人暗殺者

ここから、銀灰の斥候編です。

奴隷市場で出会うのは、命令で動く道具として扱われてきた獣人暗殺者ミュールです。

 奴隷市場へ向かう道で、セリアは一度も足を止めなかった。


 ただ、いつもより少しだけ歩幅が小さい。

 首元の亀裂入りの首輪は外套で隠していない。

 隠していないからこそ、通りすがる者たちの視線が集まる。


 あの首輪付きは誰だ。

 奴隷ではないのか。

 元聖騎士ではなかったか。


 そんな声が、耳の端に刺さった。


 セリアは表情を変えない。

 だが、盾を持つ左手に少しだけ力が入っている。


「戻るのは、つらいか」


 俺が小声で尋ねると、セリアは前を見たまま答えた。


「つらくないと言えば嘘になる」


「なら」


「だが、目を逸らすほうがつらい」


 彼女は奴隷市場の黒い鉄柵を見た。


「私はあの場所から出た。なら、出た後に何を見るかを選ばなければならない」


 その言葉に、俺は頷いた。


 セリアは昨日、奴隷契約の文字を焼き切った。

 まだ完全に自由ではない。

 所有者認証という得体の知れない術式は残っている。


 それでも、彼女は自分の名前でギルドに登録し、自分の足で奴隷市場へ戻っている。


 それは簡単なことではない。


 奴隷市場《赤鎖》は、今日も変わらず騒がしかった。


 石畳の広場。

 檻。

 値札。

 商人の声。

 見物人の笑い。


 数日前、俺がセリアを見つけた時と同じ匂いがする。

 鉄と汗と、諦めの匂い。


 だが、今日は少し様子が違った。


 広場の奥に人だかりができている。

 見物人たちは楽しんでいるというより、距離を取りながら覗き込んでいた。


「近づくな! 指を持っていかれるぞ!」


 奴隷商の声が飛ぶ。


 その言葉に、周囲がどっと笑った。

 だが笑い声には、怯えが混じっている。


「あれか」


 セリアが低く言う。


「たぶん」


 俺たちは人垣の端へ進んだ。


 檻の中に、少女がいた。


 いや、少女というより、小柄な女と言うべきか。

 年は二十歳前後だろう。

 褐色寄りの肌。

 灰色に近い銀の短髪。

 耳元だけ少し長い髪。


 頭には銀灰色の獣耳。

 背後には同じ色の尾。


 彼女は檻の隅に座っていた。

 膝を抱えてはいない。

 背中を壁につけ、片膝を立て、両手を自由に使える姿勢で座っている。


 首には黒い奴隷首輪。

 手首には鎖。

 足首にも鎖。


 それでも、縛られているようには見えなかった。


 むしろ、檻の外にいる人間のほうが彼女に囲まれているように見える。


 瞳は黄緑色。

 無表情。


 だが、その視線だけが動いている。


 左の男の喉。

 右の護衛の手首。

 背後の奴隷商の鍵束。

 見物人の腰の短剣。

 俺の背嚢。

 セリアの盾。


 一瞬で全部を見た。


 セリアが静かに盾の角度を変えた。


「危険だな」


「ああ」


 俺は否定できなかった。


 かわいそう、より先に危険が来る。

 それが彼女の第一印象だった。


 奴隷商がこちらに気づき、にやりと笑った。


「おや、先日の兄ちゃんじゃないか。元騎士様も一緒とは、ずいぶん出世したな」


 セリアの目が冷える。


 俺は一歩だけ前に出た。


「危険商品が入ったと聞いた」


「耳が早いな。まあ、見ての通りだ」


 奴隷商は檻を棒で叩いた。


 金属音。


 檻の中の獣人の耳が、ぴくりと動いた。

 目は動かない。

 だが、耳だけが音を拾っている。


「獣人の暗殺者だ。名前はミュール。暗殺組織から流れてきた。買い主候補を三人負傷させたが、腕は本物だ」


「なぜ売られた」


「さあな。失敗作だそうだ」


 その言葉に、檻の中のミュールの尾がほんのわずかに揺れた。


 怒りか。

 怯えか。

 判断できない。


「失敗作、か」


 セリアが低く呟く。


 奴隷商は肩をすくめた。


「組織の連中がそう言っていた。命令を聞く刃としては優秀だったが、最後の最後でしくじったらしい」


「何を」


「そこまでは知らん。こっちは正規の証文で仕入れただけだ」


 どこかで聞いた言い回しだった。


 セリアの時も、この男は同じようなことを言っていた。

 詳しい事情は知らない。

 正規の証文で仕入れた。


 便利な言葉だ。


 人を檻へ入れる者は、いつも事情を知らないふりをする。


 その時、見物人の一人が檻へ近づいた。


 鉱山労働者風の大柄な男だ。

 酒の匂いがする。


「本当に危ねえのか? こんな小さいのが」


 奴隷商が止めるより早く、男は檻の隙間から指を入れた。


「おい、耳を触らせろよ」


 次の瞬間だった。


 ミュールの手が動いた。


 速すぎて、目で追えなかった。


 男の指が檻の鉄格子に押しつけられ、嫌な音を立てた。


「ぎゃああああっ!」


 男が悲鳴を上げる。


 ミュールは無表情のまま、男の指をもう少しだけ曲げた。


「触るなら、落とす」


 短い声。

 低く、平坦。


 周囲が後ずさる。


 奴隷商が慌てて棒を振り上げた。


「こら、商品! 離せ!」


 その言葉に反応して、首輪が黒く光る。


 ミュールの手が止まった。

 男の指から離れる。


 彼女の表情は変わらない。

 だが、耳がわずかに伏せた。


 俺はその反応を見逃さなかった。


 首輪で止められた。

 痛みに耐えた。

 それでも顔には出さない。


 奴隷商は額の汗を拭いながら、見物人たちへ笑いかけた。


「この通りだ。命令しなければ人を殺す。だが、逆に言えば命令さえすれば最高の刃になる」


 その場の空気が変わる。


 怖いものを見る目。

 危険な道具を見る目。

 買えるなら使ってみたいという目。


 ミュールはそれらを全部受け流しているように見えた。


 だが、耳だけは周囲の音を追っている。

 逃げ道を探しているのか。

 敵の位置を測っているのか。

 それとも、ただ危険から身を守るための癖なのか。


 俺は檻へ近づきすぎない位置で足を止めた。


 ミュールの視線が俺に向く。


 黄緑の瞳。


 冷たい。

 だが、空っぽではない。


「レオン」


 セリアが小さく言った。


「わかっている」


「私はまだ何も言っていない」


「危険だと言いたいんだろう」


「そうだ」


 セリアは盾を下げない。


「だが、それだけではない。あの子は、こちらがどう動くか見ている」


「試しているのか」


「たぶん」


 ミュールは俺たちの会話を聞いている。

 耳がこちらへ向いていた。


 俺は彼女の首輪を見る。


 黒鉄。

 奴隷契約の文字。

 だが、セリアのものとは違う。

 聖属性の封印ではない。


 もっと実務的で、残酷だ。


 命令。

 停止。

 罰。

 沈黙。


 そして首輪の裏側に、爪のような小さな印が見えた。


 暗殺組織の印か。


 ミュールの腕には古い傷が多い。

 太ももにも細い切り傷。

 毒を抜いた痕らしい変色。

 睡眠不足の目。


 訓練された体だ。

 だが、丁寧に扱われた体ではない。


「買うのか、兄ちゃん」


 奴隷商が声をかけてきた。


「こいつは安くしておくぞ。危険すぎて持て余している。暗殺者が欲しい貴族には売れるが、運ぶ途中で面倒が起きるかもしれん」


「値段は」


 セリアがこちらを見た。


 反対ではない。

 ただ、確認する目だ。


 俺はまだ決めたわけではない。

 少なくとも、そう自分に言い聞かせた。


 ミュールは檻の中から俺を見ている。


「買うなら、命令して」


 彼女が初めてこちらへ直接言った。


 声は小さい。

 だが、よく通った。


「命令?」


「そう。最初に命令して。殺すな、逃げるな、逆らうな。そうしないと、買い主は死ぬ」


 周囲の見物人がざわめく。


 奴隷商が笑う。


「ほらな。自分でわかっているんだ。これは命令しないと人を殺す」


 ミュールは奴隷商を見なかった。

 俺だけを見ている。


 その目は、挑発ではない。


 確認だ。


 この男はどうするのか。

 命令するのか。

 怯えるのか。

 殴るのか。

 売り戻すのか。


 俺はゆっくり息を吐いた。


 セリアの時と同じではない。


 セリアは誇りを奪われた騎士だった。

 ミュールは刃として作られた暗殺者だ。


 命令しないだけで解決する相手ではない。


 それでも、最初に言うべきことは決まっていた。


「俺は、命令で君を使うために来たわけじゃない」


 ミュールの耳が、ほんの少しだけ動いた。


 奴隷商の笑みが薄くなる。


「兄ちゃん、またそれか。前の元騎士様とは違うぞ。そいつは本当に危ない」


「わかっている」


 俺はミュールの目を見た。


「危ないからこそ、命令で済ませたくない」


 ミュールは無表情のまま言った。


「変な買い主」


「まだ買うとは言っていない」


「でも、買う匂いがする」


 セリアがわずかに眉を上げる。


「匂いでわかるのか」


「嘘の匂いは少ない」


 ミュールの視線がセリアへ移る。


「でも、怖い匂いはする。そっちの騎士も」


 セリアは一瞬だけ黙り、静かに答えた。


「怖くないとは言っていない」


 ミュールの尾が、ほんのわずかに揺れた。


 それが何の感情なのか、まだわからない。


 奴隷商が苛立ったように檻を叩く。


「買うなら早く決めろ。見世物じゃない」


 見世物にしていたのはそちらだろう。


 そう言いかけて、飲み込んだ。

 今は交渉を壊す時ではない。


 俺は金額を聞いた。


 予想より安かった。

 危険商品だからだ。

 返品不可。

 負傷しても自己責任。

 命令権を即時行使することを推奨。


 奴隷商は何度もそう繰り返した。


 セリアが小声で言う。


「レオン」


「何だ」


「買うなら、覚悟がいる」


「ああ」


「命令しない覚悟だけでは足りない。彼女が本当に人を傷つけようとした時、止める覚悟もいる」


 それは正しかった。


 優しさだけでは足りない。

 セリア編で俺が学んだことだ。


 俺は頷く。


「止める。でも、所有者としてではなく」


 セリアは少しだけ目を伏せた。


「なら、私も見る」


「止めてくれるのか」


「必要なら」


「助かる」


「戦友だからな」


 その言葉に、ミュールの耳がまた動いた。


 戦友。


 彼女には、どう聞こえたのだろう。


 俺は奴隷商へ向き直る。


 檻の中のミュールは無表情でこちらを見ている。


 だが、その黄緑色の瞳は、もうこちらから逸れなかった。


 これは命令しないと人を殺す。


 奴隷商の言葉が、広場にまだ残っている。


 俺はその言葉を、心の中で否定した。


 これは、ではない。


 彼女は、だ。


 道具ではなく、人だ。


 そして人なら、命令以外の言葉が届く可能性がある。


 たとえ今は、刃の形をしていたとしても。



レオンは、ミュールを危険な商品ではなく、一人の人として見ました。

次回、彼女を檻の外へ出すために、また「買う」という選択をします。

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