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第017話 俺は主人じゃない

 夜が更けても、セリアは眠らなかった。


 寝台に横たわってはいる。

 目も閉じている。

 だが、呼吸が浅い。

 少しでも首元の呪印が脈打つと、指が毛布を握る。


 俺は机の前に座り、ガレスが置いていった聖銀線を見ていた。


 今夜は応急処置だけ。

 本格的な解呪には、まだ準備が足りない。

 聖銀の緩衝輪。

 月光水の追加。

 呪印の逃げ道。

 首輪が縮む力を受け流す金属加工。


 やることは山ほどある。


 それでも、今一番足りないのは素材ではない気がした。


 セリアが、自分の意志で剣を取ること。

 そして、そのたびに呪印が彼女を締めつけること。


 この二つが噛み合わないままでは、解呪の前に彼女の心が削れる。


「レオン」


 背後から声がした。


 振り返ると、セリアが目を開けていた。


「眠れないのか」


「眠ると、また檻に戻る夢を見る」


 声は静かだった。


「首輪が締まり、体が動かなくなる。私は剣を取ろうとする。だが、手が届かない」


「水を飲むか」


「いらない」


 セリアはゆっくりと身を起こした。


 俺は止めかけたが、彼女の目を見てやめる。

 今は横になれと言っても聞かない顔だ。


「相談がある」


「何だ」


 セリアは首輪に触れた。


「私を命令で縛ってくれ」


 部屋の空気が止まった気がした。


 俺はすぐに返事ができなかった。


「どういう意味だ」


「そのままの意味だ。私が暴走した時、貴殿の命令で止められるようにしておく」


「奴隷契約を使えと?」


「使えるのだろう」


「たぶん、所有権を通せば一時的には」


「なら使え」


 セリアの声は硬い。

 だが、その奥に恐怖がある。


「今日、私は剣を取った。人を守れた。だが、そのたびに呪印が動いた。次に暴走した時、私は貴殿や他の者を傷つけるかもしれない」


「だから命令で縛れと」


「そうだ」


「断る」


 即答だった。


 セリアの瞳が揺れた。


「なぜだ。合理的ではないか」


「合理的かもしれない。でも、俺はやらない」


「私が誰かを傷つけてもか」


「その可能性を減らす方法は探す。だが、命令で君の意志を上書きする方法は選ばない」


「綺麗事だ」


 セリアの声が鋭くなった。


「貴殿はまだ、私が暴れるところを見ていない。首輪が何を命じるかわかっていない。私は騎士だった。人を守るための技を、人を殺すために使うこともできる」


「知っている」


「知らない」


「なら、今知った」


 俺は立ち上がった。


 近づきすぎない距離で、彼女の前に立つ。


「君が危険だという話なら、俺はわかっている。だから対策する。罠も薬も、逃げ道も作る。ガレスにもマルタにも頼る。でも、君を安全な道具にするために命令することはしない」


「安全な道具」


 セリアがその言葉を繰り返した。


「それが嫌なのか」


「嫌だ」


「私が望んでも?」


「それが本当に君の望みなら、もっと嫌だ」


 セリアは黙った。


 俺は続ける。


「檻の中で、君は命令される側だった。王都でも、たぶん騎士として命令に従ってきた。だから、危ない時に自分を縛る方法として命令を選びたくなるのはわかる」


 完全にわかる、とは言えない。

 俺は彼女ではない。


 だが、命令されるほうが楽な時があることは知っている。


 勇者パーティで、俺もそうだった。

 考えずに準備し、言われる前に動き、誰かの旅を成立させる。

 自分で選んでいるつもりで、いつの間にか命令の形に収まっていた。


「でも、俺は君をそこへ戻したくない」


「戻したくない、か」


「ああ」


「貴殿は、私の主人ではないと言いたいのだな」


「言いたいんじゃない。そうする」


 セリアは俺を見上げた。


「なら、私が暴走したらどうする」


「名前を呼ぶ」


「それで止まる保証は」


「ない」


「無責任だ」


「そうだな」


 俺は頷いた。


「だから、名前を呼んでも届くように、普段から君と話す。君が何を怖がって、何を守りたいのかを知る。命令より手間がかかるし、失敗するかもしれない。でも俺はそっちを選ぶ」


 セリアは長く息を吐いた。


 怒っているようにも、呆れているようにも見えた。


「貴殿は本当に、面倒な男だ」


「最近よく言われる」


「自覚しているなら直せ」


「直す予定はない」


 セリアの口元が、少しだけ動いた。


 笑った、というほどではない。

 だが、張り詰めていたものがほんの少し緩んだ。


「私は怖い」


 彼女は言った。


 その言葉は、今まで聞いたどの言葉よりも弱かった。


「剣を取れなくなることも怖い。剣を取った結果、誰かを傷つけることも怖い。私は何を選んでも、騎士ではいられない気がする」


「騎士かどうかは、王国が決めることじゃない」


「では誰が決める」


「少なくとも、首輪じゃない」


 セリアは俯いた。


「それは、そうだな」


 沈黙が落ちる。


 外では、夜のラグノールの喧騒がまだ続いている。

 酔った冒険者の声。

 馬車の音。

 遠くの鍛冶場の槌音。


 やがてセリアが言った。


「レオン」


 貴殿ではなかった。


 俺は少しだけ姿勢を正す。


「何だ」


「私は命令ではなく、約束が欲しい」


「どんな」


「私が私でなくなりそうな時、私を所有物として止めるな。だが、見捨てるな」


 重い約束だった。


 簡単に頷いていいものではない。

 それでも、答えは決まっていた。


「約束する」


「軽い」


「重く言えば信じるのか」


「いや」


「なら同じだ」


 セリアは小さく息を吐いた。


 今度は、はっきりと笑みに近かった。


「そういうところだ」


「どういうところだ」


「判断に迷うところだ」


 彼女は寝台へ戻った。


 今度は自分から横になる。


「レオン」


「まだ何かあるのか」


「背中は任せる」


 俺は一瞬、言葉の意味を取り損ねた。


 セリアは目を閉じて続ける。


「私も、貴方の背中を守る。命令ではなく、約束として」


 胸の奥が、静かに熱くなった。


「ああ。頼む」


 その夜、セリアはようやく眠った。


 首元の黒い蔦は消えていない。

 首輪もまだある。

 何も解決していない。


 それでも、俺たちの間に一本だけ線が引かれた。


 買い主と奴隷を結ぶ鎖ではない。

 主人と従者を分ける線でもない。


 互いの背中を預けるための、細くて頼りない約束だった。


 俺は机に戻り、聖銀線を手に取る。


 明日から本番の準備だ。


 俺は主人じゃない。


 だからこそ、命令ではなく、約束を守る方法を探さなければならない。


 俺は白紙を一枚取り出し、上に小さく書いた。


 セリア暴走時の対処。


 書いてすぐ、その言葉が嫌になった。

 暴走。

 対処。

 まるで彼女を危険物として扱っているようだ。


 俺は線を引いて消し、書き直す。


 セリアが自分を見失いそうな時にすること。


 これなら少しはましだ。


 まず、名前を呼ぶ。

 次に、守る対象を示す。

 檻ではなく戦場にいることを思い出させる。

 王都でも奴隷市場でもなく、今いる場所を言葉にする。

 触れる場合は必ず声をかける。

 首輪には直接触れない。

 呪印が脈打つ時は、聖銀草の浸液で熱を逃がす。

 ガレスの緩衝輪が完成するまでは、聖属性の大きな出力を避ける。


 命令を使わないというのは、何もしないことではない。


 むしろ逆だ。

 命令一つで済ませないために、やることが増える。

 覚えることも、備えるものも、考える順番も。


 俺はそれを面倒だとは思わなかった。


 勇者パーティにいた頃も、俺は似たようなメモを作っていた。

 クラウスが魔力切れを起こした時。

 リリアが祈祷疲れで倒れた時。

 フィーネの手首が熱を持った時。

 ダリオの剣が折れかけた時。

 アルベルトの聖剣が濁った時。


 ただ、あの頃のメモは、誰かを効率よく動かすためのものだった。

 今書いているこれは違う。


 誰かを命令で動かさないためのメモだ。


 同じ雑用でも、向いている方向が違う。


 俺は書き終えた紙を折り、道具箱の内側に入れた。

 誰かに見せるものではない。

 だが、忘れてはいけない。


 セリアが眠っている寝台を見る。


 黒い首輪。

 黒い蔦。

 それでも、彼女は約束を求めた。


 奴隷契約ではなく、約束を。


 約束は、契約書より弱い。

 破ろうと思えば破れる。

 魔術的な強制力もない。

 首輪のように体を止めることもできない。


 だから、王国や奴隷商は約束を信用しないのだろう。

 命令、証文、所有権、罰。

 そういう形のあるものだけが、人を動かせると信じている。


 だが、形があるものほど、悪用もされる。

 セリアの首輪がその証拠だ。


 俺は机の上に置いた金属札の写しを見た。

 所有者認証。

 あの文字は、誰かが彼女の意志より上に立つための仕組みだ。


 なら、俺が作るべきものはその逆だ。


 誰かの意志を上書きする仕組みではなく、本人の意志が戻るまで待てる準備。

 彼女が自分で選べるだけの時間を稼ぐ道具。


 薬も、罠も、盾も、緩衝輪も。

 全部そのために使う。

 それが俺にできる、支配ではない支援だ。今度こそ、もう間違えない。彼女のためにも、自分のためにも。


 それがどれほど危ういものでも、俺はそちらを選ぶ。


 窓の外が少しずつ白み始めた。

 眠る時間はほとんど残っていない。


 それでも、不思議と後悔はなかった。


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