第016話 黒い蔦の刻印
ラグノールへ戻る道は、行きよりも長く感じた。
倒れた冒険者を木の枝と外套で作った簡易担架に乗せ、俺と剣士の男で前後を持つ。
腕を怪我した女は、セリアの少し後ろを歩いていた。
セリアは何も言わない。
新しい盾を腕に通し、周囲を警戒している。
だが、歩幅が小さくなっている。
首元の呪印は外套で隠しているが、俺にはわかる。
黒い蔦が脈を打つたび、彼女の体から力が抜けている。
「少し休む」
俺が言うと、セリアは即座に首を振った。
「町まで運ぶのが先だ」
「君も毒を受けているかもしれない」
「受けていない」
「なら呪印だ」
彼女は黙った。
沈黙は肯定だった。
担架の上の冒険者がうめく。
麻痺毒は抑えているが、完全に抜けたわけではない。
こちらも急ぐ必要がある。
俺は判断する。
今ここでセリアを休ませるか。
それとも町まで一気に戻るか。
森の中で呪印が暴走すれば、対処できる道具が足りない。
町まで戻れば、宿の机と燭台、薬草、ガレスの工房がある。
「あと半刻で門だ。そこまでは進む」
「私に確認しないのか」
「今は治療担当として判断する」
セリアが横目でこちらを見る。
「命令か」
「判断だ」
「便利な言葉だな」
「君に教わった」
彼女は返事をしなかった。
だが、それ以上は反論しなかった。
西門が見えた時、俺はようやく息を吐いた。
門番は担架を見るなり顔をしかめたが、マルタの名前を出すとすぐ通してくれた。
ギルドへ駆け込む。
マルタは受付から飛び出してきた。
「今度は何を連れて帰ってきたんですか」
「銀殻百足の麻痺毒。応急処置済み。治療院へ回してください」
「あなたは毎回、報告が簡潔すぎます」
言いながらも、彼女の動きは早い。
職員に担架を運ばせ、治療院へ使いを出し、怪我人の名前を確認する。
赤い実の罠についても、怪我をした女が泣きながら申告した。
マルタは冷たい顔になったが、今は処罰より治療を優先した。
「素材は」
俺は採取袋を出す。
「聖銀草はあります。月光水は少量だけ」
「十分では?」
「セリアの呪印が悪化している」
マルタの視線がセリアへ向く。
セリアは背筋を伸ばしていた。
だが、顔色は白い。
「宿へ戻ります」
「ガレスさんにも知らせます」
「お願いします」
「レオンさん」
呼び止められる。
マルタは少しだけ声を低くした。
「あなたも限界が近いです。自分の分の治療を忘れないでください」
「後で」
「それを忘れると言います」
言い返せなかった。
だが、今はセリアが先だ。
宿《錆びた鐘》へ戻る頃には、夕方になっていた。
部屋に入った瞬間、セリアの膝が崩れた。
「セリア!」
俺は彼女を支える。
軽い。
鎧を着た騎士の重さではない。
呪印に力を吸われている。
寝台へ座らせ、外套を外す。
黒い蔦は、昨日より濃く広がっていた。
首筋から鎖骨へ。
さらに胸元の奥へ潜るように伸びている。
触れなくても、嫌な魔力がわかる。
「……見苦しいな」
セリアが言った。
「黙って体力を使うな」
「命令か」
「医療上の苦情だ」
返事はなかった。
俺は机に道具を広げる。
聖銀草。
少量の月光水。
浄化塩。
銅線。
ガレスから借りた聖銀の端材。
解呪本番には足りない。
だが、暴走を抑える応急処置ならできるかもしれない。
聖銀草を刻み、月光水に浸す。
浄化塩をひとつまみ。
銅線を輪にして、首輪の外縁へ近づける。
セリアの呪印が反応した。
黒い蔦が肌の下で動く。
彼女の指が寝台の布を握った。
「痛むか」
「少し」
「嘘だな」
「なら、かなり」
「正直でよろしい」
軽口を返しながら、俺は集中する。
首輪。
呪印。
セリアの聖属性の魔力。
見える。
だが、初めてセリアの呪印を視た夜より複雑だ。
今日、彼女が誰かを守るために力を動かしたことで、呪印は奥へ食い込んでいる。
昨日までは、黒い蔦は首輪から伸びる鎖に見えた。
だが今は違う。
蔦はセリアの内側へ根を張り、彼女自身の魔力を吸い上げて、また首輪へ戻している。
循環している。
外から縛るだけなら、外側を切ればいい。
だがこれは、彼女の力をいったん奪い、それを鎖として作り替え、もう一度彼女へ巻きつけている。
自分の力で自分を縛らせる術式。
悪趣味にもほどがある。
怒りで指先が震えそうになり、俺は一度息を吐いた。
怒りで手元を狂わせれば、傷つくのはセリアだ。
落ち着け。
見る。
順番を間違えない。
彼女の本来の力を鎖に変える術式。
それに、別の層がある。
王国教会の聖印。
裁判記録の封鎖。
証言封じ。
そして、もっと奥。
奴隷契約の所有権とは違う、古い認証文字。
俺は息を止めた。
銅線が黒く焼ける。
月光水が白く濁る。
指先に、白と金と緑の光が重なる。
だが、名前はまだ考えない。
マルチジョブだろうが何だろうが、今は目の前の線を読むだけだ。
「レオン」
セリアがかすれた声で呼ぶ。
「私は、どうなっている」
「君の力が、君を縛るように組まれている」
「前にも聞いた」
「今日は、もう少し奥が見えた」
「奥?」
「奴隷契約の下に、王国教会の術式がある。そのさらに下に、もっと古い認証がある」
俺は銅線をずらした。
首輪の内側に、文字が浮かぶ。
所有。
封印。
証言遮断。
その奥に、灰色の光。
見慣れない文字。
だが意味だけは流れ込んでくる。
所有者認証。
「何だ、これは」
呟いた瞬間、首輪が鳴った。
金属音ではない。
鐘のような、低い響き。
セリアの体が跳ねた。
「っ……!」
呪印が一気に濃くなる。
まずい。
俺は聖銀草の浸液を布に含ませ、呪印の端へ当てる。
同時に銅線を首輪から離し、魔力の流れを逃がす。
封印を壊すな。
押し込むな。
逃げ道を作れ。
ガレスの言葉が頭に響く。
鉄も人も、押さえつけるだけなら歪む。
俺は呪印を剥がそうとしない。
締めつける力を横へ逃がす。
白い光が走った。
セリアの呼吸が戻る。
黒い蔦は、ゆっくりと薄くなった。
完全には消えない。
だが暴走は止まった。
俺は椅子に崩れるように座った。
汗が頬を伝う。
手が震えている。
セリアは寝台に横たわったまま、こちらを見ていた。
「助かったのか」
「一時的には」
「一時的」
「本体は残っている。しかも、思ったより深い」
「所有者認証、と言ったな」
聞こえていたか。
俺は頷いた。
「普通の奴隷契約じゃない。君を誰かの所有物にするだけなら、あんな古い認証はいらない」
「では、私は何に繋がれている」
「まだわからない」
正直に答える。
「でも、王国か教会のどちらか。あるいは、もっと古い何かだ」
セリアは目を閉じた。
「私が騎士として動くほど、これは強くなるのか」
「今のところは」
「なら、私は剣を取らないほうがいいのか」
その問いが、部屋の空気を重くした。
俺はすぐに否定できなかった。
医学的には、安静が正しい。
呪印を刺激しないことが安全だ。
だが、それは彼女から騎士であることを奪う。
俺は答えを探した。
「剣を取るなとは言わない」
やっと、それだけ言った。
「ただ、今のまま無理をすれば君が壊れる。だから、壊れずに剣を取る方法を探す」
セリアは目を開けた。
「また面倒なことを言う」
「得意分野だ」
「否定はしない」
かすかに、ほんのわずかに、彼女の口元が緩んだ。
その直後、扉が強く叩かれた。
「レオン、いるか!」
ガレスの声だった。
俺は立ち上がる。
扉を開けると、ガレスが工具箱を抱えて立っていた。
後ろにはマルタもいる。
「話は聞いた」
ガレスは部屋に入るなり、セリアの首輪を見た。
「こいつは予定より早く緩衝輪を作らにゃならん」
「素材が足りません」
「足りねえ分は腕で補う」
ガレスは作業台代わりに机を叩いた。
「ただし、今夜は応急までだ。明日から本番の準備をする」
マルタは静かに扉を閉めた。
「ギルド記録には、今日の件を採取中の事故として処理します。ただし、赤い実の罠については別件で処分します」
「助かります」
「助けていません。死人が増えると面倒なだけです」
いつもの言い方だった。
だが、彼女の視線はセリアの首元を見て硬くなっている。
「それと、レオンさん」
「はい」
「これはもう、ただの奴隷首輪ではありませんね」
「ええ」
俺は焼け焦げた銅線を見た。
所有者認証。
その言葉が、頭の奥に残っている。
セリアを縛っているのは、奴隷商一人ではない。
王国の裁判だけでもない。
もっと大きな仕組みが、彼女の首に絡みついている。
黒い蔦の刻印は、まだ眠ったふりをしているだけだった。
ガレスは工具箱を開け、聖銀の細線を机に置いた。
マルタは帳面を開き、必要な薬材と購入先を書き留める。
この部屋は安宿の一室だ。
まともな治療室でも、工房でも、聖堂でもない。
それでも今、セリアを縛るものに対抗するための人間が三人集まっている。
買い主。
鍛冶師。
受付。
肩書きだけ見れば、王国教会や聖騎士団に比べてあまりに頼りない。
けれど、誰もセリアを所有物として見ていない。
その事実だけは、どんな高価な聖具よりも大事な土台に思えた。




