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第138話 一方的な契約は破棄します

 ロゼッタの帳簿が、白い炎を上げてめくれた。


 紙は燃えていない。


 文字だけが燃えている。


 古い債務記録。


 黒杯商会の担保契約。


 家の没収。


 身柄引渡し。


 債務奴隷登録。


 そして、新しい条件が世界契約によって書き足される。


 反抗管理者候補レオン・アルフェンの排除に協力した場合、債務全額免除。


 没収家産の返還。


 商会名誉の回復。


 ロゼッタの顔から血の気が引いた。


「趣味の悪い条件ですね」


 声は冷静だった。


 だが、手が震えている。


 彼女は家を失った。


 契約に敗れ、帳簿に押し潰され、債務奴隷として売られた。


 その過去を、世界契約は救済条件として差し出している。


 レオンを殺せば、全て返す。


 そう言っている。


「ロゼッタ」


 俺が呼ぶと、彼女は笑った。


 薄い笑み。


 商人令嬢としての仮面。


「大丈夫です、と言いたいところですが」


 彼女は帳簿を押さえる。


「正直、腹が立つほど魅力的です」


 その正直さが、痛かった。


「家を返す。名誉を返す。債務を消す。商人として、一度失ったものを取り戻せる条件です」


 世界契約の文字がさらに浮かぶ。


 契約履行義務。


 債務者の合理的選択。


 最大利益の追求。


 レオン・アルフェンを拘束。


 ロゼッタの契約鎖が、俺へ向かって伸びる。


 彼女はその鎖を掴んだ。


「本当に、よくできています」


 鎖が彼女の手のひらを焼く。


「私の弱みを、条件に変えている」


 エルヴィアが静かに言う。


「不当な契約に苦しんだ貴方だからこそ、正当な救済を受けるべきです」


「正当?」


 ロゼッタの目が冷える。


「当事者の同意を欠いた条件提示の、どこが正当ですか」


「貴方は同意できます」


「脅迫下の同意は無効です」


 即答だった。


 だが、世界契約は言葉だけでは止まらない。


 彼女の手首の債務印が光り、鎖が俺の足元へ広がる。


 ロゼッタは膝をついた。


 帳簿を床へ置く。


 商談の場を作るように。


「では、確認しましょう」


 彼女は震える指で羽根ペンを取った。


「第一に、契約当事者は誰ですか」


 世界契約の文字が返る。


 債務者ロゼッタ。


 管理者世界契約。


 排除対象レオン・アルフェン。


「第二に、レオン様はこの契約に同意していますか」


 沈黙。


「第三に、私の債務は、レオン様の生命を対価にしてよいものですか」


 沈黙。


「第四に、私自身が、この条件を自由意思で受け入れていますか」


 鎖が強く光る。


 強制履行。


 合理的利益。


 救済優先。


 ロゼッタは笑った。


「答えられないのですね」


 鎖が彼女の腕を締める。


 痛みに顔が歪む。


 だが、彼女は羽根ペンを離さない。


「レオン様」


「何だ」


「私の家は、欲しいです」


「ああ」


「名誉も、返してほしいです」


「ああ」


「債務も、消したいです」


 彼女は息を吸う。


「ですが、それらは人の命を担保にして取り戻すものではありません」


 帳簿のページに、彼女自身の文字が走る。


 一方的な契約は破棄します。


 同意なき所有は無効です。


 人は資産ではありません。


 その三文が、白い世界契約の文字を押し返した。


 ロゼッタの債務印に亀裂が入る。


 世界契約は、さらに別の条件を提示する。


 家族名誉回復。


 商会再建支援。


 債務者救済基金。


 黒杯商会被害補償。


 全て、彼女が望んだものだ。


 ロゼッタの目に涙が浮かぶ。


「本当に、下品です」


 声が震える。


「欲しいものを並べれば、人は人を売ると思っている」


 彼女は帳簿を閉じた。


 音が封印室に響く。


「商人を舐めないでください」


 ロゼッタは立ち上がる。


「価値を測るからこそ、測ってはいけないものを知っています」


 債務印が砕けた。


 隷属刻印も砕ける。


 彼女の帳簿から放たれた文字が、聖都の契約術式へ流れ込んでいく。


 同意なき契約は無効。


 所有権なき人身拘束は無効。


 命を担保とする救済契約は無効。


 その反証が、世界契約の一部を黒く焼いた。


 ロゼッタは俺を見る。


「レオン様」


「ああ」


「私は、貴方を売りません」


「知ってる」


「いいえ。今、私が決めました」


 その言葉は、彼女の解放そのものだった。


 だが、次の瞬間、ナギの胸元で鍵印が完全起動した。


 封印室の奥に、巨大な門の輪郭が浮かび上がる。


 世界契約中枢門。


 ナギの刀が、勝手にその門へ向いた。


「開門命令」


 白い文字が、彼女の瞳に映った。


 その前に、ロゼッタは自分の手首を見下ろしていた。


 債務印が砕けた跡は、完全には消えていない。


 薄い痕が残っている。


 それは敗北の痕ではなく、彼女が契約の暴力を知っている証だった。


「私は、契約が嫌いではありません」


 ロゼッタは言った。


 意外な言葉だった。


 彼女は帳簿を抱え直す。


「契約は、人を縛るものではなく、互いの線を明確にするためのものです。何を渡すのか。何を受け取るのか。どこから先は踏み込まないのか」


 彼女の声には、商人令嬢としての誇りが戻っていた。


「黒杯商会は、それを壊しました。世界契約も同じです。契約の形を使いながら、相手の同意を消している」


 ロゼッタは帳簿を開く。


 新しいページに、自分の名前を書く。


 ロゼッタ・ヴェルネ。


 債務資産ではない。


 契約当事者。


「私はもう、契約から逃げません」


 彼女は俺を見る。


「だからこそ、一方的な契約を破棄します」


 その言葉が、聖都の契約術式へさらに深く流れ込んだ。


 封印室の外から、いくつもの声が上がる。


 債務奴隷だった者。


 商会に担保として扱われた者。


 名義だけの同意書で売られた者。


 その契約書の白い文字が、各地で崩れ始めている。


 ロゼッタの反証は、彼女一人を救うだけではなかった。


 契約という言葉の中に隠れていた所有を、世界中で揺らしている。


 ロゼッタは痛みに膝をつきながらも、満足そうに息を吐いた。


「よい帳簿になりました」


「まだ終わってない」


「ええ」


 彼女は微笑む。


「だから、続きは私が書きます」


 世界契約は、なおも彼女へ数字を突きつけた。


 損失額。


 回収不能額。


 没収された資産の評価額。


 ロゼッタが債務奴隷へ落ちたことで失った年月。


 それらが白い数字となって、封印室に並ぶ。


 彼女の人生を、損益表へ戻そうとしている。


 ロゼッタはその数字を見た。


 逃げなかった。


「ええ、損失です」


 彼女は認める。


「大きな損失です。私は失いました。家も、名誉も、時間も」


 数字が強く光る。


 ならば回収せよ。


 ならば補填せよ。


 ならば最も合理的な条件を選べ。


「ですが」


 ロゼッタは帳簿の余白に線を引く。


「損失を理由に、他者を資産化することはできません」


 白い数字が止まる。


「私が失ったものは、誰かの命で埋める空欄ではありません」


 彼女は自分の債務額の欄へ、赤い線を引いた。


 破棄。


 たった二文字。


 だが、その二文字が黒杯商会の記録にも、聖都の契約術式にも、世界契約の基礎にも流れ込む。


 各地の債務印が震えた。


 借金を盾に人を所有していた契約が、同時に照合不能になる。


 全てがすぐ消えたわけではない。


 だが、反証が入った。


 もう、誰かを資産として扱う文言は、無傷ではいられない。


 ロゼッタは息を吐く。


「商売は続きます」


 彼女は言った。


「でも、人を売る商売は終わりです」


 その言葉に、債務印の最後の欠片が砕けた。


 ロゼッタはしばらく、その砕けた光を見ていた。


 表情は晴れやかではない。


 家が戻ったわけではない。


 失った年月が返るわけでもない。


 黒杯商会に奪われたものが、今この瞬間に全て回復するわけでもない。


 それでも彼女は、初めて債務者としてではなく、商人として立っていた。


「損失は残ります」


 彼女は言う。


「ですが、残った損失をどう扱うかは、私が決めます」


 帳簿のページが静かに止まる。


 世界契約の補正文はもう浮かばない。


 ロゼッタは自分の手で、新しい欄を作った。


 回収不能。


 ただし、所有による補填を禁ずる。


 再建は本人意思による。


 彼女らしい、硬い言葉だった。


 けれど、その硬さの中に自由があった。


 俺は言う。


「家を取り戻す時は、手伝う」


 ロゼッタは俺を見た。


「命令ですか」


「相談だ」


 彼女は少しだけ笑う。


「では、条件を詰めましょう。生き残った後で」


 その言葉に、胸が少し軽くなった。


 未来の話ができる。


 世界契約の命令下で、未来の商談ができる。


 それ自体が、彼女が戻ってきた証だった。


 ロゼッタは帳簿を閉じる前に、もう一行だけ書き足した。


 人は資産ではない。


 だからこそ、約束は価値を持つ。


 その文字が、聖都の契約術式に深く刻まれた。


 ロゼッタは帳簿を胸に抱いた。


「この帳簿は、負債の記録だけではありません」


 彼女は言う。


「誰と何を約束し、何を守るか。その記録です」


 債務印の跡が薄く光り、やがて消えた。


 彼女はもう、帳簿に支配される者ではない。


 帳簿を使い、未来を書く者だった。



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