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第137話 恐怖を抱えた魔導師

 イリスの背中で、実験印が白く燃えた。


 封印室の空気が熱で歪む。


 床の古代文字が赤く染まり、魔力の流れが彼女の身体へ集中していく。


「だめ、開けないで」


 イリスは自分の肩を抱きしめた。


「私、燃やしてしまいます」


 その声は、今まで聞いたどの悲鳴よりも小さかった。


 大きく叫ぶ余裕すらない恐怖。


 魔塔の実験室で、何度も自分の魔力を測られ、危険物として扱われた少女の声だった。


 世界契約は、そこを突いてきた。


 危険魔力炉。


 制御不能個体。


 強制開放。


 対象、反抗管理者候補。


 レオン・アルフェンを焼却。


 白い文字が、イリスの周囲を取り巻く。


 彼女の両手から光が漏れた。


 青ではない。


 白く、熱く、制御されていない光。


 魔力炉が開かれている。


 本人の意思ではなく、世界契約によって。


「イリス」


 俺が呼ぶと、彼女は首を振った。


「近づかないでください」


「近づく」


「だめです。私、危険なんです」


 その言葉は、彼女自身のものでもあり、魔塔に植えつけられた言葉でもあった。


 危険。


 実験体。


 制御対象。


 近づいてはいけないもの。


 イリスはずっと、その言葉と戦ってきた。


 今、世界契約はその言葉を使って、彼女をまた檻へ戻そうとしている。


 セリアが盾を構える。


 ミュールが低く身構える。


 ロゼッタが帳簿を開き、ナギが刀を鞘ごと構えた。


 だが、俺は手を上げて止めた。


 命令ではない。


 今は、皆が分かってくれる。


「イリス」


 俺はもう一度呼ぶ。


「止めない。手順を確認しよう」


 イリスの目が揺れた。


「手順」


「そうだ。いつもみたいに」


 彼女は震える息を吸う。


 観測板は床に落ちていた。


 俺はそれを拾い、彼女の前へ滑らせた。


 イリスの指が、反射的に観測板へ伸びる。


 世界契約の命令が、彼女の手を攻撃術式へ向けようとする。


 だが、彼女は観測板を掴んだ。


「第一段階」


 俺が言う。


「魔力炉の状態確認」


 イリスは泣きながら頷いた。


「開放率、七十二。上昇中。外部命令による強制開放。私の意思ではありません」


「第二段階」


「出力方向の確認」


 彼女は観測板に線を書く。


 手が震えて、文字が歪む。


 それでも書く。


「目標、レオンさん。範囲、封印室全域へ拡大可能。危険です」


「第三段階」


「退避経路」


 イリスは周囲を見る。


 聖都兵、勇者候補、リディア、アルベルト、エルヴィア、五人。


 逃げ場はない。


 彼女の顔が青ざめる。


「ありません」


「じゃあ、作る」


「どうやって」


「一緒に考える」


 エルヴィアが口を開いた。


「命じればよいのです。出力を停止しなさい、と」


「命じない」


 俺は即答する。


「彼女は危険を知っている。だから、手順を踏める」


 イリスの肩が震えた。


「私、怖いです」


「ああ」


「怖くて、手が震えて、数字も滲んで、もう間違えそうです」


「それでも読んでる」


「怖いまま、やっていいんですか」


「怖いままじゃないと、できないこともある」


 イリスは泣いた。


 だが、泣きながら観測板を見た。


「第四段階。出力分散」


 彼女は言う。


「床下の世界契約線へ、逆流させます。ただし、全量は無理です。誰かが熱を受ける必要があります」


「俺が」


「だめです」


 即答だった。


 命令ではない、彼女自身の拒否。


「では、皆で受ける」


 セリアが盾を前へ出した。


「盾で熱を散らす」


 ミュールが短剣を床へ刺す。


「線、切る」


 ロゼッタが帳簿を開く。


「出力経路の一時貸借契約を組みます。もちろん同意ありで」


 ナギが刀を抜く。


「熱の逃げ道、斬る」


 イリスは皆を見る。


「でも、失敗したら」


「失敗の可能性込みで、私たちはここにいる」


 ロゼッタが言う。


「実験体番号ではなく、当事者として」


 イリスの背中の実験印が激しく光る。


 世界契約が焦ったように命令を強める。


 危険個体。


 制御優先。


 焼却命令実行。


 イリスの両手が俺へ向いた。


 魔力が収束する。


 俺は動かない。


「イリス」


「はい」


「次の手順は」


 彼女は涙で濡れた目を開いた。


「自分の魔力だと認める」


 白い光が揺らぐ。


「私は、危険です」


 彼女は言った。


「でも、危険だから誰かに管理されるものではありません」


 魔力の色が、少しずつ青へ戻っていく。


「私は恐怖を消しません。怖いです。怖いから、測ります。怖いから、手順を踏みます」


 実験印に亀裂が入る。


「私は危険を知っている魔導師です」


 その言葉と同時に、魔力が爆ぜた。


 だが、俺へは向かわない。


 セリアの盾が熱を受け、ミュールが床下の線を切り、ロゼッタが経路を書き換え、ナギが逃げ道を開く。


 イリスはその全てを見ながら、自分の魔力を自分で流した。


 封印室を焼くはずだった熱が、世界契約の命令線へ逆流する。


 白い文字が燃え落ちる。


 イリスの背中の実験印が砕けた。


 隷属刻印も、同時に崩れる。


 彼女はその場に座り込み、観測板を抱きしめた。


「私、燃やしませんでした」


「ああ」


「怖かったです」


「ああ」


「でも、できました」


 俺が頷くと、イリスは泣きながら笑った。


 その笑顔は、実験体のものではない。


 恐怖を抱えたまま、自分の魔力を選んだ魔導師のものだった。


 だが、世界契約は次の線を動かした。


 ロゼッタの帳簿が白く燃え上がる。


 債務契約、再計上。


 資産価値、再評価。


 ロゼッタの手首に、古い債務印が浮かび上がった。


 その直前、イリスはまだ観測板を抱きしめていた。


 彼女の背中から砕けた実験印の光が、雪のように落ちている。


 イリスはそれを見て、小さく息を吐いた。


「消えたのに、怖いです」


「ああ」


「実験印が消えたら、全部平気になると思っていました」


 彼女は震える指で観測板の縁をなぞる。


「でも、まだ怖い。魔力を使うのも、人に近づくのも、自分の判断が間違うのも」


 俺は頷く。


「怖さまで消えたら、たぶん別のものになる」


「別のもの」


「イリスじゃないものに」


 彼女は少しだけ目を見開いた。


 世界契約は恐怖を危険因子として扱う。


 エルヴィアも、恐怖を減らすことを救済だと考えている。


 だが、イリスの恐怖は彼女を壊すだけのものではなかった。


 危険を測る目になっている。


 手順を忘れない理由になっている。


 自分の魔力を軽く扱わないための重しになっている。


 魔塔はそれを「制御困難」と呼んだ。


 世界契約は「管理対象」と呼んだ。


 だがイリスは、自分の言葉で呼び直した。


 恐怖を抱えた魔導師。


 その呼び名は、弱さではなかった。


「レオンさん」


「何だ」


「次に私が危ないことをしたら、止めてください」


「命令で?」


 イリスは首を横に振った。


「手順で」


 その答えに、俺は笑った。


「分かった。手順で止める」


 イリスも、泣き跡の残る顔で小さく笑った。


 封印室の熱はまだ消えきっていない。


 床の古代文字も焦げたように黒くなっている。


 だが、その焦げ跡は世界契約が無敵ではない証だった。


 恐怖を消さず、観測し、扱う。


 それだけで、命令線は焼ける。


 イリスは観測板に新しい一行を書いた。


 実験体番号、抹消。


 魔導師イリス、自己観測継続。


 その文字は震えていた。


 だが、彼女自身の筆跡だった。


 魔塔で書かされた記録とは違う。


 あの頃の記録には、いつも誰かの確認印が必要だった。


 危険値。


 出力値。


 暴走可能性。


 処分判断。


 イリス自身の言葉は、余白にも書けなかった。


 けれど今、彼女は自分の手で自分を記録している。


 危険を否定しない。


 恐怖も否定しない。


 その上で、誰かの管理対象ではなく、自分で観測を続ける魔導師だと書いた。


 世界契約はその一行を消そうとした。


 白い補正文が観測板に浮かぶ。


 自己観測は不安定。


 外部管理を推奨。


 危険個体の自由行動を制限。


 イリスは震える指で、その補正文に線を引いた。


「却下します」


 声は小さかった。


 だが、はっきりしていた。


「私の恐怖は、私が持ちます」


 補正文が焼け落ちる。


 彼女の背中から残っていた白い鎖が、完全に消えた。


 封印室の熱が少し下がる。


 イリスは立ち上がろうとして、ふらついた。


 ミュールが支え、セリアが盾で風を遮り、ロゼッタが水薬を差し出し、ナギが短く「ゆっくり」と言った。


 イリスは全員を見た。


「怖いと言っても、逃げられないと思っていました」


「逃げてもいい」


 俺は言った。


「その上で、戻ってもいい」


 イリスは目を伏せる。


「じゃあ、今は戻ります」


 彼女は観測板を胸に抱いた。


「まだ、皆の数値を見ないといけません」


 それは責任感だった。


 命令ではない。


 彼女が選んだ役割だった。


 その役割を、イリスはもう誰かに証明してもらう必要がなかった。


 魔塔の認可も、世界契約の安全評価もいらない。


 怖くても、震えても、彼女は自分で観測板を持つ。


 それが、彼女の魔導師としての立ち方だった。



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