第136話 名前を持つ暗殺者
ミュールの首筋で、黒い刻印が燃えていた。
白い世界契約とは違う。
古く、暗く、湿った命令。
夜爪。
かつてミュールを道具として扱った暗殺組織の命令系統が、世界契約に引きずり出されている。
「逃亡個体、処分」
ミュールの口が、そう繰り返す。
彼女自身の声なのに、彼女の言葉ではなかった。
セリアが盾を構える。
「ミュール!」
だが、ミュールは答えない。
身体が低く沈む。
短剣が逆手に握られる。
呼吸が消える。
気配が消える。
そこにいるのに、いない。
暗殺者として完成された姿。
俺は背筋が冷えた。
ミュールの技術は、五人の中で最も直接的に俺を殺せる。
セリアの剣は受けられる。
イリスの魔力は読める。
ロゼッタの契約鎖は見える。
ナギの刀は鋭いが、正面から来る。
だが、ミュールは違う。
彼女は、俺が気づいた時にはもう急所へ届いている。
世界契約は、それを知っている。
だから夜爪の命令を使った。
ミュールが一歩踏み出す。
次の瞬間、俺の視界から消えた。
「レオン!」
セリアの叫び。
俺は右手を動かしかける。
命令権ではない。
防御のために。
だが、それより早く、首筋に冷たい感触が走った。
短剣が触れている。
あと少しで、喉が裂ける。
ミュールはそこにいた。
俺のすぐ横。
泣いている目で。
刃を止めている。
「主人」
彼女の声が震える。
「ミュール、上手い」
「ああ」
「殺すの、上手い」
「知ってる」
「でも、嫌」
短剣が震える。
黒い刻印が、彼女の首筋でさらに燃える。
逃亡個体。
処分対象。
暗殺道具。
任務失敗。
回収不能。
廃棄。
そんな言葉が、彼女の周囲に浮かんだ。
ミュールは歯を食いしばる。
「ミュール、道具じゃ」
言葉が途切れる。
夜爪の命令が、彼女の声を潰した。
その代わり、封印室に別の音が響く。
笛の音。
任務開始の合図。
鈴の音。
撤退命令。
短い舌打ち。
失敗者を処分する合図。
ミュールの過去の任務音が、世界契約の白い命令と重なっている。
彼女の身体は、その音に反応するよう訓練されていた。
考える前に動く。
怖がる前に殺す。
名前を呼ばれる前に消える。
それが、彼女の生き残り方だった。
ミュールの目に、暗い廊下が映っているようだった。
夜爪の訓練場。
窓のない部屋。
名前を呼ばれない子どもたち。
番号で並ばされ、合図で動き、失敗すれば食事を抜かれる。
泣いた者は、音を立てるなと叩かれる。
怒った者は、感情を消せと閉じ込められる。
上手く殺せた者だけが、次の日も生きられる。
ミュールはそこで、音に従うことを覚えた。
考えれば遅い。
迷えば死ぬ。
名前など、足手まとい。
そう教え込まれた。
任務に失敗した日、彼女は初めて自分の名前が欲しいと思ったのかもしれない。
処分対象として売られる馬車の中で、誰も彼女を呼ばなかった。
番号も消えた。
役割も消えた。
残ったのは、空っぽの身体だけ。
そこへ、ミュールという名前が入った。
最初は変な音だった。
命令ではない呼びかけ。
合図ではない声。
振り向いても、罰が来ない名前。
その名前が、今、夜爪の音より強く彼女を引き戻している。
「ミュール」
俺は呼ぶ。
刃が喉に食い込む。
薄く血が滲んだ。
セリアが動こうとするが、俺は手で制した。
命令ではない。
ただ、待ってくれという仕草。
「ミュール」
もう一度呼ぶ。
彼女の耳が震える。
黒い命令文字が乱れた。
「その名前」
彼女はかすれた声で言う。
「最初、変だった」
「そうか」
「夜爪では、名前、いらない。番号。役割。合図」
短剣が震え続けている。
「でも、主人が呼ぶから、ミュールになった」
「俺だけじゃない」
俺は言った。
「セリアも、イリスも、ロゼッタも、ナギも、家の皆も呼んだ」
ミュールの目が揺れる。
解放者の家。
食卓。
屋根の上で眠った夜。
ガレスに短剣の手入れを教わった時間。
エナに髪を梳かされた朝。
そういう記憶が、黒い命令の中で小さく光る。
「ミュール」
セリアが呼ぶ。
「ミュールさん」
イリスが泣きながら呼ぶ。
「ミュールさん、契約上も、あなたはあなたです」
ロゼッタが言う。
「ミュール」
ナギが短く呼ぶ。
名前が重なる。
夜爪の合図よりも、不揃いで、温かく、面倒な声。
ミュールは、その声の一つ一つを拾っていた。
セリアの声は固い。
イリスの声は震えている。
ロゼッタの声は理屈っぽい。
ナギの声は短い。
俺の声は、たぶん必死だ。
ばらばらで、暗殺任務には向いていない。
けれど、帰る場所の音だった。
夜爪の合図は、彼女を任務へ送る。
名前を呼ぶ声は、彼女をここへ戻す。
世界契約は、その声を遮ろうとした。
封印室に、さらに強い合図が鳴る。
三連の笛。
夜爪で、最も重い命令。
対象だけでなく、命令を妨げる者も全て排除する合図。
ミュールの瞳から表情が消えかける。
短剣が俺ではなく、セリアへ向きかけた。
セリアはすでに解放された。
だから、世界契約にとっては妨害者だ。
ミュールはその妨害者を処分しようとしている。
「違う」
彼女は小さく言った。
短剣の刃が震える。
「セリア、仲間」
合図が鳴る。
短剣が動く。
ミュールは自分の腕をもう片方の手で掴んだ。
爪が皮膚に食い込む。
「イリス、仲間」
合図が鳴る。
「ロゼッタ、仲間」
合図が鳴る。
「ナギ、仲間」
合図が鳴る。
最後に、彼女は俺を見る。
「レオン、主人」
世界契約の白い文字が強く光る。
主人を殺せ。
ミュールは首を横に振った。
「違う」
短い否定。
だが、はっきりしていた。
「レオン、帰る場所」
その言葉に、俺の胸が詰まった。
ミュールは自分の呼吸を取り戻していく。
暗殺者の無音ではない。
苦しげで、震えていて、生きている呼吸。
彼女は短剣を握り直した。
殺すためではない。
切るために。
自分を縛る線を。
ミュールの短剣が、俺の喉から少し離れた。
世界契約が命令を強める。
暗殺道具、実行。
逃亡個体、処分。
主人を殺せ。
ミュールの身体がまた動く。
だが、今度は俺へ向かわなかった。
彼女は自分の首筋の刻印へ短剣を当てた。
「ミュール!」
俺が叫ぶ。
「大丈夫」
彼女は笑った。
怖そうに。
でも、自分の声で。
「ミュールは、ミュール」
短剣が、黒い命令線を切った。
血は出ない。
代わりに、黒い光が裂ける。
夜爪の命令系統が悲鳴のような音を立て、世界契約の白い線ごと砕けた。
首筋の旧所属刻印。
隷属刻印。
逃亡個体としての処分印。
全てが、ひび割れ、剥がれ、消えていく。
ミュールは膝をついた。
俺は今度こそ踏み込み、彼女を支えた。
命令ではない。
支えるために。
ミュールは俺の服を掴んだ。
「ミュール、道具じゃない」
「ああ」
「暗殺者。でも、道具じゃない」
「ああ」
彼女は小さく息を吐いた。
「名前、持ってる」
その声は小さかった。
だが、夜爪の合図よりも強かった。
ミュールは顔を上げる。
涙で濡れた目に、もう道具の空白はない。
「ミュール、殺せる」
彼女は言った。
「でも、殺すだけじゃない」
短剣を握る手が震える。
「守るのも、できる。帰るのも、できる。選ぶのも、できる」
夜爪では、そんなことを教えられなかった。
暗殺者は任務を選ばない。
道具は使い道を選ばない。
だが、ミュールはもう道具ではない。
暗殺者であることも、彼女の全部ではない。
彼女は自分の名を持つ。
その名で、どこへ行くかを選べる。
俺はミュールを抱えたまま、彼女の呼吸を確かめる。
速い。
乱れている。
それでも、暗殺者の無音ではない。
生きている人間の呼吸だった。
ミュールは俺の服を掴む手に力を込める。
「主人」
「何だ」
「名前、呼んで」
「ミュール」
呼ぶと、彼女は小さく頷いた。
「もう一回」
「ミュール」
「うん」
そのたびに、黒い刻印の残り火が薄くなる。
名前は治癒術式ではない。
契約の反証でもない。
だが、彼女を道具から人へ戻すには、それが必要だった。
ミュールは、もう合図ではなく名前に反応していた。
それだけで、夜爪の命令は届かなくなっていく。
古い音が、遠ざかっていく。もう届かない遠い場所へ。
その言葉と同時に、世界契約の命令線に大きな穴が開いた。
だが、次の瞬間、イリスの背中の実験印が白く燃え上がる。
魔力炉が、強制的に開かれていく。
イリスが悲鳴を上げた。
「だめ、開けないで。私、燃やしてしまいます」
封印室の空気が、熱で歪み始めた。




