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第133話 名前を呼ぶ――命令に抗う者たち――

最終章の始まりです。

五人に下った命令は「主人を殺せ」。レオンは、それでも命令しないことを選びます。

 セリアの剣が、俺の胸元へ振り下ろされた。


 避けることはできた。


 命令することもできた。


 右手には、まだ白い権限の残滓がある。


 動くな。


 武器を捨てろ。


 俺を傷つけるな。


 そのどれか一つを口にすれば、セリアの剣は止まる。


 だが、俺は言わなかった。


「セリア」


 名前を呼ぶ。


 それだけを選ぶ。


 剣先が胸元に触れた。


 布が裂け、皮膚が切れる。


 熱い痛みが走り、血が滲んだ。


 深くはない。


 だが、確かに俺は傷ついた。


 その瞬間、セリアの目が大きく見開かれた。


「レオン」


 彼女の声は、壊れそうだった。


 剣を持つ腕はまだ命令に引かれている。


 だが、剣先は俺の胸で震えていた。


 止まりきってはいない。


 押し込めば、俺の心臓へ届く距離。


 それでもセリアは、そこから一寸も進めまいとしていた。


「命令してくれ」


 彼女は歯を食いしばる。


「いや、違う。するな。私は、何を」


「セリア」


 俺はもう一度呼ぶ。


 彼女の名前を。


 聖騎士でも、奴隷でも、盾でもない。


 セリア。


 彼女の剣が、ほんの少しだけ下がる。


 世界契約が怒ったように白く明滅した。


 命令文が、封印室の壁に何度も刻まれる。


 主人を殺せ。


 主人を殺せ。


 主人を殺せ。


 それは叫びではない。


 冷たい処理だった。


 何度でも同じ命令を流し、抵抗を磨り潰す仕組み。


 ミュールが横から動いた。


 短剣の軌道は、俺の脇腹へ向かっている。


 彼女なら、そこを一撃で裂ける。


 出血させ、体勢を崩し、次のナギの斬撃へ繋げられる。


 暗殺者として完璧な動きだった。


 だからこそ、彼女は泣いていた。


「ミュール」


 俺が呼ぶと、短剣の刃が震えた。


 刃先が服を掠め、脇腹に浅い線を引く。


 痛みが増える。


 ミュールの顔が歪む。


「ごめん」


「謝るな」


「でも」


「ミュールは、まだ抗ってる」


 彼女の耳が震えた。


 短剣は次の急所へ向かおうとしている。


 だが、最短ではない。


 彼女は命令の中で、わざと遅い道を選んでいる。


 イリスの魔力が膨らむ。


 封印室の空気が熱を帯びた。


 攻撃術式。


 しかも、俺を中心に爆ぜる形。


 彼女は自分の両手を抱きしめ、必死に術式を歪めていた。


「イリス」


「見ないでください」


「見る」


「撃ちたくないのに、式が組まれていくんです」


 涙が頬を伝う。


「怖い。私、自分が怖い」


「怖いままでいい」


 俺は言った。


「怖いって言えてる」


 イリスの魔力が一瞬揺らぐ。


 攻撃術式の中心が、俺の胸から床へずれた。


 ロゼッタの契約鎖が足首に食い込む。


 レオン・アルフェンを拘束。


 排除対象の逃走を禁ずる。


 そんな文字が浮かぶ。


 ロゼッタは帳簿に爪を立てていた。


「この契約は」


 声がかすれる。


「当事者同意を欠きます」


「ロゼッタ」


「ですが、世界契約は同意欄を不要としています。そんな契約、契約ではありません」


 鎖が締まる。


 俺の足首に血が滲む。


 それでも鎖は、骨を砕くほどには締まらない。


 ロゼッタが、最後のところで止めている。


 ナギの刀が、俺の退路を断っていた。


 静かな構え。


 逃げれば斬られる。


 踏み込めば斬られる。


 最も危険な間合い。


 ナギは無表情に見えた。


 だが、目だけは違った。


「ナギ」


 俺が呼ぶと、彼女の睫毛が震える。


「斬らない道」


 彼女は呟いた。


「まだ、探してる」


 五人全員が、俺へ武器を向けている。


 五人全員が、必死に抗っている。


 世界契約は、それを見て命令を強めた。


 白い光が五人の刻印へ流れ込む。


 セリアの剣が再び持ち上がる。


 ミュールの短剣が次の急所を選ぶ。


 イリスの魔力が再構築される。


 ロゼッタの鎖が増える。


 ナギの刀が、俺の首筋へ向かう角度に変わる。


 エルヴィアが静かに言った。


「これでも命じませんか」


「命じない」


 俺の声は震えていた。


 血が流れている。


 痛い。


 怖い。


 それでも、命じない。


「セリア」


 俺は呼び続ける。


「ミュール。イリス。ロゼッタ。ナギ」


 役割名ではなく、名前を。


 五人の瞳に、白い命令文と、俺の呼ぶ名前が重なる。


 セリアの剣が、俺の胸元で止まった。


 完全ではない。


 刃はまだ触れている。


 だが、押し込まれない。


 彼女の腕で、誓約痕と隷属刻印が同時に軋む音がした。


 ひびが入る。


 小さな、しかし確かな音。


 世界契約が即座に命令を強化した。


 五人の身体が、同時に動く。


 今度は一人ずつではない。


 五人全員を使って、俺を殺す連携へ移行していた。


 連携が始まる直前、俺の中に奇妙な静けさが落ちた。


 怖くないわけではない。


 むしろ、怖い。


 目の前の五人は、俺が一番信じている五人だ。


 その五人が俺を殺すために動く。


 普通の敵より、ずっと怖い。


 けれど、同時に見えているものもあった。


 セリアの剣は、最短で胸を貫けるはずなのに、わずかに右へずれている。


 ミュールは俺の死角に入るたび、一瞬だけ足音を残している。


 イリスの術式は、殺傷範囲の中心を床へ逃がそうとしている。


 ロゼッタの鎖は、俺の腕ではなく足を縛る。


 ナギの刀は、退路を断ちながらも、首ではなく肩の高さにある。


 五人は命令に引かれている。


 だが、命令そのものにはなっていない。


 その隙間に、俺は立つ。


 セリアが踏み込む。


 盾がない。


 彼女は盾を捨てたのではない。


 盾を持てば、俺を守ってしまうから、世界契約が剣だけを前へ出させている。


 それでも、左腕は無意識に盾を探していた。


「セリア」


 俺が呼ぶと、彼女の左腕が動く。


 空を掴む。


 そこには盾がない。


 だが、その動きだけで剣の軌道が崩れた。


 刃が俺の肩を掠める。


 血が飛ぶ。


 浅い。


 痛い。


 それでも生きている。


 ミュールの短剣が、次に来る。


 俺は避けない。


 避ければ、ナギの刀の間合いへ入る。


 ミュールはそれを分かっている。


 だから、短剣の柄で俺の肋骨を打った。


 刃ではなく柄。


 命令は殺せと言っている。


 彼女は、殺す動きの中で、殺さない部分を選んでいる。


 息が詰まる。


「ミュール」


 俺は呼ぶ。


 彼女は返事をしない。


 できない。


 だが、耳が震えた。


 イリスの魔力が炸裂する。


 床が割れ、白い炎が噴き上がる。


 俺の足元ではなく、半歩前。


 熱で胸元の血が乾く。


 イリスは泣きながら叫んだ。


「外しました。外せました。でも次、分かりません」


「それでいい」


 俺は言う。


「今、外せた」


 ロゼッタの鎖が俺の足を引く。


 そのまま倒せば、セリアの剣が届く。


 だが、鎖は寸前でたるんだ。


 ロゼッタが唇を噛んでいる。


「契約履行遅延」


 彼女は震える声で言う。


「不可抗力です」


「何の不可抗力だ」


「私の意思です」


 ナギが最後に入る。


 刀の切っ先が俺の喉へ向かう。


 彼女は目を閉じていない。


 俺を見ている。


「ナギ」


 俺が呼ぶ。


 刀が止まらない。


 だが、切っ先がわずかに反る。


 刃は俺の首筋の皮膚だけを裂き、奥へは入らなかった。


 血が落ちる。


 五人が同時に苦しそうな顔をする。


 俺の傷は、五人の抵抗の証でもあった。


 世界契約は、俺が傷つくほど命令権を使うと判断しているのだろう。


 だが、違う。


 傷が増えるほど、俺は分かる。


 五人はまだ戦っている。


 俺を殺す命令と、俺を殺したくない意思の間で。


 だから俺も、命令しないまま立っていられる。


 エルヴィアは、その光景を理解できないという顔で見ていた。


「なぜ、そこまで傷ついて立っていられるのです」


「五人が止めてるからだ」


「止めていません。貴方は現に傷ついている」


「殺されてない」


 俺は血の味を飲み込みながら言った。


「それだけで十分だ」


 十分なはずがない。


 普通なら。


 だが、今は普通の戦いではない。


 五人は自分の身体を奪われながら、刃の角度を一寸ずつずらしている。


 命令が十を求めるなら、九までしか渡さない。


 九を求めるなら、八まで削る。


 その小さな抵抗の積み重ねが、俺を生かしている。


 世界契約は結果しか見ない。


 殺せなかったことを、失敗として処理する。


 だが俺は、その失敗の中に五人の意思を見る。


「命令しなければ、次は深く入ります」


 エルヴィアが言う。


「かもしれない」


「死にます」


「かもしれない」


「それでも?」


 俺は五人を見た。


 全員が苦しんでいる。


 全員が俺を見ている。


「それでも、名前を呼ぶ」


 セリアの誓約痕が、また軋んだ。


 その音が、次の変化の始まりだった。


 五人同時の命令は続いている。


 だが、最初に大きく軋んだのはセリアだった。


 彼女の盾を探す左腕が、世界契約の計算から外れ始めている。


 殺すための剣と、守るための盾。


 その二つを同時に持ってきた彼女だからこそ、命令の中に矛盾が生まれていた。


 その矛盾が、希望だった。



セリアの剣と盾の矛盾が、世界契約の計算を狂わせ始めました。

殺すための命令の中に、守るための意志が残っています。

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