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第132話 主人を殺せ

世界契約は、五人へ「主人を殺せ」という命令を下します。

 世界契約の命令は、白い文字となって封印室に刻まれた。


 反抗管理者候補の排除。


 所有関係の逆用。


 命令文、確定。


 そして、最後の一文が浮かぶ。


「主人を殺せ」


 誰も息をしなかった。


 いや、できなかった。


 その言葉があまりに単純で、あまりに正確だったからだ。


 世界契約は、俺たちの関係を見ていた。


 主人。


 奴隷。


 保護。


 解放。


 信頼。


 抵抗。


 その全部を理解した上で、最も残酷な命令へ変えた。


 五人に俺を殺させる。


 俺に命令権を使わせるために。


 殺意ではない。


 だから、なおさら残酷だった。


 五人の中に俺を憎む心を作るのではない。


 五人の意思を残したまま、身体だけを殺す方向へ向ける。


 世界契約は、心を完全に壊さない。


 壊さないから、本人たちは自分の手が何をするか見ていなければならない。


 それは支配の中でも、最も嫌な形だった。


 壊して楽にするのではなく、苦しませて選択を奪う。


 そしてその苦しみを見せることで、俺に命令させようとしている。


 エルヴィアの言う保護と、同じ根から生えた刃だった。


 セリアの剣が持ち上がる。


 彼女は両手で柄を押さえ込もうとしていた。


 だが、腕が言うことを聞かない。


 剣先が俺の胸へ向く。


「レオン、下がれ」


 セリアの声は震えていた。


「いや、下がるな。違う。私は何を」


 命令が、彼女の言葉まで乱している。


 守りたい。


 遠ざけたい。


 殺したくない。


 命令に従え。


 その全部が彼女の中でぶつかっている。


 ミュールは短剣を逆手に握っていた。


 目から涙が落ちる。


「主人、ミュール見ないで」


「見る」


「見ないで」


「見る」


 俺が答えると、彼女の口元が歪んだ。


 泣き笑いに近い。


「ずるい」


 短剣の切っ先が、俺の脇腹の高さへ上がる。


 イリスは自分の両手を抱きしめていた。


 指の間から、攻撃術式の光が漏れている。


「止めてください」


 彼女は泣きながら言った。


「違います。止めないでください。いえ、でも、私、撃ちたくない」


 言葉が崩れる。


 魔力は膨らむ。


 彼女の恐怖を、世界契約が燃料にしている。


 ロゼッタの帳簿から、契約鎖が伸びていた。


 レオン・アルフェン。


 所有者。


 管理者候補。


 排除対象。


 そんな文字が浮かび、彼女の顔から血の気が引いている。


「この契約は無効です」


 ロゼッタが言う。


「無効です。無効です。なのに、筆が止まりません」


 彼女の手が、勝手に署名欄へ向かう。


 ナギは無言だった。


 刀を構え、俺を見ている。


 その目だけが、必死に抗っていた。


「レオン」


 短い呼びかけ。


 それ以上言えない。


 刀が、すでに殺す距離を測っている。


 俺の右手には、命令権があった。


 五人を止められる。


 完全に。


 止めた後の姿まで、右手には見えていた。


 セリアは剣を下ろし、膝をつく。


 ミュールは短剣を手放し、眠る。


 イリスの魔力は鎮静し、呼吸が整う。


 ロゼッタの契約鎖は消え、帳簿は閉じる。


 ナギの刀は鞘に戻り、鍵印は静まる。


 誰も死なない。


 誰も俺を傷つけない。


 見た目だけなら、救済だ。


 だが、その後の目も見えてしまう。


 目覚めた五人が、自分たちは止められたのだと知る。


 命令しないでくれと頼んだのに、命令されたのだと知る。


 俺がまた、優しい理由で主人になったのだと知る。


 その未来を見た瞬間、右手の光がひどく冷たくなった。


 動くな。


 武器を捨てろ。


 眠れ。


 俺を傷つけるな。


 言えば終わる。


 五人は俺を殺さずに済む。


 俺も死なずに済む。


 エルヴィアは、それを待っていた。


「命じなさい」


 彼女の声は、今までで一番優しかった。


「貴方が命じれば、誰も傷つかずに済みます」


「嘘だ」


 俺は言った。


「心は傷つく」


「心は、後で癒せます」


「選択を奪った傷は、癒えない」


 エルヴィアの表情が、初めて硬くなる。


「死ねば、選択もありません」


「生きて支配されることを、全員が選ぶわけじゃない」


 セリアの剣が一歩近づく。


 ミュールの短剣が横へ揺れる。


 イリスの魔力が破裂寸前になる。


 ロゼッタの契約鎖が俺の足元を縛る。


 ナギの刀が、静かに角度を変える。


 五人の連携は、今も美しい。


 だから余計に怖い。


 世界契約は、俺たちが積み上げてきた信頼を武器にしている。


 五人が俺をよく知っているから、俺を追い詰める角度も正確になる。


 俺が五人を信じているから、避けることが遅れる。


 最悪の使い方だ。


 セリアは俺の真正面を選ぶ。


 俺が彼女を信じて、盾の後ろへ立つことに慣れているから。


 ミュールは視線の外へ沈む。


 俺が彼女の気配を味方として受け入れているから。


 イリスは攻撃術式を撃つ前に、ほんのわずかに治癒術式を混ぜてしまう。


 俺を殺したくないという抵抗が、命令の中に歪みを作っている。


 ロゼッタの契約鎖は、俺の足首だけを縛る。


 本当なら全身を縛れるはずなのに、彼女はまだ逃げ道を残そうとしている。


 ナギは退路を断ちながら、急所を一つだけ空けている。


 斬らない道を探すと、彼女は言った。


 世界契約は五人の連携を利用している。


 だが、五人の抵抗もまた、その連携の中に残っている。


 俺はそれを見落とさない。


 命令されていても、五人はまだそこにいる。


 なら、俺がするべきことは命令ではない。


 呼び続けることだ。


 名前を。


 役割ではなく、名前を。


「セリア」


 剣先が震える。


「ミュール」


 短剣の角度がわずかにずれる。


「イリス」


 魔力の色が白から淡い青へ揺らぐ。


「ロゼッタ」


 契約鎖の一部が緩む。


「ナギ」


 刀の切っ先が、ほんの一瞬だけ止まる。


 十分ではない。


 命令はまだ強い。


 だが、名前は届いている。


 だが、だからこそ、命令で止めてはいけない。


 ここで命じれば、世界契約は証明する。


 結局、命令が必要だったと。


 優しい主人こそ正しかったと。


 俺は右手を開いた。


 命令権の白い光が掌に集まる。


 エルヴィアの目が、わずかに安堵する。


 俺はその光を握り潰した。


 砕けた命令権の欠片が、掌に食い込んだ。


 血が落ちる。


 白い床に、赤い点が広がる。


 その赤を見て、五人の表情が同時に歪んだ。


 命令ではない反応。


 俺が傷つくのを見た、五人自身の反応だった。


 世界契約の文字が乱れる。


 主人を殺せ。


 主人を守れ。


 主人を殺せ。


 レオンを守れ。


 役割名と名前が、術式の中で衝突する。


 その衝突が、俺たちの最後の隙になる。


 エルヴィアが、初めて声を荒げた。


「なぜです」


 白い光の中で、彼女の表情が崩れていた。


「なぜ、そこまでして命令を拒むのです。貴方は死ぬかもしれない。彼女たちは壊れるかもしれない。世界は混乱するかもしれない」


「かもしれない、で全部奪うな」


 俺は言った。


「怖い未来を理由に、今の意思を消すな」


 エルヴィアの唇が震える。


 彼女もまた、怖かったのだろう。


 自由な強者が街を焼く未来。


 弱者が踏まれる未来。


 誰も助けに来ない未来。


 その恐怖から、世界契約は生まれた。


 でも、恐怖で作った檻は、いつか恐怖で人を閉じ込める。


 俺は五人を見る。


 この恐怖の中で、命令しないと決める。


 五人もまた、俺を見ていた。


 命令に引かれながら。


 武器を向けながら。


 それでも、俺を見ることだけは手放していなかった。


 その視線が、最後の約束だった。


 助けてくれではない。


 止めてくれでもない。


 私たちを、私たちのまま見てくれ。


 そう言っている気がした。


 俺は頷く。


 痛みも、恐怖も、失敗も、全部込みで五人を見る。


 所有物としてではなく。


 保護対象としてでもなく。


 命令に抗う、五人の人間として。


 その見方だけは、世界契約に譲れない。


 ここで目を逸らせば、俺は最初から何も解放していなかったことになる。


 だから見続ける。


 五人が俺を殺そうとしている瞬間でさえ。


 五人を、五人として信じ続ける。


 それが、俺にできる唯一の抵抗だった。


 最後の抵抗だった。俺自身の抵抗だった。


「命令しない」


 白い光が砕け、右手から血が滲む。


 五人の目が見開かれた。


 世界契約の命令は止まらない。


 むしろ、さらに強くなる。


 セリアの剣が振り上げられた。


「レオン!」


 彼女の叫びは、命令ではなかった。


 助けを求める声でもない。


 自分を見失わないために、俺の名を呼んでいる。


「セリア」


 俺は呼び返した。


 剣が振り下ろされる。


 ミュールが横から飛び込む。


 イリスの魔力が白く弾ける。


 ロゼッタの契約鎖が足首を締める。


 ナギの刀が、退路を断つ。


 五人の意識は残っている。


 五人の身体は命令に引かれている。


 俺は命令しない。


 信じると決めたから。


 傷つくことになっても、それを支配の理由にしないと決めたから。


 セリアの剣が、俺の胸元へ振り下ろされた。



聖都と世界契約の章は、レオンが管理者になることを拒んだところで最大の危機へ到達しました。

次章はいよいよ最終章、主人を必要としない世界です。命令しないと決めたレオンと、自分で帰ろうとする五人の決着へ進みます。

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