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第117話 聖都へ

聖都と世界契約の始まりです。

レオンたちは、解放者の家で受け取った理由を持って聖都へ向かいます。

 解放者の家が見えなくなるまで、誰も振り返らなかった。


 振り返れば、足が止まる気がしたからだ。


 門の内側には、エナたちがいた。


 ガレスが仮補修した門。


 マルタが貼り直した配給表。


 リリアが抱えた医務室の手順書。


 ダロの庭。


 コルの薬箱。


 ロットの震える手。


 それら全部が背中にあった。


 だから、振り返らない。


 背負うのと、縛られるのは違う。


 俺たちはそれを、昨日の夜にようやく学んだ。


「歩けるか」


 セリアが聞く。


「俺に?」


「全員にだ」


 彼女は盾を背負い、街道の先を見ている。


 その首元の誓約痕には、まだ細い亀裂が光っていた。


 ミュールは道端の草を指で払う。


「馬車、二台。昨日の夜。聖都方向」


「敵か」


「商会の匂い。でも急いでる。怖がってる」


 奴隷商会すら、聖都の命令に急かされている。


 その事実は、妙な寒気を運んできた。


 イリスは観測板を布で包み、歩きながら時折開く。


「聖都方向の波形、まだ強まっています」


「近づいているからか」


「それもあります。でも、単純な距離ではありません。中継点が増えています」


 ロゼッタが帳簿へ地名を書き込む。


「教会支部、ギルド登録所、貴族家の祭壇、商会の所有権倉庫。社会の要所が、全部中継に使われている」


 ナギが東の空を見る。


「神域の道も、たぶん」


 五人の過去が、それぞれ違う場所から聖都へ繋がっていく。


 その線を辿る旅が始まった。


 最初の宿場町に着いたのは昼過ぎだった。


 以前、勇者パーティの雑用として通った町だ。


 その時は、俺の名前など誰も覚えていなかった。


 アルベルトが魔物を倒したと称えられ、俺は壊れた荷車を直し、汚れた鍋を洗い、翌朝には置いていかれそうになった。


 だが今、町の門番は俺の顔を見るなり目を見開いた。


「レオンさん?」


「知っているのか」


「王都裁判の記録石を見ました。解放者の家の」


 門番はすぐ、道を開けた。


「聖都へ向かうんでしょう。宿は無理に取らなくていい。北倉庫を使ってください」


 ロゼッタが目を細める。


「対価は」


「ありません。いや、違う。あります」


 門番は少し慌てた。


「うちの妹が、元奴隷です。王都裁判の後、再登録を断れた。あんたたちが証言台で言った『奴隷の証言にも価値がある』って言葉を、何度も言ってました」


 俺は言葉に詰まった。


 俺たちが王都で言った言葉が、こんな場所まで届いていた。


 ロゼッタが静かに礼をする。


「では、倉庫使用の記録を残します。無償ではなく、協力として」


「はい」


 門番は笑った。


「妹がそう言えって。恩じゃなくて、協力だって」


 その言い方に、少しだけ胸が熱くなる。


 俺たちは孤立していない。


 少なくとも、完全には。


 だが、町の中の異常もすぐに見えた。


 広場の片隅で、低位ジョブ登録者たちが膝をついていた。


 木工、荷運び、清掃、井戸番。


 彼らの手首に、淡い刻印光が浮かんでいる。


「職分再確認」


「役割感謝」


「 assigned duty」


 最後だけ古代語混じりだった。


 彼らは祈るように同じ言葉を繰り返している。


 誰かに鞭で打たれているわけではない。


 首輪もない。


 だが、自分の仕事以外へ目を向けることを許されていないように見えた。


 セリアの顔が険しくなる。


「奴隷ではない者まで」


「ジョブ登録の基礎にも同じ術式があるなら、当然です」


 イリスの声は悔しそうだった。


 俺は広場へ近づき、一人の若い木工へ声をかける。


「名前は」


 彼はしばらく答えられなかった。


「木工、三等」


「名前だ」


 彼の唇が震える。


「……レク」


「レク。水は飲んだか」


 彼は首を横に振る。


 ミュールが水筒を差し出した。


 レクは受け取ろうとして、手を止める。


「職分外支援、未承認」


 ロゼッタが即座に言う。


「緊急時の給水は契約外の人道支援です。受領に所有権は発生しません」


 レクは意味を全部理解したわけではないだろう。


 それでも「水」と聞いて、手を伸ばした。


 飲む。


 ただ水を飲む。


 それだけで、手首の光が少し弱まった。


 町の人々がざわめく。


 俺たちは全員を助けられない。


 だが、目の前の一人に水を渡すことはできる。


 その小さな行動を、町の誰かが見ていた。


 北倉庫へ向かう途中、年配の女が干し肉の包みを差し出した。


「持っていきな」


「対価は」


 ロゼッタが聞くと、女は笑った。


「じゃあ、うちの息子が低位ジョブでも人間だって、聖都で言ってきておくれ」


 ロゼッタは一瞬黙り、包みを受け取った。


「承りました。これは依頼として記録します」


 女は満足そうに頷いた。


 その夜、北倉庫の中で俺たちは簡単な食事を取った。


 ミュールは窓の隙間から外を見張り、ナギは屋根の上で足音を聞いている。


 セリアはレクたちの様子を見て戻り、イリスは観測板へ町の波形を書き写した。


 ロゼッタは、もらった干し肉の包みに「協力物資」と書きつけている。


「変わったな」


 俺が言うと、ロゼッタが顔を上げる。


「何がです」


「昔なら、全部借りとして数えそうだ」


「今も数えています」


 彼女は帳簿を軽く叩く。


「ただし、借りではなく関係として」


 その言葉が、この旅を少しだけ違うものにした。


 翌日も、似たことが続いた。


 小さな村で、王都裁判を聞いた神官見習いが教会の裏道を教えてくれた。


 街道の橋では、かつて解放者の家へ薬草を卸した商人が通行税を肩代わりした。


 山裾の宿では、元奴隷の少女が「名前確認の札」を真似て作った木札を見せてくれた。


 俺たちがしてきたことは、完全ではない。


 助けられなかった者もいる。


 傷つけた者もいる。


 それでも、道のあちこちに小さな返事があった。


 孤立した英雄の旅ではない。


 いくつもの小さな選択が、聖都へ向かう道を作っている。


 もちろん、全てが温かい支援ではなかった。


 次の町では、俺たちを見るなり戸を閉める者もいた。


 聖都の命令に逆らう者と関われば、職分記録に傷がつく。


 そう囁かれているらしい。


 教会支部の前では、若い司祭が俺たちを見て震えながら言った。


「世界契約に逆らえば、混乱が広がります」


「もう広がっている」


 セリアが答える。


「だから、止めに行く」


 司祭は首を振る。


「止めてはいけないのです。あれは、罪を抑えるための」


 言いかけて、彼の手首が光った。


 教会職分の刻印。


 司祭自身も命令に引かれている。


 彼は自分が信じている言葉と、言わされている言葉の違いに気づいていない顔をしていた。


 俺たちは彼を論破できなかった。


 救うこともできなかった。


 ただ、ロゼッタが異議申立ての紙を一枚置いた。


「必要になったら、読んでください」


 司祭は受け取らなかった。


 だが、紙を捨てもしなかった。


 それで十分なのかは分からない。


 でも、今できるのはそれだけだった。


 その夜、街道脇の小さな祠で休んだ。


 祠は聖都管理下のものらしく、壁には役割感謝の文句が刻まれていた。


 だが、誰かがその下に小さく別の言葉を書き足していた。


 名前を忘れるな。


 ミュールが指でなぞる。


「誰か、書いた」


「怒られそうな落書きだな」


「でも、残ってる」


 消されずに残っている。


 それだけで、聖都の支配が完全ではないと分かる。


 セリアは祠の外で見張りをしながら言った。


「王国にも、命令を疑う者はいた。声に出せぬだけで」


 ロゼッタが干し肉を切り分ける。


「商会にもいました。不正を知っていて、見ないふりをした者。何もできずに帳簿の端へ印だけ残した者」


 イリスは観測板を撫でる。


「魔塔にも、実験記録に余白を残した人がいました。私はその時、意味が分からなかった」


 ナギは空を見る。


「東雲にも、門を開けるなと言った人がいた」


 彼女たちの過去にも、小さな抵抗はあった。


 俺たちはそれを見落としていたのかもしれない。


 世界は檻だ。


 でも、檻の内側で爪を立てた跡がある。


 その跡を辿ることも、この旅の意味なのだと思った。


 だが、聖都へ近づくほど、空の光は濃くなった。


 三日目の夕方。


 丘を越えた時、遠くの空にそれが見えた。


 雲の上に浮かぶ、白い巨大な刻印陣。


 円環。


 文字列。


 祈りの鐘の波形。


 それらが重なり、空そのものを檻にしている。


 イリスの観測板が震える。


「聖都です」


 セリアの誓約痕が熱を持つ。


 ミュールの耳が伏せる。


 ロゼッタの帳簿の金具が鳴る。


 ナギの鍵印が青く光る。


 俺の右手もまた、熱を取り戻した。


 遠景の聖都は、美しかった。


 だからこそ、恐ろしかった。


 美しいものが、人を救うとは限らない。


 白い光の下で、俺たちは丘を降りた。


 背後には、いくつもの小さな支援がある。


 前方には、世界を覆う巨大な檻がある。


 その差があまりに大きくて、足がすくみそうになる。


 だが、小さなものを軽く見た瞬間、俺たちはまた管理者の目になる。


 だから、一歩ずつ進む。


 名前を書いた木札や、受け取られなかった異議申立ての紙や、干し肉の包みを、全部道の一部として。

聖都へ向かう道には、名前を書いた木札や、受け取られなかった異議申立ての紙もありました。

小さなものを軽く見ないことが、管理者の目に抗う最初の一歩です。

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