第011話 勇者パーティ、野営に失敗する
今回は勇者パーティ側の話です。
レオンが抜けた後、彼らが何を失ったのかが少しずつ見えてきます。
勇者アルベルトは、泥のついた白い外套を見下ろしていた。
昨日までなら、外套が泥で汚れる前にレオンが気づいた。
雨上がりの道では裾を留める紐を出し、沼地へ近づく前には迂回路を提案し、馬車が沈みそうな場所には先に枝を敷いた。
だが今、そのレオンはいない。
いないから、外套は泥まみれになった。
馬車の左後輪は折れた。
薬箱は横倒しになり、中の瓶が三本割れた。
クラウスの予備魔石は見つからない。
フィーネは右手首を押さえたまま黙っている。
ダリオは折れかけた剣を見て舌打ちしている。
リリアは湿気を吸った祈祷具を布で拭いている。
「何をしている」
アルベルトは低く言った。
「早く馬車を直せ」
ダリオが顔を上げる。
「俺に言ってんのか?」
「他に誰がいる」
「俺は剣士だぞ。車輪なんか直せるか」
「クラウス」
アルベルトが視線を向けると、魔導師クラウスは不機嫌そうに杖を抱えた。
「魔法で車軸を直せと? 木材の補強ならできなくはないが、魔石が足りない」
「なぜ足りない」
「知らん。いつも予備を管理していたのはレオンだ」
その名が出た瞬間、アルベルトの眉が跳ねた。
「あいつの名前を出すな」
「事実を言っただけだ」
「予備魔石くらい自分で管理しろ」
「では、聖剣の浄化くらい自分でやったらどうだ」
クラウスの声に苛立ちが混じる。
アルベルトの手が聖剣の柄に触れた。
鞘の奥から、濁った光が滲む。
昨夜、浄化をしていない。
正確には、やろうとした。
だが手順がわからなかった。
聖銀布を探したが、どの箱に入っているのかわからない。
リリアに頼もうとしたが、彼女の祈祷具も湿っていた。
結局、明日でいいと後回しにした。
そして今、聖剣は機嫌を損ねている。
「リリア」
アルベルトは聖女へ声をかけた。
「浄化を」
「道具が濡れています。乾かさないと、祝福が乱れます」
「それくらい何とかしろ」
リリアの肩がびくりと動いた。
アルベルトは言った後で、少しだけ強すぎたかと思った。
だが、謝らなかった。
勇者が謝れば、場の中心が揺らぐ。
そう教えられてきた。
「まず野営の準備をしましょう」
フィーネが静かに言った。
「日が暮れます」
「そうだな」
アルベルトは周囲を見た。
沼地の近く。
湿った地面。
風通しは悪い。
魔物の足跡もある。
野営地としては最悪に近い。
だが、馬車は動かない。
ここで夜を越すしかない。
「火を起こせ」
ダリオが枝を集めに行く。
クラウスは魔法で火をつけようとしたが、湿った枝は煙ばかり出した。
「もっと乾いた枝を」
「この辺にあるかよ」
「レオンなら」
フィーネが言いかけ、口を閉じた。
アルベルトは聞こえないふりをした。
やがて、どうにか火はついた。
だが煙がひどい。
風向きも悪く、全員の目にしみる。
次は食事だった。
保存食の樽を開ける。
上に積まれていたせいで、蓋が割れて中身が湿っていた。
乾燥肉は固い。
豆は水に浸していない。
香草の袋は薬箱の中で潰れている。
「これを食うのか」
ダリオが顔をしかめる。
「贅沢を言うな」
アルベルトはそう言ったが、自分でも食欲は湧かなかった。
レオンがいた頃の食事を思い出す。
保存食でも、香草と油で炒めれば食べられた。
豆は前夜から水に浸してあった。
疲れている時は塩分を多めにし、寒い夜は体を温める根菜を入れた。
そんなこと、誰でもできると思っていた。
できなかった。
「薬は」
フィーネが右手首を押さえる。
「湿布が欲しい」
リリアが薬箱を開けた。
中はひどい状態だった。
瓶が割れ、薬草が濡れ、粉薬の袋が破れて混ざっている。
「どれが湿布用か」
リリアが困惑する。
薬草袋には色紐がついていた。
赤、青、黄、黒。
だが、何色が何を示すのか誰も覚えていない。
「レオンがいつも」
「だから、その名前を出すなと言っている!」
アルベルトの声が野営地に響いた。
全員が黙る。
自分でも、声が大きすぎたと思った。
だが、謝らない。
謝れば、認めることになる。
レオンが必要だったと。
自分たちが、便利なだけの男に支えられていたと。
「あいつは荷物持ちだ」
アルベルトは自分に言い聞かせるように言った。
「荷物持ち一人が抜けたくらいで、俺たちが困るはずがない」
その時、森の奥で何かが鳴いた。
低い唸り声。
クラウスが杖を構える。
「索敵結界は?」
リリアが青ざめた。
「張っていません」
「なぜ」
「いつも、野営前にレオンさんが魔物除けの香と一緒に準備していて」
再び沈黙。
アルベルトは聖剣を抜いた。
濁った光が刀身を走る。
普段より重い。
手にまとわりつくような感覚がある。
「来るぞ」
ダリオが剣を構えた瞬間、刃に亀裂が入った。
「は?」
魔物が茂みから飛び出す。
沼牙猪。
低級より少し上。
本来なら勇者パーティの敵ではない。
だが、今は火も煙も悪く、足場も悪く、装備も悪い。
クラウスの魔法は一発目で外れた。
湿気で杖の魔力伝導が乱れている。
フィーネの矢は遅れた。
手首の痛みで弦を引ききれない。
ダリオの剣は二度目の打ち合いで折れた。
リリアの癒やしは弱い。
祈祷具が湿っている。
アルベルトは聖剣で猪を斬った。
それでも斬れた。
勇者の力は本物だ。
だが、刀身から跳ね返った濁った魔力が腕を痺れさせた。
「くそっ」
沼牙猪は倒れた。
倒れたが、誰も勝利を喜ばなかった。
ダリオは折れた剣を見つめている。
フィーネは手首を押さえ、リリアは泣きそうな顔で薬箱を見ている。
クラウスは杖を地面に叩きつけた。
「無理だ」
クラウスが言った。
「この状態で王都へ戻るのは無理だ。装備も薬も整っていない。馬車も動かない」
「なら直せ」
「だから、誰が直すんだ」
クラウスはアルベルトを睨んだ。
「レオンを呼び戻せばいい」
その言葉は、ついに誰かの口から出た。
アルベルトの中で、何かが切れた。
「ふざけるな!」
全員が息を呑む。
「あいつは俺が追放した! 無能だからだ! 寄生していたからだ! 勇者パーティにふさわしくないからだ!」
「でも」
フィーネが小さく言った。
「今、困っているのは事実だよ」
アルベルトは彼女を睨んだ。
フィーネはそれ以上言わなかった。
野営地には煙が満ちている。
飯はまずい。
薬は使えない。
馬車は壊れた。
聖剣は重い。
そして、誰も次に何をすべきかわからない。
アルベルトは歯を食いしばった。
認めない。
認めるわけにはいかない。
レオンがいなければ困るなど。
便利なだけの男が、勇者パーティの足元を支えていたなど。
そんなことを認めたら、自分は何を追放したことになる。
ただの雑用係ではない。
自分たちの旅そのものを、切り捨てたことになる。
「明日、王都に戻る」
アルベルトは言った。
「馬車は」
「捨てる。荷物も最低限でいい」
「薬も?」
「必要なものだけ持て」
リリアが薬箱を見る。
どれが必要なのか、彼女にはわからなかった。
アルベルトは背を向けた。
火の煙が目にしみる。
涙が出そうになる。
だが、それは煙のせいだ。
決して、後悔ではない。
そう思い込むには、まだ夜が長すぎた。
夜半、雨が降り出した。
レオンがいれば、雲の流れを見て先に天幕の張り方を変えていただろう。
だが今の天幕は、風上に隙間がある。
雨水はそこから入り込み、荷物の下へ流れた。
リリアが慌てて祈祷具を抱え上げる。
フィーネは濡れた弓弦を見て青ざめる。
クラウスは魔導書を外套で包み、ダリオは折れた剣を胸に抱えたまま悪態をついた。
アルベルトは眠れなかった。
雨音の中で、何度も思い出す。
レオンが夜中に起きて、黙って天幕の縄を張り直していたこと。
朝になっても誰も気づかなかったこと。
気づかなかったから、誰も礼を言わなかったこと。
礼を言われなかった仕事は、存在しなかったことになるのだろうか。
アルベルトは頭を振った。
違う。
勇者である自分が、そんなことを考える必要はない。
ただ、雨は止まない。
濡れた地面は冷たい。
そして誰も、眠りながら火を守る方法を知らなかった。
夜明け前、火は消えた。
最初に気づいたのはリリアだった。
冷え切った鍋、湿った薪、白い灰。
朝食を作るどころではない。
アルベルトは苛立ちを隠せないまま起き上がった。
「火くらい、またつければいい」
クラウスが無言で杖を持ち上げる。
だが、魔石が足りない。
濡れた薪は燃えにくい。
結局、朝食は固い乾燥肉を噛むだけになった。
誰も文句を言わなかった。
文句を言えば、またレオンの名前が出そうだったからだ。
アルベルトは乾いた肉を噛み砕き、無理やり飲み込んだ。
味はしない。
ただ、ひどく硬かった。
昨夜まで当たり前だった温かい朝食が、急に遠いものに思えた。
その遠さを認めるには、彼の誇りはまだ高すぎた。
朝日は、容赦なく昇っていく。
勇者パーティは、まだレオンの価値を認められません。
けれど、食事も装備も索敵も、当たり前だったものほど失ってから響きます。
次回はレオンたちに戻り、セリアの装備を直すため鍛冶屋へ向かいます。
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