第010話 雑用係の戦い方
泥牙狼の変異種が、低く唸った。
昨日見た個体より一回り大きい。
体にまとった泥は黒く、腐食毒を含んでいるのか、落ちた草がじゅうと音を立てて枯れていく。
額には折れた角兎の角が刺さったままだ。
痛みで気が立っている。
最悪だ。
だが、最悪にも種類がある。
理屈が通じない最悪と、対処の順番がある最悪。
これは後者だ。
「セリア、正面を十数える間だけ止める」
「その後は」
「倒木の右へ誘導。窪地に落とす」
「落ちると思うか」
「落とす」
俺は背嚢を探った。
粘着薬の残り。
角兎の血。
刺激煙草。
火打ち石。
縄。
足りない。
だが、あるものでやるしかない。
変異種が地面を蹴った。
「来る!」
セリアが前へ出る。
木盾を構え、右足を半歩引いた。
さっき俺が言った受け方だ。
変異種の突進。
盾と牙がぶつかった。
木盾が悲鳴のような音を立てる。
セリアの体が後ろへ滑った。
それでも倒れない。
「一!」
俺は数えながら、倒木の根元へ走る。
泥牙狼は正面の獲物に意識を向ける。
セリアが剣を振る。
浅い。
今の彼女の力では、泥をまとった毛皮を断ち切れない。
だが、それでいい。
傷つけるのが目的ではない。
怒らせるのが目的だ。
「二! 三!」
俺は倒木の根元に縄を結び、窪地の縁へ回す。
片側を細い枝に固定。
強度は足りない。
だが、足を取るだけなら使える。
「四!」
変異種が牙を振る。
セリアが盾で受ける。
木盾の端が砕けた。
腐食泥が彼女の腕に散る。
「っ」
セリアの顔が歪む。
「五! 下がれ!」
「まだだ!」
彼女は下がらない。
騎士としての意地か。
それとも、逃げるという選択肢がうまく取れないのか。
俺は舌打ちした。
「セリア! 勝つために下がれ!」
その言葉で、彼女の足が動いた。
命令ではなく、作戦。
彼女にはその形が一番届く。
セリアは盾を斜めに構え、変異種の突進を受け流す。
巨体の進路がずれた。
俺は粘着薬を投げる。
泥と粘液が混ざり、変異種の前脚に絡む。
だが止まらない。
力が強すぎる。
「六! 七!」
俺は角兎の血を窪地の向こうへ撒いた。
変異種の鼻が動く。
飢えと怒りで、注意がそちらへ向く。
セリアが横へ跳ぶ。
変異種が追う。
「八!」
俺は刺激煙草に火をつけ、変異種の後ろへ投げる。
白い煙が広がる。
泥牙狼系は、この煙を嫌う。
後ろを塞がれたと感じれば、前へ出る。
「九!」
変異種が窪地へ向かって突進する。
だが、縁の手前で止まりかけた。
本能で危険を察したらしい。
賢い。
嫌になるくらい賢い。
「十!」
俺は縄を引いた。
変異種の前脚に縄がかかる。
完全には絡まない。
だが、一瞬だけ重心が崩れた。
「セリア!」
彼女はすでに動いていた。
砕けかけた盾を捨て、両手で剣を握る。
狙うのは胴ではない。
額に刺さった角兎の角。
セリアの剣が、角を打った。
折れた角がさらに奥へ押し込まれる。
変異種が絶叫した。
痛みで暴れ、足元が滑る。
巨体が窪地へ落ちた。
地面が揺れる。
だが、まだ終わらない。
窪地は浅い。
あの大きさなら、すぐ這い上がる。
俺は背嚢から最後の薬瓶を取り出した。
月光蘭の抽出液。
本当は売るはずだった。
解呪資金になるはずだった。
「高いんだぞ、これ」
俺は瓶を窪地へ投げ込んだ。
月光蘭の液体が腐食泥と反応し、青白い煙を上げる。
毒性が弱まり、泥が硬化する。
変異種の脚が固まった。
「今だ!」
セリアが跳んだ。
弱体化しているとは思えない踏み込み。
いや、違う。
力は戻っていない。
それでも技がある。
体の使い方を知っている。
彼女の剣は、変異種の首筋にある泥の薄い部分へ入った。
一撃では浅い。
「もう一度!」
俺は短剣を投げた。
刃ではなく柄を、変異種の目元へ。
注意が逸れる。
セリアの二撃目。
今度は深く入った。
変異種が暴れ、やがて動かなくなる。
森に静けさが戻った。
俺は膝をついた。
息が切れている。
手が震える。
月光蘭の抽出液は失った。
盾は壊れた。
薬もほとんど使い切った。
収支で言えば、かなり怪しい。
だが、生きている。
セリアも立っている。
「怪我は」
俺が尋ねると、彼女は左腕を見た。
腐食泥がかかった部分が赤く腫れている。
「軽い」
「見せろ」
「命令か」
「治療担当としての要求だ」
セリアは少しだけ迷い、腕を差し出した。
俺は応急薬を塗る。
腐食毒は浅い。
跡は残らないだろう。
「貴殿は」
「俺?」
「自分の怪我を後回しにする癖がある」
言われて、自分の肩が裂けていることに気づいた。
変異種の牙が掠めたらしい。
「軽い」
「見せろ」
「命令か」
「治療対象としての要求だ」
真顔で返された。
俺は少し笑ってしまった。
「使い方がうまくなったな」
「貴殿の真似だ」
セリアは俺の肩を確認し、布を押し当てた。
手つきは不器用ではない。
聖騎士団で応急処置も学んでいたのだろう。
「レオン」
「何だ」
「先ほどの戦い、貴殿がいなければ私は死んでいた」
「俺も君がいなければ死んでいた」
「そうか」
セリアは変異種の死骸を見た。
「なら、これは共同戦果だ」
「ああ」
共同。
その言葉が、思ったより胸に残った。
俺たちは素材を回収し、町へ戻った。
変異種の牙と皮は高く売れる。
角兎の素材もある。
壊れた盾と失った薬を差し引いても、黒字だ。
ギルドへ戻ると、マルタが受付で俺たちを見た瞬間、顔をしかめた。
「どうして低級討伐でそんな姿になるんですか」
「想定外が出ました」
「あなたの想定外は、だいたい私の胃に悪いです」
査定場に変異種の牙を出すと、周囲がざわついた。
「泥牙狼の変異種?」
「新米が?」
「あの首輪付きの女がやったのか」
視線がセリアに集まる。
彼女は背筋を伸ばしたまま、何も言わない。
マルタは素材を確認し、俺を見る目を変えた。
「レオンさん」
「はい」
「あなた、前衛ではないと言いましたね」
「はい」
「では、これは何ですか」
「雑用係の戦い方です」
マルタは数秒黙り、深くため息をついた。
「その雑用係、定義を見直す必要がありそうですね」
報酬は思ったより多かった。
解呪素材の購入にはまだ足りないが、聖銀加工の相談に行く余裕はできた。
ギルドを出る頃には、夕方になっていた。
その頃、遠く離れた街道では、勇者パーティが泥にまみれた馬車の前で立ち尽くしていた。
車軸は折れ、薬箱はひっくり返り、聖剣の鞘からは濁った光が漏れている。
そしてアルベルトは、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
「……なぜ、こんなことになっている」
その呟きに答える者はいなかった。
ただ、レオンがいなくなって最初の旅路が、すでにどこか噛み合っていないことだけは全員が感じ始めていた。
その不調の正体を、彼らはまだ言葉にできなかった。
一方その頃、ラグノールのギルドでは、俺とセリアの戦果が掲示板の端に小さく記録されていた。
角兎二体。
泥牙狼変異種一体。
低級討伐依頼中の想定外遭遇。
被害軽微。
文字にすればそれだけだ。
だが、周囲の冒険者たちはその短い記録を見て、何度も俺たちのほうを振り返った。
「あの首輪付き、本当に元聖騎士か」
「隣の男は何だ。魔法使いには見えねえぞ」
「罠師か? 薬師か?」
「雑用係だって聞いたが」
最後の言葉に、何人かが笑った。
だがその笑いは、王都で聞いたものとは少し違う。
馬鹿にするというより、正体のわからないものを測りかねる笑いだった。
俺は報酬袋を受け取りながら、マルタの視線を感じた。
「目立ちましたね」
「そのつもりはありませんでした」
「そういう人ほど、妙な目立ち方をします」
まったく否定できなかった。
セリアは掲示板の記録を一度だけ見て、静かに目を伏せた。
彼女の名前は、奴隷番号ではなく申告名で書かれている。
セリア・アルトレイン。
ただそれだけのことが、彼女には少し重かったのかもしれない。
王都で罪人として消された名前が、辺境の安い木札の上とはいえ、討伐の成果として残っている。
名誉回復には程遠い。
それでも、檻の中の値札よりはずっとましだった。
少なくとも、そこには値段ではなく、彼女が自分の足で立って戦った事実が書かれている。
誰かに所有された記録ではない。
誰かを守り、生き残った記録だ。
それが少し嬉しかった。
俺はその横顔を見て、報酬袋を握り直した。
金はまだ足りない。
素材も足りない。
けれど、今日の戦いで一つだけ手に入れたものがある。
彼女の名前を、檻の外に出すための最初の実績だ。
それは金貨よりも扱いが難しく、たぶんずっと価値がある。
俺たちはその重さを、まだうまく言葉にできなかった。
だから黙って歩いた。
その沈黙も、今は悪くなかった。
並んで歩けているからだ。
それでいい。




