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第107話 三つの亀裂

 観測板の上で、三つの光が揺れていた。


 セリアの誓約痕。


 ミュールの旧所属刻印。


 イリスの実験印。


 それぞれ違う色で、違う波形をしている。


 けれど、中心に走る細い亀裂だけは同じだった。


「完全解除ではありません」


 イリスは額の汗を拭いながら言った。


 広域遮断結界を張った直後で、声にはまだ疲労が残っている。


 それでも観測板を見る目は、魔導師のものに戻っていた。


「命令系統が切れたわけではありません。外部から強い命令を受ければ、また反応する可能性はあります」


「では、意味は薄いのか」


 セリアが問う。


 本人は平然としているように見せているが、首元にはまだ淡い熱がある。


 盾を持つ手も、少し遅れて震えていた。


 ガルドとの対話で、彼女は剣を振るうよりずっと深い場所を削られた。


「薄くありません」


 イリスは即答した。


「命令を拒む時、普通は刻印側が本人の意思を上書きします。でも今の亀裂は、本人の言葉が刻印の命令線に割り込んだ痕です」


「割り込んだ」


「はい。セリアさんは王国法ではなく、自分の誓いを選んだ。ミュールさんは夜爪の命令音ではなく、自分の名前を選んだ。私は魔塔の危険物分類ではなく、魔導師としての手順を選んだ」


 イリスは観測板に指を置く。


「その選択が、記録されています」


 記録。


 ロゼッタがその言葉に反応して帳簿を開いた。


「刻印側にも記録が残る、ということですか」


「たぶん。少なくとも中枢には見えたはずです」


 その場の空気が少し重くなる。


 見えた。


 つまり、敵にも知られた。


 俺は右手を握る。


「中枢は、亀裂をどう見る」


「異常値として見ると思います」


 イリスは少し考えてから答えた。


「管理者権限による解除ではない。所有者命令による上書きでもない。本人意思が、分類命令を拒んだ」


「嫌な顔をしそうだな」


「顔があれば、していると思います」


 マルタが乾いた笑いを漏らした。


 医務室には、まだ命令波に耐えた者たちが横になっている。


 エナは水を飲み終え、胸の上の木札を指でなぞっていた。


 ダロは庭へ戻りたそうに何度も扉を見るが、今は座っている。


 コルは薬箱の中身を並べ直している。


 誰も完全には落ち着いていない。


 それでも、さっきまでとは違う。


 命令に引かれ、戻った。


 その経験が、彼らの中に残っている。


「レオンさん」


 リリアが観測板ではなく、俺の右手を見た。


「さっきから、手が光っています」


 見ると、確かに薄い光が指の隙間から漏れていた。


 管理者権限の欠片。


 命令波を待つ熱ではない。


 亀裂に反応している。


 俺が三人へ触れれば、この亀裂を広げられるかもしれない。


 完全解除へ近づけられるかもしれない。


 王都地下で見た巨大な壁を思い出す。


 無数の名前が、名前ではなく分類として並んでいた。


 逃亡。


 危険物。


 債務。


 鍵。


 不良資産。


 人間の一生を、たった一語で片づける冷たい仕組み。


 あの壁を前にした時、俺は怒った。


 怒ったからこそ、壊したいと思った。


 けれど、壊す力が俺の手の中にあると気づいた瞬間、その怒りは別のものに変わる。


 俺が選んでやる。


 俺が解放してやる。


 俺が正しい場所へ導いてやる。


 言葉だけなら、アルベルトと何が違う。


 ぞっとした。


 自分の中にある善意が、支配の形を取ろうとしていることに。


 胸の奥に、甘い誘惑が落ちてくる。


 今ならできる。


 全員を助けられる。


 俺が管理者になれば、もう誰も命令に引かれない。


 その声は、外からではなかった。


 俺の内側にある権限の欠片が、そう囁いているようだった。


「レオン」


 ロゼッタの声が飛ぶ。


 俺は瞬きした。


 右手が、セリアの刻印へ伸びかけていた。


 セリアは避けなかった。


 だが、俺は自分で手を止める。


「すまない」


 右手の光は、止めてもすぐには消えなかった。


 むしろ、三つの亀裂へ触れたがっているように脈打つ。


 その熱を感じるたび、俺の中の焦りが大きくなる。


 外には敵がいる。


 家の中には守るべき人がいる。


 今すぐ解除できるなら、やるべきではないのか。


 そう考える俺と、いや、それは違うと止める俺が、胸の中でぶつかる。


 セリアはその葛藤を見ていた。


 ミュールも、イリスも、何も言わない。


 責めない沈黙は、俺に逃げ道を与えなかった。


「触れるつもりだったか」


 セリアの声は責めていない。


 それが余計に痛かった。


「たぶん。完全解除できるかもしれないと思った」


「貴殿がそう思うこと自体は、責めぬ」


 セリアは盾を床へ置く。


「だが、今は違う」


「分かってる」


 俺は右手を左手で押さえた。


 分かっている。


 この亀裂は、三人が自分で作ったものだ。


 俺が勝手に広げれば、それはまた俺の力で書き換えることになる。


 助ける形をした支配だ。


 イリスが観測板を伏せる。


「亀裂は保存します。今すぐ拡張しません」


「危険か」


「危険です。でも、希望でもあります」


 彼女は自分の胸元に触れた。


「私たちが自分で拒めると分かった。それを次に繋げられます」


 ミュールが黒布を握ったまま、壁にもたれている。


「次って、また来る?」


「来ます」


 ロゼッタが帳簿から目を上げた。


「敵は今、最初の再回収命令に失敗しました。門の強行も、個別鎖の刺激も、魔塔式増幅も決定打になっていません」


「なら諦めるか」


 ガレスが言うと、ロゼッタは首を振った。


「商人は損切りができます。でも今回の相手は、損切りより面子を優先する構造です。王国臨時保安隊、奴隷商会、魔塔残党、夜爪の残り香。どれも自分だけが引くわけにはいかない」


 つまり、失敗したからこそ、次は大きくなる。


 外の敵だけではない。


 家の中にも、まだ揺れは残っている。


 命令波に引かれた者たちは、口では「戻れた」と言えても、身体の奥に恐怖が残っている。


 もし次にもっと強い波が来たら。


 もし誰かが本当に門へ歩いてしまったら。


 もし、自分だけが皆を危険に晒すなら。


 その不安は、本人の責任感を装って忍び込む。


 出ていけば迷惑をかけない。


 自分が捕まれば家は守られる。


 敵は、そう思わせるのがうまい。


 奴隷商会も、夜爪も、魔塔も、王国も、違う言葉で同じことをしてきた。


 お前のためだ。


 皆のためだ。


 だから従え。


 それを断ち切るには、戦闘力だけでは足りない。


 選んで残れる場所を、家の内側に作り続ける必要がある。


 門の外で、号令が変わった。


 押し込みの音が止む。


 代わりに、荷馬車の車輪が動く音が聞こえた。


 ギシギシと、複数の車輪が道を塞ぐ。


 リリアが窓から外を覗き、顔色を変えた。


「街道に、荷馬車を並べています」


 ロゼッタがすぐ立ち上がる。


「門前だけですか」


「いいえ。西の井戸道にも。南の畑道にも」


 ガレスが舌打ちした。


「包囲か」


「兵糧攻め、ですね」


 ロゼッタの声が冷える。


「短期再回収から、長期封鎖へ切り替えたのでしょう」


 医務室の中で、誰かが息を呑んだ。


 解放者の家には病人がいる。


 子どもがいる。


 食料も薬も、無限ではない。


 さっき亀裂を見て希望を感じた者たちの顔にも、現実の色が戻っていく。


 自由へ近づいたからといって、腹は膨れない。


 命令を拒めたからといって、水桶が満ちるわけではない。


 むしろ敵は、心が立ち上がった直後を狙ってくる。


 希望があるからこそ、失う恐怖も大きくなる。


 俺はそれを見て、拳を握り直した。


 亀裂を守るには、理念だけでは足りない。


 水と飯と寝床を守らなければならない。


 敵はそれを知っている。


 だから、門を破るのではなく、家を閉じ込める。


 外へ出られなくし、内側の不安を育てる。


 命令波より古く、単純で、だからこそ厄介な方法だ。


 俺は窓の外を見た。


 奴隷商会の荷馬車が、道の真ん中に斜めに止められている。


 幌の隙間から、鎖の音がした。


 中に何かを積んでいる。


 食料ではない。


 人か、拘束具か、あるいはその両方。


 荷馬車の横では、商会の男たちが火を焚き始めた。


 わざと見える場所で、暖かい湯気を立てている。


 こちらの水が限られていることを知っているのだ。


 門の近くに立つ子どもが、その湯気を見て唇を噛んだ。


 マルタがすぐに窓を閉める。


「見せつけていますね」


「心理戦か」


「はい。包囲は胃と喉から始まります」


 彼女の声は苦かった。


 何度も修羅場を見てきた受付嬢の声だ。


 俺は食堂の方へ視線を向ける。


 今のうちに、水と食料の配分を決めなければならない。


 遅れれば、敵に決めさせることになる。


 隊長が門の外で告げた。


「解放者の家に告げる。所有権照合が完了するまで、当区域の出入りを制限する」


 ロゼッタが小さく息を吐く。


「言い換えれば、包囲です」


 セリアが盾を持ち上げる。


 ミュールが黒布を懐にしまう。


 イリスが観測板を抱える。


 三つの亀裂が、まだ淡く光っていた。


 それは勝利の印ではない。


 次の攻撃を呼び寄せる、目印でもある。


 防衛戦は、門前の一撃から、家全体を締め上げる包囲へ変わった。


 そして包囲とは、壁の外にいる敵だけではなく、壁の内側に生まれる不安とも戦うことなのだと、俺はようやく理解した。

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